妹が後継者に選ばれました。――私の人生はここからでした
「次期当主は、エレナに任せようと思う」
父にそう告げられたのは、夕食のあとだった。
私は手にしていた紅茶のカップを、静かに受け皿へ戻した。
「……エレナに、ですか?」
「ああ」
父――オルブライト侯爵は、いつもの落ち着いた顔でうなずいた。
向かい側に座っていた妹のエレナは、本人が指名されたというのに、私よりずっと青ざめている。
「お父様。でも、私は……」
「何度も考えた」
父は妹の言葉を遮るのではなく、安心させるようにゆっくり続けた。
「リディア。お前が優秀なのは、私が一番よく知っている」
「はい」
「領地の収支を読める。商人との交渉もできる。王都での社交にも問題はない。法律にも明るいし、領地の主要産業についても私と同じ程度には把握している」
それは褒め言葉のはずだった。
けれど私にとっては、どれも特別なことではない。
私はオルブライト侯爵家の長女として生まれた。
六歳で次期当主に決まり、それ以来ずっと、そのために教育されてきた。
できて当然。
そういうものだと思っていた。
「だが」
父は続けた。
「領主に必要なのは、それだけではないと、この数年で思うようになった」
「と、おっしゃいますと?」
「お前は私に似すぎた」
一瞬、意味がわからなかった。
父は少し笑った。
「悪い意味ではない。私とお前は数字を見れば問題点がわかる。報告書を読めば、どこに手を入れるべきか判断できる。だが――」
父はエレナを見る。
「この子は、人を見る」
妹が目を丸くした。
「私が、ですか?」
「ああ。去年、北村の水路工事が遅れたことを覚えているか?」
「はい。石工の方が足りなくて……」
「私は報告書で知った。リディアは工程表を見て気づいた」
父はそこで、私たち二人を順番に見た。
「だがエレナは、その前に気づいていた」
私も妹を見る。
「そうなの?」
「えっと……村へ行ったとき、石工の親方さんが疲れていたので。話を聞いたら、二人が怪我をして休んでいると……」
「それで?」
「南村の工事が終わった職人さんたちを、北へ回せないかなってお父様にお願いしました」
私は父を見る。
父はうなずいた。
「あれで工期が一か月縮んだ」
知らなかった。
他にもあった。
収穫祭の出店配置。
冬場の共同炊き出し。
新しい織物工房の人員問題。
私と父が帳簿や報告書の上で把握するより早く、エレナは現場の人間から話を聞き、小さな問題の芽を拾っていた。
「これからのオルブライト領には、領民との距離が近い当主が必要だと私は思っている」
父の声は穏やかだった。
「だから次代は、エレナに任せたい」
筋は通っていた。
むしろ、聞けば聞くほど納得できた。
妹は私とは違う。
違うからこそ、私より向いていることもある。
「……わかりました」
私が答えると、父より先にエレナが立ち上がった。
「お姉様!」
「そんな顔をしないで」
今にも泣き出しそうだった。
「でも……私、お姉様のものを取ったみたいで」
「取られてはいないわ」
それは本心だった。
後継者は、私の所有物ではない。
家の未来のために、最も適した者が継げばいい。
そこは理解できる。
理解できる、のだけれど。
「では」
私は父を見る。
「私は、これから何を?」
父が止まった。
ほんの一瞬。
でも、確かに止まった。
「もちろん、お前は今まで通り私の娘だ」
「はい」
「侯爵令嬢として不自由はさせない」
「はい」
違う。
そういうことではない。
けれど私自身にも、うまく説明できなかった。
私は六歳から十七歳まで、ずっと一本の道を歩いてきた。
この家を継ぐ。
父から領地を受け取る。
領民を守る。
家を次代へ渡す。
それ以外の未来を、一度も考えたことがなかった。
結婚すらそうだ。
私は家を出ない。
婿を迎える。
だから相手に求める条件も、オルブライト家を支えられるかどうかだった。
私個人が誰を好きかなんて、考える必要さえなかった。
「今日は休みなさい」
父に言われ、私は席を立った。
「はい。おやすみなさいませ」
部屋へ戻る途中、エレナが追いかけてきた。
「お姉様」
「何?」
「……怒っていませんか?」
「あなたに?」
妹が小さくうなずく。
私は少し考えてから、その額を指で軽く弾いた。
「あいたっ」
「怒っていないわ」
「本当に?」
「ええ」
父の判断は理解できる。
エレナにも適性がある。
それは本当だ。
だから、妹を憎む理由などなかった。
ただ。
自室へ戻り、侍女に髪をほどいてもらったあと。
鏡に映った自分を見て、私は初めて思った。
――では、私は何なのだろう。
オルブライト侯爵家次期当主。
その言葉を取ったあとに残るものを、私は知らなかった。
◇
翌朝。
父は家令と私たち姉妹を執務室へ呼んだ。
机の上には、何十通もの封書が積まれている。
「今日から正式に動く」
父はそう言った。
王家。
親族。
領内の主要な家臣。
付き合いの深い貴族家。
王都にあるオルブライト家の屋敷。
まずは必要な相手へ、後継者変更の通知を送る。
「まだ私は侯爵だ。今日明日でエレナへ爵位を渡すわけではない」
父は妹を見る。
「だが、次代のオルブライト侯爵はエレナだ。それを公にする」
「はい」
「これから最低でも数年は、私の横で学んでもらう」
「はい!」
返事だけは立派だった。
「まず午後から去年の決算書を全部読む」
「……はい」
少し声が弱くなった。
私は笑いそうになる。
父は次に私を見た。
「リディアについては、後継者から外れたことも同時に伝わる」
「そうなりますね」
「何か希望があるなら、考えておきなさい」
「希望」
「これから何をするかだ」
昨夜、答えられなかった問いを。
父も考えていたらしい。
「すぐに決めなくていい」
「はい」
その日のうちに使者が出た。
王都へ向かう早馬も走った。
二日後には、王都のオルブライト邸から返書が来た。
通知はすでに主要な貴族家へ回り始めているという。
そして四日目の朝。
朝食を終えて部屋へ戻ろうとしていた私を、執事長が呼び止めた。
「リディア様」
「何かしら」
「お手紙が届いております」
銀の盆を差し出される。
十二通。
「ずいぶん多いのね」
「はい」
「王都から?」
「主に」
一通を手に取る。
ベルナール伯爵家。
次はロシュ侯爵家。
その次も伯爵家。
さらにその下から、公爵家の紋章まで現れた。
「これは?」
執事長が一度咳払いした。
「すべて、リディア様への縁談のお申し込みでございます」
「……はい?」
私はもう一度封筒を見る。
確かに私の名前が書いてある。
「十二通、全部?」
「はい」
「今日だけで?」
「今のところは」
今のところ。
嫌な予感がした。
そこへ父が廊下の向こうから現れた。
その手にも封書の束がある。
「リディア」
「お父様。それは?」
「お前への縁談だ」
「またですか?」
「こちらに十八通ある」
私は盆を見る。
十二。
父の手元に十八。
「三十通……?」
「朝の便だけでな」
昨日まで、正式に検討していた縁談は三件だけだった。
すべて、オルブライト家へ婿入りできる次男か三男。
それが突然、十倍になった。
「……なぜ?」
父も少し遠い目をした。
「お前が後継者でなくなったからだろう」
「それで増えるんですか?」
「増えるらしい」
「なぜ他人事なのです」
「私もここまでとは思わなかった」
そこへエレナがやってきた。
「おはようございます、お姉――」
足が止まる。
「何ですか、その手紙」
「私への縁談ですって」
「えっ?」
エレナは一通を手に取った。
「あ、グレイ伯爵家。こっちはロシュ侯爵……えっ、アルノー公爵家まで?」
父の眉が動く。
「公爵家?」
「はい」
エレナは封筒を裏返して確認した。
そして私を見る。
「お姉様、本当にわからないんですか?」
「何が?」
「なぜ縁談が来るのかです」
「わからないから困っているのよ」
妹はしばらく私を見つめたあと、信じられないという顔になった。
「だってお姉様、ものすごく優良物件ですよ」
「……エレナ」
「はい」
「姉を物件と呼ばないで」
「でも本当です!」
妹は指を折り始めた。
「侯爵令嬢。領地経営できます。帳簿読めます。法律わかります。社交できます。外国語二つ話せます。商人とも交渉できます。王都にも顔が利きます」
「全部、後継者として必要だったから覚えただけよ」
「だから、それ全部できる十七歳の侯爵令嬢が突然、他家へお嫁に行けるようになったんです!」
私は瞬きをした。
エレナは両手を広げる。
「欲しい家、山ほどあるに決まってるじゃないですか!」
父が額を押さえた。
「……完全に盲点だった」
「お父様まで?」
「お前を後継者から外したあとの婚姻価値まで計算していなかった」
そこへ別の執事が早足でやってきた。
「旦那様」
「何だ」
「王都からの第二便が到着しました。リディア様宛てが九通ございます」
父が目を閉じた。
「三十九か」
「本日分だけでございます」
私はもう一度、手紙の山を見る。
四日前まで。
私は役目を失ったと思っていた。
なのに今は、今まで存在すら知らなかった道が、向こうからこちらへ押し寄せてくる。
意味がわからなかった。
その日の夕方には、縁談は五十を超えた。
翌日も届いた。
父は各家へ、
『本人と相談のうえ順次検討する』
という返書を出した。
中には、何度も舞踏会で顔を合わせていた家もある。
「今さら私に気づいたわけではないのですか?」
私が尋ねると、父は知人の伯爵から届いた返書を渡してきた。
そこには、
『以前から息子の嫁に欲しいと思っていた。しかし、そちらの次期当主に嫁入りを頼めるわけがないだろう』
と書いてあった。
別の侯爵からは、
『婿入りできる次男がいれば、もっと前に申し込んでいた』
とも。
私は椅子に座ったまま、しばらく呆然とした。
どうやら私は、ずっと非常に狭い場所にいたらしい。
閉じ込められていたわけではない。
誰かに不幸にされていたわけでもない。
ただ、生まれたときからそこしか道がないと思っていた。
◇
後継者変更を公表して一週間ほど経ったころ。
父が私の部屋へ来た。
「リディア」
「はい」
「話がある」
父は手紙を持っていなかった。
向かいの椅子へ座る。
「私は一つ、間違えた」
私は少し驚いた。
「エレナを後継者にしたことですか?」
「いや」
父は即座に首を振った。
「それは今も正しいと思っている」
はっきり言い切った。
なぜか、それがうれしかった。
「私が間違えたのは、お前の人生まで後継者という役目と一緒に考えてしまっていたことだ」
父は膝の上で手を組む。
「エレナを次代に据えるべきだと考えることに集中しすぎて、そのあとお前がどこへ向かうのかまで考えていなかった」
私は黙って聞いた。
「すまなかった」
父が頭を下げた。
「お父様」
「だから、ここから先はお前が決めなさい」
「私が?」
「ああ」
父は笑った。
「どの縁談を選んでもいい。全部断ってもいい。外国へ行きたいと言っても構わない。学問を続けたいなら王立学院へ話を通す。商会を持ちたいなら、事業計画を持ってこい。良ければ私が出資する」
「事業計画が必要なのですね」
「そこは親子でも別だ」
思わず笑った。
「家にとって最も有利な結婚を選べ、とはおっしゃらないのですか?」
「言わない」
即答だった。
「お前はこれまで、次期当主として家の利益を第一に考えてきた。それは無駄ではない。私も、その努力を誰より評価している」
父は机の上の縁談の束を見る。
「だからこそ、その能力も経験も含めて、次にどこで使うかをお前が決めればいい」
胸の奥で、何かがほどけた。
「エレナを選んだ責任は私にある。当分は私があの子を鍛える」
「お父様が?」
「当然だ。明日からいきなり侯爵になれと言うつもりはない」
父はまだ四十代だ。
健康にも問題はない。
「五年でも十年でも、私の横で学ばせる」
「エレナは大変ですね」
「私より領民に好かれているのだから、それくらい我慢してもらう」
また笑った。
その日の夜。
私は縁談の手紙を、一通ずつ読み始めた。
今までなら、条件を一覧表にしただろう。
爵位。
領地。
収入。
政治的影響力。
オルブライト家への利益。
今でも、それらがどうでもいいとは思わない。
私は貴族だ。
結婚が家と家を結ぶものであることくらい理解している。
ただ。
それだけで決めなくてもいい。
その違いは、私にとってあまりにも大きかった。
そんな中。
侍女が一通の手紙を運んできた。
「リディア様。王宮からでございます」
「王宮?」
封蝋には王家の紋章。
差出人を見て、さらに驚いた。
アレクシス・レイフォード。
第二王子殿下。
三年前まで王立学院で同級生だった方だ。
王太子である兄君を補佐しながら、現在は外交と商務を担当している。
手紙を開く。
最初に書かれていたのは、求婚の許しを国王陛下から得たという正式な文言だった。
そのあと。
急に、私のよく知るアレクシス殿下の文章になった。
『本当なら、もっと前に申し込みたかった。
しかしあなたはオルブライト侯爵家の後継者でした。
王子である私が侯爵家へ婿入りすることは難しく、だからといって、あなたに家も領地も捨てて王家へ来てほしいなどとは言えませんでした。
ですから、これは望んではいけない縁なのだと思っていました』
私はそこで、一度読む手を止めた。
そして先へ進む。
『ですが状況が変わりました。
ならば今度こそ、私は申し込みたい。
私は、あなたが好きです。
人として。
女性として。
侯爵令嬢として。
そして、十年以上も次期領主になるために学び続けてきた、優秀な仕事人として。
そのどれか一つだけが欲しいのではありません。
全部がリディア・オルブライトでしょう。
私は、そのすべてが欲しい』
息を止めた。
顔が熱くなる。
まだ続きがある。
『あなたが領地の決算書を読みながら、数字の向こうにいる領民の暮らしまで考えていたことを知っています。
学院で私が商法の試験に苦戦したとき、三日間付き合ってくれたことも。
洪水被害の募金会で、皆が帰ったあとまで帳簿を確認していたことも。
外国の使節が来た日のために、眠そうな顔で言葉を覚えていたことも。
それらは、あなたがオルブライト家のためにしてきた努力でしょう。
私は、その努力をなかったことになどしたくありません。
王子妃になれば、求められる役割は侯爵とは違います。
けれど、あなたが身につけたものを使える場所はいくらでもあります。
もしあなたが望むなら、私の隣で使ってほしい。
そして仕事のない日は、一緒に何もしない時間も欲しい。
私は、どちらのあなたも好きです』
そこから先は、なかなか読めなかった。
最後には、こう書いてあった。
『私は王族です。
あなたも侯爵家の娘です。
だから結婚が二人だけの問題ではないことは、互いによくわかっているでしょう。
その上で申し上げます。
王家にとっても、この縁は歓迎すべきものだと父上から許可を得ています。
オルブライト家にとって不利益になる条件も求めません。
ですから残る問題は一つだけです。
リディア。
私はあなたと結婚したい。
あなたは、私を夫に選んでくれますか』
私は手紙を閉じた。
そして、しばらく机に突っ伏した。
侍女が心配そうに近寄ってくる。
「リディア様?」
「大丈夫」
「お顔が赤いようですが」
「大丈夫よ」
たぶん。
◇
数日後。
私は王宮の庭園を歩いていた。
隣には、アレクシス殿下。
学院時代から知っている人なのに、二人だけで歩くと妙に緊張する。
「……いつからだったのですか?」
私が聞くと、殿下が少し咳払いした。
「十四歳のころには」
「そんな前から?」
「はい」
「一度もおっしゃいませんでしたね」
「言ってどうするんです?」
殿下は苦笑した。
「あなたは侯爵家の後継者。私は王族。成立しないでしょう」
「それは……そうですね」
「だから諦めようとしました」
「できました?」
「全然」
思わず笑ってしまった。
殿下も笑う。
「兄にはずっと笑われていました」
「王太子殿下に?」
「『諦めた男が、なぜオルブライト嬢の出席する夜会だけ皆勤なんだ』と」
「皆勤だったのですか?」
「そこは忘れてください」
無理だと思う。
しばらく歩いてから、私は聞いた。
「殿下」
「はい」
「手紙に、私のすべてが欲しいと書かれましたよね」
「……書きました」
今さら恥ずかしくなったらしい。
「では、一つだけ意地悪な質問をしても?」
「どうぞ」
私は少し考えてから口にした。
「もし私が、領地経営もできなくて、帳簿も読めなくて、外交にも役立たない――ただ普通に育った侯爵令嬢だったとしても」
私は彼を見る。
「それでも、私に求婚してくださいましたか?」
「はい」
返事は一瞬だった。
「即答ですね」
「当然です」
「どうして?」
殿下も足を止めた。
「私は、あなたのすべてが欲しいと言いました」
「はい」
「すべてとは、能力だけではありません」
殿下は真っ直ぐに私を見る。
「笑った顔も。少し頑固なところも。困っている人を見ると放っておけないところも。負けず嫌いなくせに、それを表へ出さないところも。仕事が終わると甘い菓子を一つ余計に食べるところも」
「最後のはどこで知ったのですか」
「学院時代から知っています」
恥ずかしい。
殿下は笑ってから続けた。
「あなたには、能力以外にも欲しいものがいくらでもあります」
そして、少し声を柔らかくした。
「もし、それだけのあなたを妻にするために、私があなたの代わりにすべての仕事を引き受けなければならないのなら」
「なら?」
「喜んで引き受けます」
迷いがなかった。
「外交も?」
「やります」
「商務も?」
「やります」
「私の分まで?」
「全部」
「大変ですよ」
「あなたが隣にいてくれるなら、安いものです」
胸の奥が、熱くなる。
それでも私は、もう一つだけ意地悪をしてみたくなった。
「では」
「はい」
「今おっしゃった、能力以外の要素も全部なかったら?」
殿下が止まった。
数秒。
真剣に考える。
「そこまで仮定を変えるなら」
私は思わず笑いそうになった。
殿下は困ったように続ける。
「もうそれは、私の知っているリディアではありません」
「そうですね」
「ですから、その人を好きになるかどうかはわかりません」
今度こそ、私は声を上げて笑った。
「ようやくわからないと言いましたね」
「さすがにそこまで別人にされては答えられません」
「安心しました」
「何がです?」
「何でも肯定する人ではなくて」
殿下も笑った。
そして。
その答えが、私はとても好きだった。
能力があるから愛されるわけではない。
けれど、努力して得た能力も確かに私の一部で。
それを「愛には関係ない」と切り捨てるのでもない。
能力がなくても欲しい。
能力がある今の私なら、その力ごと欲しい。
その全部を受け取ると言ってくれる。
「殿下」
「はい」
「もう一つだけ」
「まだありますか」
「これで最後です」
私は少し笑う。
「私は、王子妃になったら仕事をしたいです」
殿下の顔が明るくなった。
「ぜひ」
「外交も、商務も」
「ぜひ」
「間違っていると思ったら、殿下にも意見します」
「学院時代からされていました」
「人前でも?」
「できれば二人きりのときにお願いします」
笑った。
そして。
決めた。
家の利益だけではない。
爵位でもない。
王子妃という立場への憧れでもない。
この人の隣に行きたい。
これまで自分が積み上げたものを持ったまま。
その上で、新しい人生を歩きたい。
「アレクシス殿下」
「はい」
「私を、王子妃にしてください」
一瞬。
殿下が完全に固まった。
「……本当に?」
「はい」
「あとから撤回しませんか?」
「しません」
「父上へ報告していい?」
「どうぞ」
「兄にも?」
「もちろん」
殿下がものすごくうれしそうに笑った。
その顔を見て。
自分で選ぶというのは、こんなに気持ちのいいものなのかと思った。
◇
婚約が決まった夜。
家族四人で夕食を取った。
エレナは私以上にはしゃいでいた。
「お姉様が王子妃!」
「まだ婚約しただけよ」
「ほぼ王子妃です!」
「ほぼ、とは何」
父は葡萄酒を飲みながら、どこか感慨深そうだった。
「まさかこうなるとはな」
「お父様がエレナを選んだ結果ですよ」
私が言うと、父の手が一瞬止まった。
私は笑った。
「ありがとうございます」
父が目を丸くする。
「リディア?」
「エレナを後継者に選んでくださって」
エレナまで静かになった。
「私は、自分からは絶対にあの道を降りなかったと思います」
どれだけ他の人生があったとしても。
どれだけ好きな人ができたとしても。
私は次期当主だから。
その一言ですべてを後回しにしただろう。
「だから、お父様がエレナを選んだことは、私にとってもよかったのだと思います」
父はしばらく何も言わなかった。
それから静かに笑った。
「そうか」
「はい」
「なら、私も安心した」
今度はエレナが私の袖を引く。
「お姉様」
「何?」
「私、ちゃんと頑張ります」
「ええ」
「お姉様より立派な領主になります」
私は眉を上げた。
「言ったわね?」
「言いました」
「では期待しているわ」
「はい!」
父が笑う。
「その前に、明日から帳簿だ」
エレナの笑顔が固まった。
「明日から?」
「当然だ」
「まだ婚約のお祝い中ですよ?」
「当主は姉の婚約祝いの翌日でも仕事をする」
「お姉様、助けて」
私は首を横に振った。
「私はもう後継者ではないので」
「そんな!」
その夜。
屋敷には、久しぶりに家族全員の笑い声が響いた。
◇
それから五年。
父の判断が正しかったことを、疑う者はいなくなった。
エレナは父のもとで領地経営を学びながら、自分の強みを存分に発揮した。
父が長年の経験と数字で支え。
エレナが領民の声を拾い、人と人をつないだ。
新しい工房が増えた。
商取引が伸びた。
領外から移り住む者まで増えた。
オルブライト領は、以前より明らかに豊かになった。
王宮でも、その取り組みが話題になるほどに。
父から届く手紙には、時々こう書いてある。
『エレナはまだ未熟だが、私より良い領主になるかもしれん』
その下には、決まって妹の字で、
『お父様はまだ譲る気がありません』
と追記されている。
二人とも、うまくやっているらしい。
そして私も。
アレクシス殿下と結婚し、王子妃になった。
外交と商務の仕事を手伝い。
夫と意見を戦わせ。
ときには王太子殿下まで巻き込み。
忙しく、それ以上に楽しく暮らしている。
私たちには娘も生まれた。
最近は夫が、
「この子も母親に似て仕事好きになるのでは」
と心配している。
私は、
「あなたに似て試験前だけ慌てるよりいいでしょう」
と返している。
五年前。
私は、自分にはもう役目がないと思った。
今なら笑える。
父は、自分にしかできない方法で妹を育てている。
妹は、自分にしかできない方法で領地を豊かにしている。
そして私は、自分で選んだ人の隣で、自分が積み上げてきたものを使っている。
誰も負けなかった。
誰か一人が幸せになるために、誰かが不幸になる必要もなかった。
あの日。
私の前から一本の道が消えた。
その代わりに。
数え切れないほどの道が現れた。
そして私は、その中から一つを自分で選んだ。
今でも、その選択を誇りに思っている。
自分で選んだこの人生が。
私は、大好きだった。




