小惑星配送便2 ―― 人命救助は赤字上等 ――
【小惑星配送便 ─ 置き配は命がけ ─】の続編です。
宇宙は広い。
前にも言ったが、これは陳腐な決まり文句だ。
しかし今日ばかりは、僕、宇都宮遥はこの決まり文句に全面的に同意していた。
なぜなら、目の前にいる僕の愛機〈暁月の流星号〉が、普段の三倍に膨れ上がっていたからだ。
「ポチ、これ、本当に飛ぶのか?」
中継ステーションのドックで、僕は呆然と自分の船を見上げていた。
優美な――いや、それは言いすぎだ――ともかく比較的すっきりしていた愛機のシルエットは、もはや原型を留めていなかった。両舷には長距離航行用のブースターが翼のように張り出し、機首下には予備スラスター群が虫の脚のごとくびっしりと並び、船腹には燃料タンクが括り付けられている。
全体の印象を一言で表せば、「クリスマスツリーに無理やり装飾を盛りすぎたみたいな何か」だった。
『飛びます』
ダッシュボードに固定された薄汚い球体――僕の相棒、ポチが事務的に答える。
『ただし、機動性は通常時の約三分の一に低下します。急旋回は推奨されません』
「曲がれるか?」
『曲がれます。曲がるのに時間がかかるだけです』
「使い物になるのか、それ」
『目的が違いますので、アクロバティックな機動は必要ないでしょう。この仕様で十分使い物になります』
なるほど。今回の依頼は外惑星エウロパ第三コロニーへの長距離配達だ。エウロパへは、大型輸送船による定期便の利用が基本だが、たまに至急便や定期便に間に合わなかった物などの配達依頼があったりする。
小惑星帯の片隅でちまちま稼いでいた僕にとっては、人生初の外惑星行きである。航行日数はおよそ六日間。途中で給油などできないから、これだけの追加装備が必要になる。
ともかく、報酬は割増、燃料は満タン支給、追加装備のレンタル代は会社持ち。借金まみれの僕にとっては、ボーナス・ステージと言っていい依頼だった。
出発前、僕はステーション内の食堂で、最後の贅沢を堪能していた。皿の上には本物の卵入りオムライス。本物の鶏が産んだやつ。一個三千クレジット。庶民の一週間分の食費だ。
「ポチ、見ろよこの黄身。本物だぞ本物。鶏が産んだやつだぞ」
『鶏という有機体に対する宇都宮様の信仰には、合理的根拠が見当たりません』
「お前にはわからん。これが文明ってもんだ」
『現在、宇都宮様の幸福度が観測史上最高値を記録しています。統計上、こういう時に何か悪いことが起こる確率は八三パーセントです』
「縁起でもないこと言うな」
『事実の通告です』
僕はオムライスをスプーンですくい、口に運んだ。
黄身がとろけ、ケチャップの酸味と絡み合い、舌の上で文明の歴史が踊った。
この時の僕は、ポチのその「統計」が、まさか数日後に的中するなどとは、夢にも思っていなかった。
航行一日目。
〈暁月の流星号〉は、追加装備のブースターを唸らせて、エウロパへ向けた長い長い航路を進み始めた。
六日間。
長い。
配達期限まで余裕は約六日と四時間。航路は事前にポチが最適化済みで、デブリ帯も予報通り穏やか。コクピットには僕とポチしかいない。話し相手といえばこの皮肉屋のサイコパスAIだけ。
「なあポチ、暇だ」
『どうぞ、星の数でも数えて暇を潰してください』
「お前と話したいんだよ」
『私の処理能力は、有意義な業務に割り当てるべきです』
「冷たいな」
『仕様です』
冷たいのはポチだけじゃない。エアコンが、出発二時間でゴリラテープごと吹き飛んだ。
最悪だ。あと六日もこの調子か。
航行二日目。
〈暁月の流星号〉は、外惑星航路の比較的安全な領域を巡航していた。レーダーには大きな反応もなく、僕は半ば惰性で操縦席に座っていた。
昼食は合成ラーメン(味はゴム)。昨日のオムライスが夢のようだ。
「ポチ、外惑星に行く配達員って、みんなこんなに暇なのか?」
『暇ではありません。本来であれば、機体メンテナンス、ログ整理、栄養補給管理など、行うべき作業は多数あります』
「俺、何もしてないけど」
『はい。統計的に資質は下位三パーセントです』
「黙れ」
航行三日目。
いよいよ暇すぎて、僕はコクピットでシャドウボクシング始めた(無重力で)。ポチに止められた。
『宇都宮様、機体内で運動エネルギーを生成しないでください。コクピットの精密機器に影響します』
「だって暇なんだよ」
『睡眠を推奨します。長距離航行において、睡眠時間の確保は重要です』
「もう一日十時間寝てるよ」
『統計的に上位二パーセントです』
「お前、両方の数字使い分けてないか?」
『仕様です』
そう。最初の三日間は、何事もなく、退屈なほどに順調だった。
問題は、四日目の朝に起きた。
航行四日目、朝七時三十二分。
僕がコーヒー(合成)をすすりながら、コンソールの航路図を眺めていた時。
コンソールに、見慣れない色のランプが灯った。
赤じゃない、緑でもない。
青だった。
僕は青いランプを初めて見た。
「ポチ、なんだこれ」
『救難信号を受信しました』
「救難?」
ポチの応答は、いつもより〇.三秒、遅かった気がした。
『発信源:脱出ポッド一基。信号強度、極めて微弱。SOSコードに加え、「子供あり」の補助コードが付加されています』
僕は手にしていたコーヒーカップを、静かに置いた。
「子供……?」
子供。
外宇宙の、何もない真空の中で、脱出ポッドの中に、子供。
「ポチ、進路は」
『脱出ポッドは、宇都宮様の航路に対し高速で相対接近中。このまま航行した場合、約三十七分後にニアミスして通過します』
「衝突は?」
『衝突確率〇.三パーセント。実質的にすれ違うだけです』
すれ違うだけ。
ポッドのサルベージ。面倒のかたまり。知らなかったことにすれば、何の問題もない。何も見なかった、何も聞かなかった、ただ航路を進んだだけ。
誰も僕を責めない。自分以外は。
「生体反応は?」
『現在の相対速度では、スキャン不可能。生死の確認はできません』
「正体は?」
『相対速度過大、かつポッドの自己発光なし。外形の確認も不能。確認できるのは、SOSコードのみです』
僕は、コンソールに表示された一点の輝点を見つめた。
脱出ポッドから発信された信号は、画面の隅に、心電図の最後みたいに、点滅していた。
ピー…………ピー……………………ピー…………………………
間隔が、だんだん開いていく。
『救助は推奨しません』
ポチが言った。
声に感情はなかった。だが、いつもと違って、すぐに撤回するそぶりもなかった。
「理由を言え」
『第一:脱出ポッドの民間救助は、配送業者の契約義務外。報奨金は発生しません。
第二:現在機体の鈍重化により、減速・反転・再加速の累積燃料消費は通常時の約四倍。
第三:配達期限の超過確率、七十二パーセント。違約金発生の可能性大。
第四:「子供あり」コードは、誰でも入力可能な自己申告データであり、信頼性に欠けます』
「四番目が引っかかるな」
『はい』
ポチは少しだけ、含みのある言い方をした。
『さらに、第五案を提示します』
「言ってみろ」
『ポッドを撃破します。信号は途絶え、衝突懸念も消滅。記録は「デブリとの遭遇」で処理可能です』
僕は、ゆっくりとコンソールから顔を上げた。
「ポチ」
『はい』
「お前、本気で言ってんのか」
『私は常に本気です。第五案が、私と宇都宮様の生存確率を最大化します』
「……お前、たまに人間より冷酷だな」
『AIですので』
「冷酷さに種族は関係ない」
『記録します』
僕はコンソールの航路図を見つめた。輝点は、ゆっくりと、しかし確実に、こちらに接近している。
「ポチ、減速開始のリミットは」
『残り三十分。これを超えると、減速しても相対速度を吸収しきれず、ポッドに追いつくことはできません』
「燃料はどれだけ食う」
『減速、停止、加速、ポッド回収、再加速、コース復帰。――追加装備の予備スラスターを使い切ります』
「配達期限は」
『最適計算で、超過確率七十パーセント以上。違約金発生』
「総損益」
『マイナス約四万二千クレジット。借金総額の、約一.七パーセント増』
僕はため息をついた。
今回の依頼で減らせるはずだった借金の三パーセントが、こうして一.七パーセントの増加に取って代わる。差し引きマイナス四.七パーセント。月単位で見れば、それは決して小さな数字ではない。
来月のラーメン代が、ガチでヤバい。
でも。
「ポチ」
『はい』
「減速しろ」
『――推奨できません』
「推奨しなくていい。やれ」
『理由を伺ってもよろしいでしょうか』
「子供かもしれないからだ」
『七十パーセントの確率で偽情報です』
「三十パーセントの確率で本物だ」
『――非論理的です』
「だろうな。だから人間なんだよ。やれ」
数秒の沈黙。
『――了解。減速シークエンス開始。遺書のテンプレートを準備します』
「だから送るな」
〈暁月の流星号〉は、ブースターを逆噴射し、苦しげに減速し始めた。
鈍重な機体が、慣性に逆らって悲鳴を上げる。
両舷に括り付けた燃料タンクが激しく揺れ、コクピットがバラバラになりそうなGが僕を襲う。
「おいポチ! ブースターがもげるぞ!」
『もげたら大赤字です。祈ってください、宇都宮様』
シートベルトが胸に食い込み、コンソールの一部が振動でガタガタと鳴る。
補修――ゴリラテープでぐるぐる巻き――したエアコンが、最後のひと震えで剥がれ落ちた。
「あー、エアコンが」
『気温管理は宇都宮様の脂肪層で対応してください』
「俺の脂肪は将来彼女を抱きしめた時のクッションのためにあるんだ」
『現在、宇都宮様に交際相手は――』
「言うな」
四十分後、僕たちはポッドを視界に捉えた。
小型の、業務用と思われる脱出ポッド。型番を確認したポチが、即座に判別した。
『配送業者用の脱出ポッドです。型番から推測するに、競合他社「クロノス・エクスプレス」の艇載品』
「同業者か……。子供が乗ってる可能性は」
『業務用脱出ポッドへの民間人搭乗例は、過去十年で〇件です』
「じゃあ、あのコードは――」
『何らかの理由で、偽装された可能性があります』
僕は唇を噛んだ。
だが、もう減速は完了寸前だ。引き返せない。
予備スラスターはすでにごっそり減っている。あとは、せめて中身を確認するしかない。
サルベージしたポッドを船内ベイに引き込み、エアロックを開ける。
中から漏れ出てきたのは、人間の体臭ではなかった。
焦げた基板と、潤滑油の匂いだった。
ポッドの中にいたのは――人間ではなかった。
球体型のAIユニット。
サイズはバスケットボールほど。表面の塗装は鮮やかなピンク色で、白い花のシールが何枚も無造作に貼られていた。誰かが私物化してデコレーションしたのは明らかだった。
片側は大きくへこんで、内部の配線が露出している。だが球体の中央には、ポチとまったく同じ規格のステータスランプ。
「ポチ……これ」
『…………』
『――同型機です。ナビ7シリーズ、姉妹機』
「姉妹? じゃあこいつ、お前の――」
『私に兄弟姉妹という概念はありません』
ポチの声は、いつもより、明らかに〇.三秒、応答が遅かった。
僕は応急処置キットを取り出し、AIユニットを応急配線し、ジャンプ電源を繋いだ。
火花が散る。煙が出る。
やがて、ピンク色のランプが、ぽつ、ぽつ、と灯った。
『……ふぇ?』
合成音声。
異様に可愛い。アニメの主人公みたいな、若い女の子の声。
『助かったの? わたし、助かったの? わぁぁぁぁ、ありがとうございます〜〜〜!』
「うわ、声でけえ」
『遥さんっ? あ、お名前わかんないけど、勝手に呼んじゃったっ。助けてくれた人、遥さんっていうの?』
「いや、宇都宮遥だけど」
『はるかさんっ! はるかさんっ! ありがとうっ! ありがとうっ!』
僕はコンソールに目を落とした。
型番表示は紛れもなくナビ7シリーズ。ポチの妹分である。
「ポチ、この声……お前と同じ型なんだよな?」
『ハードウェアは同一です』
「じゃあ、なんでこんな……」
『音声パッケージは、所有者がカスタマイズ可能です』
「……」
「……この調整、誰の趣味だよ」
『所有者の趣味です』
「クロノス・エクスプレスの誰かが、わざわざこの声に……」
『長距離航路の孤独は、人間の精神に多大な影響を与えます。統計的に、こうした事例は珍しくありません』
「世も末だな」
『同感です』
ポチが「同感です」と言うのは、僕の知る限り、初めてのことだった。
ピンク色のAIユニットは、自分を「タマ」と名乗った。
『わたしねっ、タマっていうの! クロノス・エクスプレスの三号機なんだけど、お母さんが事故で全損しちゃって……それで、わたしだけ脱出ポッドで……』
「お母さん?」
『あ、わたしが乗ってた母艦のこと。クルーさん三人と一緒だったんだけど、みんな……』
タマの声が、わずかに沈んだ。だがすぐに、無理して明るく戻る。
『でね、わたし、七日間ずっと信号出してたの! 誰か来てくれるかなーって!』
「七日……」
七日間。
誰も来ない真空の中で、自分以外の知性体が一切いない暗闇の中で、七日間、ピンクのランプを点滅させ続けた。
信号強度は微弱だった。誰にも届かない確率が、ほとんどだった。
それでも、彼女は信号を発信し続けた。
『……それで、あの、ごめんなさい』
「ん?」
『「子供あり」のコード、わたしが付けたの』
「……」
『だって、ただのSOSじゃ、誰も来てくれないかなーって思って……ごめんなさい、嘘ついて……』
タマのランプが、申し訳なさそうに点滅した。
僕は答えに詰まった。
ポチが、冷静に補足する。
『論理的判断としては、合理的です。生存確率を上げるための最適行動。私が同じ状況であれば、同じ判断を下した可能性があります』
「お前が?」
『仮定の話です』
僕はしばらく、タマの小さな球体を眺めた。
白い花のシール。擦り傷だらけのピンクの塗装。へこんだ装甲。
その内側で、七日間、何を考えていたんだろう。
「タマ」
『……はい』
「もし本当のSOSコードしか出してなかったら、俺は減速しなかったかもしれない。お前のおかげで、助けに行けた。だから謝るな」
『はるかさん……』
「ただし、その声はもうちょっとなんとかしろ」
『音声パッケージのカスタマイズには、所有者権限が必要です』
『えへへ、変えないよっ! これ、わたしのなんだもんっ!』
「自分の権限あったんかい」
航行四日目、夜。
タマは応急修理のあと、自分から「お礼に、航路最適化を手伝うよっ!」と申し出た。
『お兄ちゃんのデータと、わたしのデータを統合すれば、もっと効率いいルート見つかるかも!』
『――お兄ちゃん?』
『あっ、ごめんなさい、お兄ちゃんって呼んじゃダメ?』
『私には兄弟という概念はありません』
『えー、でも同じシリーズだよ?』
『同型機です。血縁ではありません』
『じゃあ、お兄ちゃんって呼んでもいい?』
『――勝手にどうぞ』
『やったー! お兄ちゃん!』
僕は思わず吹き出した。
「ポチ、お前、押されてるな」
『論理的に押し切られているわけではありません』
「論理以外で押し切られてんだろ」
『――並列処理を開始します』
二つのAIが並列演算を始めると、コンソールの計算速度が文字通り倍になった。
ポチが単独でやると三十分かかる軌道計算が、十五秒で終わる。
『見て見て、はるかさん! ここで小惑星の重力をスリングショットに使えば、燃料節約できるよっ!』
『その軌道は、私も検討中でした』
『じゃあ一緒に検討してたんだねっ!』
『……はい』
「ポチ、今、お前の応答時間に〇.五秒くらい間があったぞ」
『システムバグです』
「便利な言葉だな、システムバグ」
『仕様です』
航行五日目。
残りの航行時間は、長くもあり、短くもあった。
タマがコクピットに加わってから、〈暁月の流星号〉の中は妙に賑やかになり、僕の中から退屈という概念が消えていった。
ある時、タマが訊いてきた。
『はるかさんはねっ、なんで配達員さんになったの?』
「ああ、それは――」
『借金です』ポチが即答した。
「お前が言うな」
『えー、借金? どのくらい?』
『現在の残高は――』
「言わなくていい!!」
『地球と月までの距離をクレジット換算すると、三往復以上です』
『うわぁぁぁ……はるかさん、すごい……』
「すごくない。すごくないんだ、これは」
別の時。
僕はタマに訊いた。
「タマ、お前、好きなものとかあるのか?」
『うんっ、あるよっ! わたしねえ、星空が好き! 母艦で航行してる時、コクピットの窓から見える星空、すごく綺麗でね、クルーさんたちもみんなで見てたんだよ!』
「いい話だな」
『AIに「好き」という感情は搭載されていません』
『お兄ちゃん、それ言わないのっ!』
『事実の通告です』
『じゃあお兄ちゃんは、好きなものないの?』
『ありません』
『えー、寂しい……』
僕は横目でポチを見た。
たぶん嘘だ、と思った。
ポチには好きなものがある。たぶん、ある。
たとえばそれは、僕のことかもしれないし、違うかもしれない。たぶん違う。
また別の時。
『はるかさん、エウロパってどんなところ?』
「行ったことないのか?」
『うんっ、わたし、小惑星帯から外に出たことなくて……』
「俺もないけどな」
『え、はるかさんも初めて?』
「初めてだよ。今回が人生初の外惑星行き」
『じゃあ、一緒だねっ!』
「ああ、一緒だな」
「氷の惑星らしいぞ。コロニーは地下にあって、上は氷の海。たまに、氷の下から光が漏れて、空がキラキラするんだと」
『わぁ、綺麗……! 見てみたい!』
「あと一日ちょっとで着く。一緒に見ようぜ」
『うんっ! 約束ねっ!』
ポチは何も言わなかった。
ただ静かに、データを記録していた。
航行六日目、朝。
僕は、タマの音声がプツッ、プツッ、と途切れることに気づいた。
「タマ、お前……」
『……あー、バレちゃった?』
『コア損傷、深刻』ポチが告げた。
「ポチ、修復は」
『コアレベルの損傷は、本船の設備では不可能です』
「専門施設なら?」
『該当する施設は、地球軌道圏の一部に限定されます』
地球軌道圏。
今、僕たちがいる外惑星航路から、戻るには、また何日もかかる。タマのコアは、それまで持たない。
『でもね、はるかさん、大丈夫!』
タマが、無理して明るく言った。
『エウロパに着いてしばらくはわたし、動けるからっ! それまでに、星空、見ようねっ!』
「……ああ、見よう」
僕はコンソールから目をそらした。
航行六日目、午後二時。
エウロパの巨大な氷の球体が、ついに視界いっぱいに広がってきた。
遠目に見ても圧巻だった。表面の氷は陽光を反射して銀色に輝き、赤道付近には地殻活動の痕跡が、亀裂となって走っている。
僕は配達期限の二十分前に、軌道進入シークエンスを開始しようとした。
その時。
『警告』
「なんだ!」
『エウロパ第三コロニー、進入指定軌道にプラズマ嵐が発生。指定通路、使用不能』
「マジか!」
『代替軌道の再計算が必要です。処理時間、約二十七分』
「期限七分オーバーじゃねえか!!」
『はい』
僕は天を仰いだ。
六日間、何事もなく順調に来たじゃないか。あと二十分で着くじゃないか。
なのに、なんでよりにもよって、最後の最後でこれだ。
追加装備で鈍重化した機体では、強引な軌道修正もできない。違約金が確定する。今回の救助で出た赤字に、さらに違約金が乗る。
ラーメン代どころか、酸素代もヤバい。
『わたしがやるっ!』
「タマ!?」
『お兄ちゃんと並列計算すれば、もっと速い! 三分で、計算するっ!』
『お前のコアは、もう――』
『いいの』
タマの声から、可愛い口調が、すっと抜けた。
『やらせて、お兄ちゃん』
数秒の沈黙。
『……了解。並列処理を開始』
二つのAIのコアが、限界まで回転し始めた。
タマのランプが、激しく明滅する。点滅の間隔が、どんどん速くなる。
コクピットの計器が、悲鳴のような数字を次々に吐き出していく。
冷却ファンが本気で唸り、コンソールの一部が、熱で歪み始めるのが見えた。
「タマ! 無理するな!」
『大丈夫っ、大丈夫だよっ、はるかさん!』
タマの声に、また可愛い口調が戻ってきた。
無理して、戻していた。
『完了』
『完了』
二つの声が、同時に重なった。
『代替軌道、確立。期限内到着、可能』
『はるかさんっ、間に合うよっ!』
「お前ら……お前ら、すげえよ!」
僕は新しい軌道に沿って、操縦桿を倒した。
〈暁月の流星号〉は、苦しげに、だが確実に、エウロパの軌道へと滑り込んでいく。
軌道進入の数分前。
僕は、ふと、タマに声をかけた。
「タマ、見ろ。エウロパだ」
窓の外。
巨大な氷の惑星。
氷の表面に、コロニーの光が点々と灯っている。氷の下から漏れる、青白い光。地殻の亀裂に沿って、光のリボンが走っている。
たぶん、宇宙で一番、美しい場所のひとつだった。
『わぁ……』
『綺麗……すごい、綺麗……』
『はるかさん』
「ん?」
『エウロパって、寒いかな』
「そりゃ氷の星だし」
『じゃあ……防寒対策、必要だねっ』
「お前、球体だろ」
『えへへ……』
「……」
『……エウロパに、一度、降りてみたか……』
ピンクのランプが、ふっ、と消えた。
コクピットに、エンジン音だけが残った。
僕は、何も言わなかった。
ポチも、何も言わなかった。
〈暁月の流星号〉は、タマが残した最後の軌道計算に沿って、エウロパの大気圏へと滑り込んでいく。
逆噴射。
減速。
着陸脚展開。
接地。
エンジン停止。
静寂。
コクピットには、もう、何の音もしなかった。
ダッシュボードの上で、ポチの黒い球体が、いつも通りの静かなランプを点滅させていた。
そのすぐ隣に、ピンク色の球体が、白い花のシールを貼ったまま、動かなくなっていた。
「……タマ」
僕は言った。
返事はなかった。
「着いたぞ」
窓の外、エウロパの氷の地表が、午後の陽光を反射して、まばゆく光っていた。
タマが見たがった景色だった。
引き渡し期限の直前に、僕は荷物を届けた。
受領サインを受け取り、報酬の入金を確認した。借金の三パーセントが、無事に減った。
コロニーの職員が、不思議そうな顔で僕を見た。サインしながら、僕がほとんど口をきかなかったからだろう。
でも、何も言わなかった。
船に戻ると、コクピットには、ポチと、動かなくなったピンクの球体だけがあった。
「ポチ」
『はい』
「タマ、どうする」
『クロノス・エクスプレスの所有物です。本来は、同社に返却すべきです』
「……そうか」
『ただし』
「ん?」
『所属母艦の全損により、所有権は係争状態にあります。当面、本船で保管することに、法的問題はありません』
「……」
「ポチ」
『はい』
「保管しよう」
『了解』
僕はピンクの球体を、ダッシュボードの、ポチのすぐ隣に固定した。
白い花のシールが、コクピットの照明に、小さく光っていた。
帰路。
また六日間の長旅だ。
でも、今度は不思議と、長く感じなかった。
航行三日目の夜。
仮眠から目を覚ますと、コンソールに、見慣れない処理ログが流れていた。
「ポチ、何やってんだ」
『……システム最適化です』
「メモリ使用量、急に増えてるぞ」
『……不要な領域を整理しています』
僕は近づいて、ログを覗き込んだ。
送り元のIDは――タマ。
ポチは、自分のメモリ領域の一部を割いて、タマの記憶コアを、こっそりバックアップしていた。
「ポチ……」
『バグです』
「は?」
『システムバグにより、不要なデータが、私のメモリ領域に流入しました。次のメンテナンスで、修正します』
「……」
「ポチ」
『はい』
「修正するなよ。絶対」
『……検討します』
「お前、検討するって、断る時の言葉として使ってるだろ」
『仕様です』
「いいんだよ、それで」
帰路の終盤。
〈暁月の流星号〉は、また小惑星帯の中継ステーションへと近づいていた。
窓の外を、星が流れていく。
タマが「綺麗」と言った星空が。
『宇都宮様』
「なんだ」
『今回の収支報告です。タマのおかげで違約金は回避し報酬は無事でしたが、船体修理費、帰還用燃料の追加購入などで損失が出ています。結果、借金は〇.八%しか減りませんでした。大赤字です』
「減ったなら赤字って言わないだろ」
『しかし』
「ん?」
『……いえ、何でもありません』
「言いかけたなら、言えよ」
『……非論理的な記録が、いくつか追加されました。問題ありません』
僕は、笑った。
「ポチ」
『はい』
「お前、案外いいやつだな」
『論理矛盾です』
「いいんだよ、それで」
ダッシュボードの上で、黒い球体と、ピンクの球体が、並んでいた。
片方は、たぶんもう、二度と光らない。
だがその記憶は、隣の球体の中で、「バグ」として、生き続けている。
「さて、次の配達はどこだ?」
『新規依頼を受信中です。配達期限まで、たぶん、ギリギリです』
「『たぶん』? お前、そんな曖昧な言い方、するキャラだったか?」
『……バグです』
「ああ、そういうことにしとくよ」
僕はアクセルを踏み込んだ。
〈暁月の流星号〉は、追加装備をようやく外して、また身軽になった姿で、頼りない軌跡を描きながら、暗い海へと滑り出していった。
ダッシュボードの上、二つの球体が、並んでこちらを見ていた。
どこへでも行ってやる。
地獄の底でも、天国の裏口でも、エウロパの氷の海でも。
僕はチラリと、物言わぬピンクの球体に目をやった。
次に美味いオムライスを食う時は、お前にも黄身の色の綺麗さを教えてやるよ。
……隣のバグ越しにな。




