「正義」は相対的な課題としてはどう論ずるべきか
私はエクリチュールという言葉の意味をほとんど理解していない。確かジャック・デリダがどこかで書いているというのを何らかの文芸誌か何かで他の誰かの論考での情報として聞いたことがあるという程度である。しかし、私はここではっきりと「私の『正義』論は私のエクリチュールである」ときっぱりと主張したいと思う。『正義』は私のエクリチュール以外の何物でもない。もちろん、エクリチュールの意味は分からない。けれども、観念としてというか、勝手な個人的なイメージとしての「エクリチュール」であるとはここで断っておかなければならないことだ。読者の方もお分かりであると思うが、私は勝手に「エクリチュール」という概念を自分の意味に変えて使っている。しかし、私が使っている『正義』という言葉の意味がいったいどういう意味でできているのかということは、この「エクリチュール」という言葉を使うことによって、それが一つの解釈になるだろうとは言い切ってもいい気がしている。ちなみに私は『正義』を仰仰しく、高貴なイメージにするために「エクリチュール」という言葉を使ったのではない。『正義』は人類最後の思想である。人類が滅びる直前の思想としては理想的ではないか。私のまた違った視点からの『正義』の肯定論はこれで終わりにしておこう。
私が今まで何十年も『正義』について論じてきたことに関して、いくばくかの成果を少しでも上げることができただろうか。私のこの主張に対して、何らかのメリットが誰かにあったという事実は実は聞いたことがない。私は本当に駄目な人間である。愚か者もいいところである。私の『正義』論はもしかすると、せいぜい「こんな低レベルな主張をする奴がよくいたもんだ」とささやかな安堵になっているだけかもしれない。しかし、実はそれさえ知らない。批判はあった。それは「あなたの『正義』は結局はイスラムのような奴らの考え方と同じことになるかも知れませんし、また結局はその思想は彼らのような人たちを肯定することになる」というものだったのである。私は不憫だった。悲しくて泣きたかった。私は自分の主張が私の文学者としての最大の弱点となりうることに気づいていないのであろうか。ところが、それさえ確かであるという(事実であるという)証拠はない。ちなみに、『正義』を主張していて思うのは思いあがっていないか、図に乗っていないかということである。実際に、私は何の平等も成し遂げていない。人間は昇ることもできないし、下りることも確かにしない生き物だ。私は私のような愚かな者にさえ同情されているのではないか。それならばそれで最悪な人間なのを認めなければならない。最悪。私はとうとう『悪』になった。『悪』の権化、つまり、ゾンビになって生きていくのだ。『悪』の肯定はこんなぐらいでいいと思う。
一段落目に正義を肯定し、二段落目で正義を否定する。これが『正義』論に関する、私の相対的な課題への答えである。つまり、文学で何かを論じたり、主張したりするためには第一段落目の何かの肯定と、第二段落目の何かの否定の、その「二段落」だけでよいと考えるのである。その場合、第一段落目の肯定と、第二段落目の否定は何の脈絡もいらず、繋がっていなくともよいのである。ただ単に、肯定し、そしてその後に否定をする。だから、「二段落」だけで作品を構成させた方が、かえって相対的な課題を担っていることになるのだ。そうなのである。文学は正直に言って、「二段落」ですべて主張をなすことができる。説明だと言えど、三段落目を使ってしまった私のこの作品はやはり不出来であったとしか言えそうにない。それは私の限界であるし、しかし、あきらめずに頑張っていこうと考えているのである。




