白日夢
田園地帯を走る私鉄電車の車内には、陽の光が柔らかく差し込んでいた。
正午に近い時間。
幾分低い角度の陽光が季節の移ろいを再認識させる様だった。
ついこの間まで、蒸し暑さに辟易していた様な気がするが、数週間足らずで肌寒さを感じる季節がやって来るのだろう。
近年、過ごしやすい気候の時期がとても短くなったと思うのは、異常気象に因るものなのか、それとも自分の年齢による耐久力の低下が原因なのか。
乗客の疎らな車内。
私の正面には、座席の上で燥ぐ幼子を叱りつける若い母親。
右に数席離れて口を開けて居眠りをする高齢の男性客。
目線を下に移すと、折り目が分からない程にくたびれた自分のスーツのズボンが見え、右に目を向けると、ズボンと同じく使い古したビジネス鞄。
その上にダラリと置かれた自分の右腕。
上着の袖が擦り切れて、何箇所か白い中生地が見えてしまっている事に初めて気付き、この程度の洒落っ気すら失くしてしまっている自分に、苦笑いが溢れる。
最後にスーツを新調したのは、何年前だったろう?
妻は今頃パート勤務の真っ最中で、長男は入社1年目の会社で研修中。
長女は…もう短大に出掛けたろうか?
みんなきっと、私がこんな場所で電車に揺られているとは知らず、いつも通りの日常を過ごしているに違い無い。
私にはもう、通勤するべき会社は無い。
ひと月程前に会社都合による退職、つまりクビになった。
この一ヶ月は、営業所の閉鎖作業という無料奉仕の労働と、失業保険のや健康保険の切り替え手続き等に奔走していた。
しかし、家族はその事を誰も知らない。
こんな一大事を、ずっと告げられないまま、今朝も会社に出勤する体裁で家を出て、あても無く電車を乗り継いで、気付けばこんな所まで来てしました。
身体を少し捻って、首を回して窓の外を見ると、田畑の中に点在する民家や小さな工場、そして線路と平行して走る県道、それらの景色がゆっくりと後方に流れて行く。
「変わらないな、この辺りは」
口の中で呟いて、数十年振りに見る懐かしい景色をしばらく眺めてから姿勢を元に戻すと、首から肩にかけて微かな痛みを自覚する。
肩凝りだの腰痛だのという痛みにはもう慣れっこだが、特に酷いと感じるのは、一昨日までの、職場の閉鎖作業の疲れが残っているのだろう。
右斜め前の席で、高齢の男性は変わらず気持ち良さげに居眠りを続けている。
この男性は、自分の仕事を、定年までやり遂げる事ができた人だろうか。
薄い髪の撫で付け方を見ると、元はホワイトカラーだったのかな、と思うが、経営者の様な恰幅は無い。
私と同じで、せいぜい中間管理職止まりではなかったか。
見ず知らずの男性の半生を想像しながら、私は自身がやって来た会社での仕事を回想する。
その会社に転職したのは、妻が第一子を出産する直前だったから、もう20年以上前。
拘束時間が長く、売り上げの為なら休日でもポケットベルで呼び出される様な体質の営業会社で、残業代も休日出勤手当も出ない、今で言う典型的なブラック企業だったが、営業成績さえ上げていれば普通以上の給料が貰えるのが当時は魅力だと思えた。
労働条件の劣悪さから先輩社員や同僚は次々に辞め、日常的に求人広告を出して新人を募集する状態の中、私は家族の為にと営業成績を上げ続けた。
努力の甲斐有って、入社一年で課の責任者に昇進し、二年目には新規営業所の支店長に任命され、第二子を懐妊中の妻と幼い長男と共に、住み慣れた街を離れて全く知らない土地に移り住む事になった。
支店長と言えば聞こえは良いが、給料は固定、賞与無し、休みは週一回であり、おまけに営業報酬が無くなった分、仕事量と気苦労だけは倍増して収入は逆に下がった。
採用面接、新人の教育、営業社員達への指導、売り上げ管理等、どれだけやっても仕事は無くなる事はなく、気が付けば終電間際なんて事はざらだった。
成績の悪い社員を会社の指示で何人も何人もクビにし、その度に恨みばかりを買ったが、それも職務だと割り切って、やり通した。
クビにした社員達からの嫌がらせや、外部労働組合との団体交渉なんてのは日常茶飯事だったし、顧客からの苦情、競合他社からの妨害行為等、常にトラブルと背中合わせな仕事だったが、愚痴を溢し合える同僚等、身近には居なかった。
家で過ごす時間が極めて短く、妻ともろくに会話しないまま何年も経過し、やがてそれが当たり前になり、子供達は私の知らない内にどんどん成長していった。
振り返れば、ただ孤独だった二十年。
いや、信頼できる部下は居たから、完全に孤独だった訳でも無いかな。
支店の広告宣伝部門を任せていたトウジョウ君、彼は特に最後までよく助けてくれた。
支店長に着任して間も無く、当時20代前半で面接に来た彼を、私は採用した。
とりわけ特出した才能が有った訳では無いが、実直で真面目な若者だった。
私が支店長になってからの約十年間、強気の営業戦略が功を奏して会社は急速に業績を伸ばし、競合他社を押し退け破竹の勢いで市場を広げて行った。
その過程でトウジョウ君は私の右腕として、実に良く頑張ってくれた。
しかしその成果である売り上げは、新たな支店展開と、月を追うごとに膨れ上がる広告費に費やされ、社員の給料や待遇改善に反映される事は無かった。
そして何も反映されないまま、会社は急速に衰退して行く。
業績悪化の要因は、業界ルールや法規制の変更、大きな震災の影響等、色々だったろう。
一番はインターネットの革命的普及への対応がまるで追い付いていなかった事ではなかったか。
経営者が、いつまでも旧態然とした紙媒体の広告に拘り、集客力を失った事。
また、データー化やネット接続による情報漏洩等に神経質になり過ぎ、末端の社員どころか店舗責任者や幹部クラスにすら、パソコンの業務使用を禁じ続けた事に依り、時代遅れな企業体質になり下がってしまった事。
おかげで私は、パソコンの基本操作すら出来ないアナログ人間のまま、50歳に手が届く年齢になってしまった。
十数年かけて増やした支店や営業所は、たった三年でその大半が消失し、ついに私の支店も閉鎖が決まった。
閉鎖に向けての縮小政策の中、37歳になるトウジョウ君に、私はリストラを宣告した。
半年前の事だ。
トウジョウ君は会社の状況と私の立場を良く理解してくれていた。
恨み言ひとつ言うどころか
「長い間、お世話になりました。支店長の下で働かせて頂き、本当に感謝してます。」
そう言って深々と頭を下げたのだった。
その時彼に、私はどんな言葉を掛けてやれただろう。
まるで思い出せない。
頭を下げて感謝しなければならないのは、私の方だった筈なのに…。
「こらっ!駄目でしょ」
正面の若い母親が、座席の上で飛び跳ねる子供を両手で抑えながら声を荒げる。
身体を捩り脚を開いた拍子に、膝上迄の短いスカートの奥の両内腿の肉感的な膨らみと、更にその奥の下着と思しき色が見え隠れし、つい反射的に目が奪われるが、凝視する事はせずに意識して顔を横に向ける。
若い頃なら、こんな些細な刺激にも興奮し、ドギマギしながら盗み見を続けていたに違いない。
そうしないのは大人の節度と思いたいが、多分そうではない。
男として肉体的な衰えを既に自覚しているから、その辺の情熱みたいな物も弱くなったに過ぎない。
男の性的興奮は、己の肉体が反応し難くなれば、次第に興味は薄くなるのだという事に、我が身を以って気付く年齢になったという事だ。
それは男としては悲しい気付きである。
あんなに燃え盛った情熱は若さの証しで、今は残り火みたいに燻り続けるスケベ心だけが、自分はまだ男なのだというプライドを主張している。
支店長になってからの十年程は、立場的にはヤングエグゼクティブだったろうし、男として漠然とした自信も有った。
女子社員の何人かから色気を掛けられたという自覚も有るし、男として興味が唆られない訳が無かったが、社内不倫等がバレて立場を失う様な事はすべきではない、と念じて頑なにそれらの誘惑を遠去け、男としての欲望は内に押し込め続けてきた。
「こんな事になるんなら…」
また口の中で呟いて、後半の言葉は飲み込む。
こんな事になるのなら、遠慮無く遊んでおけば良かった。
世間の、否、社内のモラルを守り自分の立場や待遇に相応しい振る舞いをする事が正しい選択だと、その時は信じて疑わなかった。
ところが仕事を失い、その場所すらが無くなってしまった今、個人の人生として振り返った時に果たしてどちらが正しかったのだろう?
男盛りの30代40代を、ただストイックに仕事だけに費やして来た私には、その仕事の成果物も、華やかな思い出も、友と呼べる相手1人残らなかった。
もう一度、若い母親の太腿に視線を向ける。半ば枯れてしまった、自分の精への未練だった。
充分に明るい外からの光に照らされ、彼女の健康的な内腿は白く、眩しく映る。
目線を少し上げて、改めてその母親の顔を見てみる。
まだ20代前半なのだろう。
端正だがあどけなさが残る、可愛らしい顔立ちだった。
「トオルが死んだんだ。」
唐突に、ずっと以前、友人から貰った電話の声を思い出した。
あれは支店長になって5年目頃。
とても忙しい時期だったのを覚えている。
トオルは大学時代の友人のひとりで、電話でその死を報せてくれた友人を含む数名で、よく遊んでいた。
大学卒業後も仲間達とは連絡を取り合う時期が有って、私の結婚式にも何人かが参加してくれたが、まだ携帯電話どころか、ポケットベルすら普及していなかった時代。
特別な用が無い限り実家の固定電話に架電する事は少なく、学生時代の友情の幾つかは、いつの間にかフェードアウトしてしまうのが当たり前だった。
トオルは北陸地方の漁師町の出身で、風呂すら無いボロアパートに下宿していた。
仲間達と盛り場で飲んだ後や、バイト帰りに最終電車に乗り遅れた後等は、何度か泊まらせてもらったりした。
とても気のいい奴で、夜中に突然押しかけても嫌な顔ひとつ見せず、いつも快く迎え入れてくれた印象が強い。
泊めてもらった翌朝、一緒に電車に乗り大学に登校する事も度々有ったし、下校時に同じ電車に乗り合わせる事も日常だった。
「ほら、あの女、見えてる。」
トオルは仲間内で、自他共に認める女好きだった。
登下校の車内、同じ沿線を利用する女子大生等にいつも目を光らせ、薄着の女性や短いスカートを見付けては、頼みもしないのに嬉しそうに耳打ちをしていた。
まぁ、あの頃は、トオルに限らず、自分も含めみんな似た様なものだったろうけど。
共通して一番盛り上がる話題は、常に女の話。
それは、若い男共通の生理だ。
目の前の若い母親を見て、唐突にトオルの事を思い出したのは、そんな記憶からの連想だろう。
トオルは、大学卒業後は地元に帰ったと聞いていた。
仲間の何人かは、観光がてら北陸の実家に遊びに行ったなんて話も有ったが、私は卒業以降一度も会ってはいない。
支店長となり転勤してからは、地元の仲間達とも次第に連絡は疎遠になり、携帯電話を持つ様になったのは、そのずっと後だった。
トオルの訃報を報せてくれた友人は、私の実家に電話をし、会社の電話番号を聞き出して連絡をくれたのだった。
思いもよらない友人からの、突然の電話に驚く間も無く、続いて出た言葉に酷く混乱したのを覚えている。
「え?…何?」
「トオルが死んだんだ。俺もユウジから連絡貰って、さっき聞いたとこなんだよ。」
2日前の朝、定刻になっても起きて来ないトオルの様子を見に部屋に入った母親が、ベッドの上で不自然な姿勢で目を見開いたまま冷たくなっているのを発見。
死因は心臓発作だという。
「明後日が通夜で、その翌日が告別式らしくて、平日だけど、こっちの連中は有給とか取って一緒に向かおうって話になってる。」
「そう…なんだ。」
「お前は?行けるか?」
見られている訳ではないのに、自分への言い訳みたいに、ポーズで卓上のカレンダーを見る振りをした。
仕事の状況を思えば、休み等取れない事は分かりきっていた。
転勤以降、友人の結婚式にだって参加した事は無い。
それよりも、その時の私は、本社への定時売上報告電話の時間が過ぎている事に焦りを感じていた。
自分は行けない旨を早口で伝えると、その友人は残念そうに電話を切った。
そして、大学時代の友人と話したのは、これが最後になった。
「トオル…怒ってるかな。」
あの時、34歳。
若過ぎる死だ。
実家で死んだという事は、結婚はしていなかったのだろう。
離婚した可能性も有る。
恋人等は居なかったのか…。
考えてみればトオルの事も、他の友人達の事も、私は何も知らない。
大学時代は、あんなに気心を通わせていたのに、生活が変わり、目の前の仕事に忙殺されている内に、呆気ない程急速に他人になってしまう。
他の同僚達と同じ様に、早い段階であの会社を辞めていたら、きっと私は地元に住み続け、今でも彼等と交流が有ったに違い無いし、トオルの葬儀にも出席できていたかも知れない。
「こんな事になるんなら…。」
同じ言葉が口をつく。
電車がいくつ目かの駅に停車し、目の前の母子は、他の乗客何人かと共に下車して行った。
扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出し、ホームを歩く母子の姿を少しだけ目で追う。
「?」
いつから居たであろう?
目で追った先、居眠りの男性の座る席から扉を挟んだ更に後方の席に、ショートヘアーの女子学生が座っているのに気が付く。
高校生…?中学生じゃないよな。
膝上丈のプリーツのスカート、制服のブラウスの上に薄桃色のカーディガンを着ている。
少しだけ目が合った様な気がしたが、すぐに俯いてしまい、顔は良く分からない。
ボンヤリあの母親を眺めていた様を見られていたのではないかと、後ろめたい気持ちで私も反対側に顔を向ける。
電車が、次の停車駅である小さな無人駅に到着すると、居眠りをしていた男性は慌てて起きて、下車して行った。
思い出深いその駅舎は、30年前と何も変わらない様に見えた。
そう、あのベンチ。
あのベンチで、18歳の冬、私は、初めてのキスを経験した。
甘酸っぱい思い出が蘇る。
私は高校3年。
彼女…カナメは2つ年下の高校1年。
私は文芸部の部長をしていて、カナメは部員の1人だった。
色白で瞳が大きく、肩に掛かる長さの黒髪が良く似合う美少女。
新入部員として初めて顔を合わせた時に、既に私は彼女に一目惚れしていたかも知れなかった。
大学受験を控え、夏休みの活動を最後に部活を引退するまでの間、カナメは他の新入生達の中でも際立って熱心に部長である私の作業を手伝ってくれ、私は次第に強く彼女に惹かれていった。
それらの行程の中で、彼女の真面目さや心根の美しさに触れ、部活外の時間、廊下等で屈託の無い笑顔と擦れ違うのが日々の楽しみになっていた。
そして夏休みの終わりに近付く頃、部活動の帰り道で、私は彼女に自分の思いを打ち明けたのだった。
元より彼女が私の気持ちに応えてくれる等とは微塵も期待はしていなかった。
打ち明けて、潔く振られて、悶々とした思いを吹っ切った上で、受験勉強に専念しようという気持ちしか無かった。
ところが、
「はい、あの、私も好きです。」
晩夏の夕暮れ。
頬を赤らめながら俯き気味に呟いた彼女の言葉と横顔を、あの頃、何度頭の中で反芻したか知れない。
その夜は眠れず、勉強も何一つ手に付かなかった。
そうして、私はカナメとの交際を始めた。
交際と言っても、休み時間に人気の無い校舎の片隅で話をしたり、休日にデートをしても手すら繋ぐ事の無い、おままごとの様な恋愛。
私達が特に奥手だった訳ではない。
寧ろその程度が当たり前な時代だったし、何より真面目で純真な少女だったカナメを汚す様な付き合い方なぞ、あの時は考えられなかった。
放課後、私は図書室で受験勉強をしながらカナメが部活動を終えるのを待ち、校外に出てから待ち合わせて一緒に下校した。
私は、今乗車しているこの路線の電車を使って高校に通い、カナメは自転車で通学していたから、お互いに少し遠回りをして、先程の無人駅まで自転車を引く彼女と並んで歩き、あのベンチに座って取り留めのない会話を交わすのが二人の逢瀬の殆どだった。
季節は秋から冬へと変わる時期、私はカナメという人生で一番愛しいと思える恋人を得て、正に青い春を感じていたに違いない。
「…似てる、かな。」
先程の女子学生を、横目でチラリと見て、小さな独り言を言う。
遠目に見た印象で、背格好がカナメと似ていると思ったのは、ノスタルジーが思わせる幻想かも知れない。
電車は間も無く、私が通っていた高校の最寄り駅に到着しようとしている。
仕事を失い、その事実を家族に告げる事が出来ないまま、出勤する様な体裁で家を出た私は、思い付くまま4時間近く電車を乗り継ぎ、こんな所まで来てしまった。
初めからここへ来るなんて考えてもいなかったどころか、この路線の事を思い出したのは、ほんの数十分前。
目的など無く、ただ自宅や会社の有る場所から遠去かりたい気持ちに背中を押されていた。
両親は既に他界し兄弟も居ないから、生まれ故郷の家はとうの昔に処分し、親戚付き合いも途絶えて久しい。
何となく懐かしい場所と言えば、カナメとの甘酸っぱい思い出の残る、この付近位しか思い付かなかったのかも知れない。
しかし、こんな場所に来たからと言って何が有る訳でもなく、ここから先どう過ごすか、それどころか明日以降どうするのかすら分からない。
ただ、家にはもう帰れないんじゃないか、という漠然とした予感だけが胸の内に在った。
財布の中の所持金は、きっと数日と保たない。
携帯電話は、家を出てすぐに電源を切ったまま鞄の中だ。
もう一度、女子学生に目をやり、カナメの事を想った。
先程の無人駅のベンチで、二学期の終業式の帰りに、私はカナメとキスを交わした。
受験目前で、クリスマスのデートも初詣もお預けの冬休みと決めていたと思う。
それ故に、思春期の健全な男子として、暫く会えなくなるこの時に、カナメとの契りが欲しかった。
私はその気持ちを言葉にし、十数秒もの沈黙の後、カナメは小さく頷いた。
真面目で文学を愛し、擦れた所の無い心根の優しい娘だった。
あの長い沈黙の中で、カナメなりに、私へのエールとクリスマスプレゼントの様なつもりで、最大の勇気を振り絞ってくれたのではなかったか。
私にとっては、彼女と大きな一線を越える事が出来たという男としての充足感と、受験が終わった後は、きっとデートの度にキスが出来るだろうという期待に大きく胸が膨らんでいたに違いない。
しかし、カナメとのキスは、結局この時が最初で最後になった。
年が明け、新学期が始まり、私は志望校に合格し、カナメはその愛くるしい笑顔で祝福してくれた。
卒業式の日、詰襟の学生服の第二ボタンを渡し、それを嬉しそうに受け取ってくれた。
そしてカナメが春休みのに入るのを待って、久し振りのデートに誘った。
再びあの唇の感触を確かめる事が出来る。
そんな期待感で前夜から胸が高鳴った。
しかし、そのデートの冒頭に、カナメから別れ話を切り出された。
理由は、私との交際によって、同じ部員の同級生や彼女の先輩達との関係がギクシャクしてしまった、そんな内容だったと思う。
それが理由の全てであったか否かは、確かめる術も無かったが、私の在校中とその後で、他の部員達の潜在的不満の表れ方が変わり、彼女に対しての態度が硬化したかも知れない事は想像に難くなかった。
辛い思いをしていたに違いない。
彼女なりに悩み抜いた上での結論だったと信じたかった。
日暮れまで、2人とも努めて笑顔で最後のデートを楽しんだ。
そして、それがカナメとの最後の想い出となった。
眠そうな車掌のアナウンスの後、電車は駅に到着し、私はフラリと鞄を持って立ち上がり、電車を降りる。
一瞬、駅を間違えたかと考え直す程駅舎の様子が変わっていた為、暫しホームで立ち止まりキョロキョロと周囲を見回してしまった。
鄙びた田舎駅だった筈だが、ホームからは階段とエスカレーターが伸び、改札は階上に有るらしい。
ホームを少し進んで、エスカレーターへの登り口に足をかける。
「…?」
目の端に、女子学生らしい人影か見えた気がしたが、自分の体はエスカレーターに運ばれて、ホーム上のそれは直ぐに見えなくなった。
先程、車内に居た娘だろうか?
駅舎の変貌振りに意識を奪われていたからか、一緒に降りたのかすら、全く認識が無かった。
エスカレーターが改札階に着く手前で、一度だけ背後を振り返ってみたが誰も乗って来る気配は無い。
薄桃色のカーディガンが見えたと思ったのだが、気の所為だったのだろうか。
トイレで小用を済ませて改札を出ると、ガラス越しに線路と周辺の街並みを見下す事が出来た。
当時は、降りたホームで自分が乗って来た電車の通過を待ち、踏切を渡ってから北側の改札を出、更にもう一度踏切を渡って南側に渡らなければ高校に行けなかったのを思い出す。
今は線路の両側に階段とエスカレーターが設けられて、昔の様なストレスを感じる事はは無いだろう。
ここから南に20分程歩けば、そこに想い出の母校が有るが、そこへ向かったところで何が待っているという訳でもない。
お昼近い時間で小腹も空いたし、とりあえず、駅周りを少し歩いてみようと北側の階段を降りる事にした。
当時、改札口を出た右手に喫茶店が有り、そこのハンバーグ定食が美味しかったのを思い出した。
懐かしい味に再会するのも悪くない…そんな風に少しだけ浮かれた気持ちは、階段を下りて周辺の景色を見た瞬間に消え去った。
「コンビニ…?」
思わず独り言が口をつく。
思い出の喫茶店は跡形も無く、そこには見慣れた看板のコンビニエンスストアが建っていた。
「そりゃあ、そうか…。」
小さく独り言を呟く。
30年も前の事。
個人経営の店舗なぞ無くなっていて当たり前だ。
当時はようやくコンビニエンスストアがポツポツ見られる様になった頃で、24時間営業をしない店も少なくなかった。
地方の田舎町という雰囲気のこの地域では一店舗も無かった筈だ。
溜め息を吐いてコンビニに背を向けて歩き始める。
母校へ向かう踏切を渡らずに反対側へ行けば、確か商店街になっていた筈だ。
その先に三階建てのショッピングセンターが有り、その中に飲食店が入っていたのを思い出した。
曖昧な記憶を手繰りながら歩みを進める。
少し進めば商店街への入り口を示すアーチが見える筈だったが、一向に見当たらない。
「パパァ!」
突如背後から声がし、驚いて振り返ると同時に栗色の髪とピンクのカーディガンが視界いっぱいに飛び込み、ぶつかる様に身体を凭せ掛けて来た。
「もう!遅いよぉー!」
そう言って顔を上げた少女の顔を見た瞬間、私は思わず声を発していた。
「カナメ…?」
両手で上着の胸元を掴み、責める様な眼差しで私を見上げる少女は、カナメに瓜二つだった。
(続く)