家出人
「オジサンはさぁ」
少女Aが口を開く。
「ここには昔の彼女に会う為に来たの?」
「いや、そんなんじゃないよ。最初からここに来る予定も無かったし。」
「そーなの?じゃあどうしてこの場所に来たの?」
「さぁね…何でだろう。うろうろ電車を乗り継いでる内に、この街の事を思い出したんだ。理由はそれだけかな」
「ホントにお仕事じゃないんだね。オジサン、無職?」
質問がストレート過ぎて一瞬言い淀みかけたが、無職である事には間違いが無い。
自分が仕事を持たない人間になってしまった事を、認めたくない気持ちが即答にブレーキをかけるが、不必要に見栄を張る事も無いだろうと思い直した。
「そうだよ。少し前にね、会社を辞めたんだ」
「ふぅん、大変だね。じゃあ就職活動?だからスーツなの?」
「いや、そんなんじゃない。会社を辞めた事は家族に話してなくてね。仕事に行く振りをして出て来たから」
我ながら少し喋り過ぎかな、と思いながら、事実を話す事に抵抗感は無くなっていた。
見栄を張る必要が無い相手だとと線引きした時点で、気持ちが軽くなっていたのかも知れない。
「そーなんだぁ、大人の事情ってやつ?」
「そんな大層なもんじゃないよ」
「仕事行く振りだけして、またお家に帰るんだ?」
「いや、それはどうかな。帰らないかも知れないし」
これも本音だった。
実際、漠然とだが、もう家には帰れないかも知れないという思いは、ずっと胸の内に有る。
「それなら家出じゃん。私と一緒だね」
さらりと言う少女Aの言葉を頭の中で反芻するのに、瞬き3回分の時間を要した。
「き、君は家出人なのか?」
少し声が上擦ってしまう。
少女Aは自分の口元に指を立てて「しっ!」と制した後、目線だけを横に向ける。
その視線の方向から、女性店員が皿に盛られたパスタを運んで来るのが見えた。
店員が私達のテーブルに皿を置くタイミングで、少女Aが突然口を開く。
「ねぇ、パパ。」
戸惑って曖昧な反応をしてしまう私に構わず彼女は「ママはお婆ちゃんとこから3時頃帰ってくるんだよね?」と言葉を繋ぐ。
その時になって漸く私は、店員に対するポーズなのだと気付いて「うん、そう言ってたね」と返事をした。
店員が去るのを確認すると少女Aは小声で「私もオジサンも家出中なんだから、気を付けないと怪しまれるでしょ」と言う。
「あ、あぁ…そうだね」
「人が居る所ではオジサンはパパ、私は娘って演技しなきゃ」
「けど、君の事はなんて呼べばいいんだ?」
「彼女の名前でいいじゃん。カナメって、可愛いから嫌いじゃないよ」
そう言うと彼女は「さ、食べよ。お腹ぺこぺこぉ。パパのも美味しそうじゃん。」と敢えて大きな声を出した。
「そうだな。カナメのも美味しそうだ」
私も調子を合わせながら、この少女が家出をして来たという事実を、しっかり確認しなければならないと考えていた。
その一方で、カナメにそっくりな少女の事を、カナメと呼べる事に妙なときめきを感じてもいた。
私達が食べている間に更に2組の客が入店し、店内が少し賑やかになり会話がし易くなった。
少女Aがパスタを完食するのを待って「コーヒーを飲もう」と持ち掛けると「賛成!」と笑顔で答えた。
私はホットコーヒー、彼女はアイスカフェオレ。
少女Aがガムシロップを入れてストローで搔き回し、コロコロと小気味良い音を鳴らす様を見つめながらコーヒーを啜る。
「オジサン、お砂糖もミルク入れないんだね」
「うん、甘いのは苦手だ」
「ふぅん、やっぱ大人だね」
「そうでもないよ。高校生の頃からコーヒーはブラックだったからね」
あの頃、カナメともこんな会話をした。
休日のデート。
繁華街の昼下がり。
お気に入りだった煉瓦造の喫茶店。
カナメもアイスカフェオレを飲んでいた。
忘れていた記憶が蘇る。
しかし、今の私には感傷に浸る前に確かめなければならない事が有る。
「君は、本当に家出をして来たのかい?」
私の問いに、少女Aは少しキョトンとした表情を見せる。
「そうだよ。学校に行く振りしてそのまま出て来たの。おじさんも一緒でしょ?」
「そう言われたらそうだけど、君は未成年じゃないか」
「それって差別じゃない?女子高生にだって色々事情が有るんだから」
「それはそうかも知れないけど、君は女の子だし制服のままだし、ずっとこのまま家出なんて続けられる筈が無い。家出なんかやめて帰った方がいい」
少女 Aは少し膨れっ面を見せてから「私が邪魔なわけ?」と言う。
「い、いや。邪魔なんて、そんな」
邪魔どころか、彼女と居る事に私は、明らかに心地良さを感じている。
今日の私は、全く目的も無く、ただ時間をやり過ごすしか無かった筈だった。
ところがこの少女と知り合ってほんの数十分で楽しく華やいだ気持ちになっている。
営業所の閉鎖が決まってからの2ヶ月間は家族にもその事実を告げられず、先の見えない絶望感の中で毎日を過ごして来た。
気付けば誰とも会話らしい会話をしないまま日々が過ぎてしまっていた。
会社のルールと世間のモラルを、ただ盲目的に守り通した結果がこれだ。
そして今、私はこの少女に対しても大人のモラルで接しようとしている。
本当にこれで良いのか?
瞬時の自問自答に、明確な答えが出ない内に言葉が出た。
「邪魔なんて思っていないよ。寧ろ、君と居るのは楽しいと感じてる。」
自分でも驚くくらいに、スラリと本音を口にする事が出来ていた。
それは、大人として振る舞わなければという良識よりも、この少女と過ごしたい欲する気持ちが勝ったからに他ならない。
この少女が言う通り、今の私は無職の家出人でしかない。
明日どころか、今夜どうなるかすらも分からない、根無し草その物な状態の私が、今更何を格好を付ける必要が有るのか。
そう思った途端に、気持ちが更に軽くなるのを感じた。
「ホント?良かった。私も楽しいよ。オジサンと話すの」
そう言って少女Aはニコリと微笑み、また私の胸がキクンと鳴る。
あのまま少女Aへの追求と説得を続けていたら、私はきっと彼女にとって、ただのつまらない大人になっていて、この笑顔を見る事も、胸の高鳴りを覚える事も出来なかったかも知れない。
組織の責任者として、ルールやモラルに縛られて己の願望を抑え続け、誰にも本心を明かせないまま生きて来た。
それが自分の正しい在り方だと信じていた。
しかし全てを失ってしまえば、後悔の念しか残っていない。
その念が、亡き友人のトオルや部下であったトウジョウ君、そしてカナメの記憶を呼び起こしたのではないか。
自分が仕事を失った事も、家族にそれを告げる事が出来ずにいる事も、年端のいかない少女に対して隠す事なく打ち明けた事で、自分の中で何か吹っ切れたのかも知れない。
そして今、私がどうしたいかと自問すれば、この少女Aと今しばらく同じ時を過ごしたいというのが偽らざる気持ちだ。
日暮れまでにはまだまだ時間が有る。
彼女を帰る様に説得するのも、自分の身の置き所を決めるのも、もう少し後でいい。
「うん、それでいい」
私が小さく呟くと、聞き取れなかった少女Aはキョトンとした表情を浮かべたが、直ぐに笑顔に戻った。
「オジサン、今すごくいい顔した」
自分の顔を見る事は出来ないが、きっと私はいい表情をしているのだろう。
そう、ひとまず今は、これでいい。