7
普段の僕はアラームを設定しなくても、午前八時になると自然と目が覚める。
なのに、この日は違った。
「……もう昼か」
ドライヤーの音がしていた。
切波はこちらに背を向けて、コンセントを刺せる壁の傍に座り込んでいた。小さな声で鼻歌を歌っていたが、ドライヤーの騒音でほとんどかき消されていた。僕が目覚めたのに気が付いていないようだ。
僕は立ち上がった。床の軋む音。
彼女の顔が即座にこちらを向いた。
「あっ……おはよう」
「……いいから、上着を着ろ」
「えっ……あっ」
彼女は自分の姿を省みた。その後、慌てて鞄を探る音。僕は彼女を視界から外し、パソコンの電源を入れる。
リビングの机には、僕の知らない本が開いてあった。観たのは一瞬だったが、魔術書だとすぐに分かった。
「眠ったのか?」
僕は言った。キッチンの棚からコップを手に取る。台所では、蛇口から雫が漏れていた。
さっきの夢で見た情景と重なった。
「ええ、少しは」
「……それで朝早くから魔術の復習か」
コップに水を入れ、蛇口を強く捻って閉める。水を喉に流し込んだ。水道水独特の生臭さが鼻に付いた。
「悪い?」
「いや……」
育ちの良さを皮肉ってやろうかとも思ったが、やめておいた。少女の眉間の皺が寄るのを見る趣味はない。
「……それにしても殺風景な部屋ね。一人暮らしをしている男性の部屋って、みんなこんなもの?」
「……かもな」
爺さんのバーから自宅に戻るまでの切波命を僕は思い出していた。駅や電車、帰り道にあるスーパーマーケットにいちいち目を輝かせる彼女の姿を。
「そんなことより試験の準備はできたのか」
「えっ、ええ……」
「言っておくが、付け焼刃の技術は実戦では通用しないぞ」
「付け焼刃なんかじゃないわよッ。さ、最近は偏った練習をしてたから少し思い出しておこうと思っただけ」
「……まあ満足するまで好きすればいいさ」
どうせ頭で記憶した技術など役に立たない。
「なんか、いちいち棘があるのよね……あなた」
「他人を気遣わない主義なんだ。悪いか?」
「悪いわよ。だって性格が悪い相手とパートナーになるのはストレスだもの」
「すでに勝った気でいるあんたの性格もなかなかだと思うけれど」
「勝算はあるわ……そうじゃなければここにいないわよ」
「……それもそうか」
僕は上着を脱いだ。
「な、何のつもり?」
「……何って風呂に入ろうと思って」
「あ、ああ……そうなの。でも、試験はいつ?」
「……一時間後にこのビルの屋上でやろう。それまでにせいぜい思い出しておけ」
「言われなくても……あんたも覚悟しておきなさいよ」
「……ああ」
シャワールームに入ると、彼女の入った熱気が残っていた。いつもと違うというのは何だか居心地が悪い。温度設定もいつもより四度低くなっていた。
熱いシャワーを頭から浴びると、僕はさっき見た夢のことを考えた。新しい夢が更新されたのは二か月ぶりだった。しかも、これまでに見たことがない、子ども時代の記憶。そこに登場した、志那という女性。
分かるのは、彼女が殺しを生業にしているということぐらいだ。しかし、同業者であれば名前さえ分かれば探すことは難しくない。後で爺さんにでも訊ねてみれば、何らかの情報が手に入るはずだ。仮に顔の広い爺さんが知らないのならば、その事実自体が彼女を探す重要な手がかりになる。
シャンプーに手を伸ばす。思わず手を止めた。棚の見知らぬボトルが数本並んでいる。その理由を頭が考えようとしたが、僕は頭を振ってそれを止めた。何にしても、彼女の不可思議な言動の原因は、彼女が世間知らずであることに起因するに違いない。
いちいち気にしても仕方がないのだ。