韜晦亭奇譚 其の四
韜晦亭という酒場にそれなりに通うようになると、色々なことが気にかかるようになる。
その一つがカウンターの向こう側、マスターが背にするグラスやボトルの並ぶ棚の一角を専有する瓶の並びだ。
間接照明で、理科室準備室のホルマリン漬けのように内部の影を仄かに浮かび上がらせるその瓶に初めて気がついたときあまりの不気味さに、
マスターに尋ねると、頼まれて預かっているだけらしくあまり詳しく知ることはできず、今日に至る。
しかし今夜その瓶をカウンターに並べて酒を飲んでいる人物にはじめて遭遇することができた。
ボトルキープのごとく悪趣味な瓶を並べさせておく神経に興味を持っていた俺は早速、声を掛けてみることにした。
「その瓶はあなたのでしたか。僕もここへはよく通っているのですけれど。初めて会いますね。」
名刺を差し出すと、適度に酒が廻ってきていたのか赤ら顔の中年男はややおざなりに名刺交換をうけいれてくれた。
最初こそ俺のことを怪しんでいたが、大体において何らかの研究者という人種は自分の研究に興味を持ってくれる者に対して口が軽くなるもので、
かの人物も例外ではなかった。男の肩書は某有名大学の生物工学の博士で、生物の進化の往く末を研究しているらしい。
「君はなぜ人間が二足歩行をしているのか気になったことはないかね。」
「それは、両手が自由に使えるからでは?」
道具が使うことを始めたから人は後ろ足でのみ移動せざる得なかったと、俺は思っていたことを研究者に答えるが。
「そうだ、もともと地上の生物は両生類以降、基本四足歩行しかいない、故に鳥類は翼を手に入れたために道具を使う手を失った。
二足歩行をしながらも文明を持つに至らなかった。」
「二足歩行をすると知能が高くなると言いたいのですか?」
俺の問いに研究者は首を横に振る。
「いやいや、使える手足がもともと四本しかないのが問題なんだ。両手以外にも手の替わりになりそうなものがあっても、その様に進化しなかったのはなぜなのか?」
「象やアリクイ、ハナモグラやナゾベームを使って実験したかったが入手や飼育に問題がありそうだったので断念せざる得なかった」
「でしょうね」
ワシントン条約とかの常識はさすがにあったようだと、内心安堵しつつ同意する。あとナゾベームは絶滅している
「そこで、私は考えた訳だよ。ある程度知能が高く尚且つ複数の手足を兼ね備えた生物。」
「それってもしかして…」
俺は研究者の手元にある瓶を指さしながらたずねる。
「そう。蛸と烏賊だよ」
研究者は幾つかの瓶の中から二つを俺の前におしだす
「ベースとなる生物には甲イカとミズダコを選んだ。まあ、ありふれているからという平凡な理由だが。」
改めて手元の瓶を観察してみる、直径10センチ高さは15センチ程の半透明のガラスの内部に小さな影が揺らめいている。
俺の知っている甲イカやミズダコはもっと大きいイメージなのだが、明りに透かしてみるイカは手のひらに乗る程度のものだった。
「強制的に世代交代と進化をおこなわせるために幼形成熟をするよう品種改良してあるものだ。」
「これで、成体なんですね。でも進化って強制的に出来るものなんですか?」
「まあ環境に合わせた自然進化ではなく、知能を上げるために投薬などの人工刺激を利用した品種改良的なものだからね。
とにかく人間のように知能を高めるというコンセプトだったから。イカやタコの脳細胞を肥大化させるためにいろいろ苦労したよ」
「どうやったのか、訊いてもいいですか」
研究者の手元にはまだ複数の瓶が残っているが、内部の影は俺の位置からではよく見えない。やはり手にとって明りに透かしてみないことには内部を知ることはできないようだ。
「出来るだけ早く結果を知りたかったのでね、幼形成熟を利用したから寿命を考慮するつもりもなかった。脳や神経細胞に病原菌を感染させたり寄生虫を入れたりと試してみたが。
一番効き目が在ったのは人間の脳内麻薬物質を投与するものだった。」
そういうと更に2つの瓶を俺の前にさしだす。
「体重の10パーセントまで脳が肥大したものがそれだよ、見てみたまえ。
イカやタコの頭足類は目と目の間に脳があるがその二匹はすでに頭部のようなものが触腕と胴体の間に形成されているだろう。」
研究者のいうとうりイカは穂先のように尖っている部分と触手の間に瘤のような頭にも見える部位が出来あがっている、しかも本来イカの両眼は両脇に在る筈なのに正面に並んでついている。
なんとなく人間が逆立ちしているようにも見えなくもない。
そしてタコの方はもっと顕著だった。マッシュルームのように膨らんだ頭部にぎろりと濁っ目玉が正面を向き。
その胴体から身体を支えるための2本の足のような触手が伸び、残りの6本の触手は3本づつが1本の腕のようにより合わさり先だけが指のようにわかれていた。
「造ってないですか?」
瓶を試し眇めつしながらタコの形をより観察してみるが生物の造形についてそれほどくわしいわけでもないので一般的なタコのイメージから逸脱していると思っても、
このような生き物が世界のどこにもいないとは言い切れないあたりが俺の限界で、そしてオモチャのようにも見えなくもないが瓶の中ではよくわからない。
「とんでもない!生物としてそれなりに存在していたものだよ。その個体達は私の水槽のなかで少なくとも1年は生態系を維持していたよ」
研究者は胸をはって言い切るがそれが、
「1年は。ということは?」
と俺が訊くと
「ああ、すべて死んでしまった。」
と嘆息する
「死因は判っているんですか」
「イカとタコを同じ水槽で飼育していたのがよくなかったんだ。刺激になってより脳の活性化につながると思ったんだが、酷い争いがおこってね。
自己の認識が出来るようになると、他の種族の存在が許せなくなったのかね」
「ひどく後味の悪い決末ですね、タコとイカの全面戦争ですか。」
俺の憶測にしかし研究者は首を横にふる
「いやいやイカはタコにとって敵ではなかったよ、全滅の元凶はこいつだよ」
そういうと研究者は最後の瓶を俺の手元に差し出した、。
「何ですかコレは」
そしてその瓶に入っていた物は小さな人型の何かだった。強いてその形状を例えるなら灰色の宇宙人といったところか。
ただし人で言う胴体のあるところに目玉と口らしきものがあり、頭部にあたる場所にはなにもない球体になっているだけであった。
頭足類の名残を思わせつつもシルエットだけは人間のように一対の手足をもつにいたった生物が瓶の中に浮かんでいる。
「人工的な突然変異の果てに行きついたその生物は道具を使いイカを奴隷のように使役して、進化の遅れている同族を皆殺しにしてしまった。」
「それで、どうなったんですか」
「結局、人工進化の過程でも知能を上げると人型に近くなるという実例の一つが証明できたと思う事にして全てを処分した」
水中で生活する生物に足が必要なのか疑問だが、それが研究者のいう人型進化の結果なのだろう。
しかしその結末が同族殺しとは何かの暗喩のようであり、あまりにも出来すぎている気がする。
「いま、君の手元にある瓶に入っている標本が唯一の残しているものだよ」
その言葉に俺がしみじみと標本に見入っていると、研究者はイカの標本の入った瓶の液体を自分のグラスに注ぎいれる。
「何をしてるんです」
「ああ、標本は焼酎に漬け込んであるんだよ、これをお湯で割ってスダチをを絞って飲むのがたのしみでね」
研究者はあっさりと言うが。
「大丈夫なんですか、それ。」
「私は研究者だよ、この標本には人体に有害な物は何一つ使われていないよ。保障する」
「そうだ!君もどうだい、マスター。彼にもグラスをたのむ」
まったくもって要らない気づかいだったが、断る間もなくグラスが俺の前に用意されてしまった。
「遠慮することはないよ、君と私のなかだろう」
「初対面ですよね?」
俺と研究者は今夜が初めて顔を合わせたはずだが、
「君も私の同類だろう。わかるよ道徳や倫理より好奇心を優先するタイプだ。もっとも韜晦亭に集まる客は皆そんな感じだが」
「酷い言い掛かりですよ。僕は常識人のつもりですよ」
研究者はにこやかに笑いながら標本の入った瓶を掲げて言った。
「常識なんて言葉はタコが出来るくらい聞き飽きているよ」