第25章:恵比寿
東京・恵比寿の小さなクラブ。日常から離れた眩しい街の片隅で、彼が音の準備をする間、私は小さなカフェで胸を高鳴らせていた。
助手席の窓の向こうを流れていく景色を眺めながら、私たちはとりとめもない、形のない言葉を途切れさせずにキャッチボールしながら会場へと向かった。
一時間半ほど車を走らせたころ、たどり着いたのは東京・恵比寿にある小さなクラブだった。
看板の文字もどこか洗練されていて、東京という街の冷たい背伸びをしたような空気が漂っている。ここもまた、私の日常の地図には存在しない、眩しくて少し息が詰まるような馴染みのない場所だった。
「そうしたら、なるかは開場時間になったらここにおいで。さすがにリハーサルの裏には入れないからさ」
「わかった!」
車を降りた先生がスタッフ用の裏口へと消えていくのを見送ると、私はぽつんと一人、恵比寿の乾いた空気に取り残された。見知らぬ土地の、見知らぬコンクリートの上。でも、不安なんて微塵もなかった。この街のどこかの地下で、今あの人が次のステージに向けて音の準備をしていると思うだけで、私の足取りは魔法にかかったように軽かった。
開場までの小一時間、私はこの大人びた街を少しだけ、背伸びして歩いてみることにした。
恵比寿という街は、どこを切り取ってもひどく小難しかった。
ガラス張りの向こうで気取った服を着た人間がグラスを傾けている高級そうな店や、看板の文字すら読めない隠れ家みたいな飲食店が、まるで選ばれた人間しか受け付けないという顔をして並んでいる。私はまるでルーブル美術館の展示品でも眺めるような気恥ずかしさと物珍しさで、首をキョロキョロと動かしながらアスファルトを踏みしめた。
場違いな居心地の悪さに耐えかねて、私はかろうじて追い出されなさそうな小さなカフェの扉を開け、そこに身を潜めた。
不思議なものだ。自分のテリトリーじゃない、着慣れない空気をまとった店というのは、どうしてこうも室内の酸素濃度が低いんだろう。胸の奥が締め付けられ、まるで標高の高い山を登っているときみたいな、じっとりとした息苦しさを覚える。
息を潜めるようにして時間を潰し、指定された開場時間の少し前になって、私はふたたびあの演奏会場の扉の前に戻った。
カランコロン、と。 古めかしい真鍮のベルが、どこか懐かしい音を鳴らして私を迎え入れる。
重い扉を押し開けて薄暗いフロアに足を踏み入れた瞬間、奥のバーカウンターの向こう側に、見覚えのある鮮やかなシルエットが飛び込んできた。
「いらっしゃいませ!……あ、こんにちはあ!」
まばゆい笑顔と、隠しようのない圧倒的なオーラを纏った村沢玲奈さんがそこに立っていた。前回のライブハウスに続き、どうやら今日はここでスタッフの手伝いでもしているらしい。
「あ……こんにちは」
「飲み物、何にします?」
「あ、じゃあ……ビールで」
「ビールね! はーい、お待たせしましたあ。好きなところに座ってね!」
彼女が放つあまりに明るく、曇りのない凛とした引力に気圧されそうになりながら、私は心の中で踏ん張ってその光を直視した。これ以上ないほど気配を消しながら、私は部屋の隅、中央最後尾の、一番目立たない薄汚れたソファの席へとすべり込んだ。冷えたビールのグラスを握りしめながら、私はこれから始まる「怪談」という名の異世界を、じっと息を殺して待つことにした。
ステージには一段高くなった台に赤い毛氈が惹かれてフカフカな紫の座布団が敷かれていた。
その横にはおそらく彼が使うであろうマイクが少し低い位置に主人の登場を待っている様に並べられていた。
客席があっという間に埋まり、辺りが薄暗くなり、私の彼がマイクの位置までゆっくり歩いてピタッと止まった。




