1(Jekyll)
仮想西暦2060年 3月某日
日本 和歌山県 近畿地方魔族特区 繁華街
時節の言葉として、「早春の候」「解氷」「麗日」が使われる今日この頃。
近畿地方の中部、和歌山県紀北地域の西端、和歌浦湾に浮かぶ人口島では、しぶとく居座る冬将軍の残党と、それを追い出さんと南から張り出た春の先遣隊との間で、一進一退の攻防が繰り広げられていた。
結果、日差し暖かく風冷たい気候となった街中では、有閑マダムやサラリーマンに混ざり、春休みを迎えた学徒たちの姿が見られる。
そんなつかの間の青春を謳歌している若人たちの日常を、カフェテリアから眺める青年が居た。
*****
喫茶チェーン『インフェルノ』ラグーナ支店 店内
「はぁ、平和だねえ」
ガラス窓の向こうをクレープ片手に通りすぎていく女子高校生たちを目で追いながら、新井卓也は、自分が注文した甘味が届くまでの暇をつぶしていた。
「俺も4、5年前は、あんな風だったんだよなぁ。全然思い出せねぇけど」
そうぽつりと零した独り言に、隣の席に背中合わせで座っている中年の男性客がのってきた。
「ははは、若いのに何言ってんです?アタシみたいなオッサンでも、つい昨日のように思い出せるというのに・・・」
この店の常連客の一人で、何度も顔を合わせてはいる。が、卓也は名前を知らない。
それでも、仲の良く世間話を交わす間柄である男性は、勝手に自分の思い出話を、卓也に語りだす。
「アタシがあれくらいの歳だったのは、あの戦争が一番激しかった頃でしてね。当時は、ほんっと冷や冷やしたもんですよ。『すわ、世界の終わりか!?』ってね」
卓也はそれを嫌な顔一つせずに、むしろ興味津々といった様子で聞き、相槌を打った。
「大変だったんですね。俺はまだ生まれていませんでしたが、終戦直後の混乱は、歴史の授業で何度も聞きました」
「いえいえ。確かに戦時中は、今言ったように大変でしたが。終わってみると、言われてるほど荒れませんでしたよ。そりゃ、人間のお上の方々にとっちゃ一大事だったでしょうけど。戦前、文字通り日陰で生きてたアタシらにとっては、お天道さんの下を堂々と歩けるようになった、ってんで、むしろ過ごしやすかったぐらいで・・・」
そういって男性は、飲みかけのコーヒーカップを持ち上げ、頭頂部の皿へとゆっくり注いだ。
そして空になったカップを置くと、後ろに座る卓也へ見せるように、水かきが広がる右手を掲げる。
「アタシら『河童』が、こうしてサテンでコーヒーを飲む姿、今では当たり前ですがね。四半世紀前じゃ絶対に無理だったんですよ?あ、みぞれちゃん。アイスコーヒーお代わり」
そういって男性が呼び止めた店員も、見た目は人間だが、周囲に冷気を放っており、こちらを振り向き了承の意の会釈をすると、冷えた空気中の水分が一瞬、靄となって舞う。
そしてしばらく後、目が顔の真ん中に一つだけのマスターが淹れたホットコーヒーは、彼女に渡された瞬間から冷え始め、河童の席に届いた頃には、すっかり冷えたアイスコーヒーとなっていた。氷で味が薄まらないと評判で、この店の人気メニューの一つとなっている。
また、先ほどクレープを手にカフェの前を通った学生たちに再び目を向けると、その頭に見える獣耳や腰から延びる尾がコスプレではないことが、その不規則な動きから判断できるだろう。
こんな光景も、この世界では既に当たり前の事。
卓也は、隣の席のコーヒーと一緒に運ばれてきた、キンキンに冷えたアイスクリームをスプーンで突き崩しながら、もう一度呟く。
「平和だねぇ、ほんと」
すると、足元に置いてあったリュックサックのポケットが、ブルブルと小刻みに震えだす。メールが届いたらしい。
それに気づいた卓也は、空いた左手で器用に携帯端末を取り出し、内容を確認する。
「・・・げ、今から!?今日は非番のはずなのに。くそぅ」
メールは勤務先から送られたもので、要約すれば『今すぐ戻ってこい』との事。
未練アリアリな眼差しを、手元の器へ向けること数秒。卓也は悔し涙を目じりに浮かべながら、好物を一口で平らげると、頭がキンっと痛くなるのをこらえ、会計を済ませるべく席を立つ。
「おやおや、また休日出勤ですか?」
河童が気の毒そうに声をかけてきたので、卓也は一旦立ち止まり、顔なじみへ振り返る。
「ええ。職場でトラブルが発生したようで・・・」
「たしか、『エキセントリック』でしたね。今の時期だと、若い子たちがはしゃいで大変でしょう」
「・・・ええ、まぁ。でも好きでやってる仕事ですから。ただ、物騒なトラブルは御免被りたいですねぇ」
それでは、と卓也は名を知らない河童に別れの挨拶をし、勘定を済ませて店を後にする。
見送った河童は、ふと彼の居た席に新聞が置き忘れられている事に気づき、それを拾う。
そして一面に載っている記事を一瞥し、一言。
「・・・まったく、物騒なのは嫌ですなぁ」
記事は先日からこの島で続いている、連続殺人について報じていた。
『連続殺傷事件、4人目の被害者か!? 部活帰りの女子高生、襲われる』
******
同日 深夜
人気の絶えた仄暗く肌寒い公園。その中にある数少ない街灯に照らされたベンチに、卓也はドンッと腰を下ろした。
「ったく、ヒトづかいの荒い叔母上だ。ああ、しんどい」
彼の両腕はだらりと下がり、その両掌には赤い食い込み痕がくっきり。足元にはパンパンに膨らんだ、とある量販店の黄色いビニール袋が2つ。
そして顔には、昼間には無かった打撲の痕が1つ。
「そもそも、特売広告は朝にチェックしときなさいよ。閉店間際に大人買いとか、店員さんの目が据わってたぞ」
誰もいない深夜の公園に、卓也のボヤキが静かに溶け込む。
不満の元である叔母に対して、直接愚痴をぶつけないあたりに、彼の性格がよく表れている。
「はぁ、今日は厄日だった。休日出勤させられた上に、不良どもに一発食らうわ、見たかった映画は逃すわ、無駄に大量の洗剤を買いに行かされるわ・・・」
ようやく腫れが引いた左頬を気にしたり、ポケットで八つ裂きになっているチケットをいじったりしながら、ぶつぶつと毒を吐き続けること数分。
両腕の疲れが幾分マシになったので、卓也は立ち上がると、洗剤が詰まったビニール袋を再び持ち上げ、自宅へ向かって歩き出す。
しかし、ベンチを照らす光の円から外れた瞬間、突然、背後から腹へと衝撃が突き抜けた。
グシュ!
「ごほっ!?」
胸から下の感覚がなくなり、喉の奥から鉄さびの臭いがこみあげ、どろりとした赤い液体が吐き出される。
そして、ひどい耳鳴りが始まり、徐々に大きくなるそれに、若い男の声が混ざった。
「あはっ、やっぱいいねぇ。背骨を貫くこの感触ぅ♪」
ドクン、ドクン、ドクン・・・
身体の内側から心臓の鼓動が聞こえ、それに比例して、じんわりと濡れた感触が、腰から下半身へと広がっていく。
自分が何をされたのか、瞬時に察した卓也は、痙攣し始めた筋肉を無理やり動かし、視線を背後に向ける。
黒い闇が外側から侵食してくる中、彼の視覚は、赤く光る瞳を捉えた。
「おまえ、最近、噂の・・・さつ、じんき」
絞り出すようにそう呟いた瞬間、卓也の意識は、深い闇に飲み込まれた。
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