3
ドアロックが解除される音。
扉を開けると、炒め物の焼ける音と、ケチャップの香りがした。
「小松爺さん、客は」
カウンターに声をかけると、爺さんは新聞を読んでいた。何かあったのだろうか、電話の上機嫌とは違い、不愛想だった。
「寝ちまったよ。奥のベッドだ」
「……ありがとう」
「おい、こちとら商売だ。何か頼め」
僕はため息を付いた。仲介料でごっそり儲けているだろうに。
「……なら、目覚めにいいものを」
「ミラク」
「ホットミルクでいいか」
爺さんが呼ぶと、カウンター奥でフライパンを操っていたミラクが振り向きもせずに言った。棚から新しい鍋を出す。
「構わないけれど、僕の客はホットミルクを好みそうな相手なのか」
「好みそうも何も」
「ミラク、黙ってろ」
「悪趣味だよ、爺さん。っつーか、あの客は種村の」
「うるせえ、いいから黙ってろ」
「はいはい、分かった分かった。どうせ会えば分かる話だ。種村、あとで持って行ってやるから」
「ありがとう」
「……生切」
奥の部屋に行こうとする僕を爺さんが呼び止めた。
「こんなこと、いつまで続けるつもりだ」
「こんなこと? 何の話だよ」
爺さんの前にパスタの皿が置かれる。
「ミラク、ソース」
「死ぬぞジジイ」
「笑わせるな」
ミートソースの上に、注がれる黒い液体。鷲掴みした箸でくちゃくちゃと混ぜる。
「……一年前、お前は初めてこの店にやってきて、俺に聞いた。神矢陣という男を探している。理由は言わなかったが、顔を見りゃ大体の想像は付く。そもそも金銭以外で、殺し屋が誰かを追う理由なんて一つしかない」
「分かってる。復讐だろ」
「それからしばらく経って、もう一度ここにやってきたお前は、同じ質問をした。それからお前との付き合いが始まったが……やっぱり今のお前は何か違う」
「……それは、話したはずだ」
「ああ、記憶喪失ってやつだろ。それも頭をかち割られた訳じゃなければ、ヤクに手を出した訳でもない。寝て、起きたら、記憶が飛んだってバカげた話だ」
「……疑っているのか」
僕が訊ねると、爺さんは首を振り、そしてパスタに手を付けた。
「冤罪を訴える場合、これほど空々しい理由は他にないだろう。だが、今はどうでもいいことだ。俺が言いたいのは」
「過去にこだわる者は未来を失う」
口を挟んだミラクを、爺さんが睨みつける。そんな爺さんを見向きもせずミラクは木べらで鍋のミルクを掻き回していた。
「爺さんの言いたいことは私も分からんでもないよ。要はこういうことだろ。今の種村には復讐心が感じられない。にも関わらず、未だに神矢という男を追い続けている。そんなの無意味だろって」
「……そうなのか、爺さん」
爺さんは何も言わなかった。ただ無心にパスタを口に放り込んでいた。
だが、それは何よりも肯定の証だった。
「……復讐心か。確かにそういう感情はないかもしれない」
僕は煙草に火を付けた。無意識に座席の金属部分を爪先で蹴っていた。
「だが僕が何をしようと、爺さんには関係ない話だ。爺さんが仕事を紹介して、僕がそれを受ける。それ以上でもそれ以下でもない。違うか?」
「種村」
ミラクの手が止まった。
「……言い過ぎだよ」
彼女が爺さんを庇うのは意外だった。
「……なぜこんな話を」
「爺さんがあんたの客から話を聞いたんだよ」
「客から……どんな話を?」
「教えてやろうか。どうやら、あのガキも追ってるとさ……その神矢陣って男を」