第五章 虚無の帰結
第五章 虚無の帰結
老人の口から漏れた「蓄え」といふ不吉な言葉は、僕の脳裡で凍りついた。 僕は、己の裡に巣食つてゐた虚栄心が、音を立てて崩れ去るのを感じた。戦慄――それは単なる生命の危殆を恐れる感情ではない。自分が、得体の知れぬ巨大な「意志」の手の掌で、滑稽なまでに踊らされてゐたことを悟つた者の、救ひがたき羞恥であつた。
僕は、転げるやうに老夫婦の家を飛び出し、再びあの忌まわしき山へと引き返した。
朝日が、冬の如く冷淡な光を木々の間に投げかけてゐる。僕は、一刻も早くあの広場へ辿り着き、置き去りにした荷物――僕の生活と、僕の理知の証拠――を取り戻さねばならなかつた。あるいは、あのカラタチの巨木が、単なる植物学的な「事実」であることを再確認し、昨夜の老人の言葉を、田舎者の妄言として葬り去りたかつたのである。
しかし、山は、昨日とは全く異なる貌を見せてゐた。
僕は幾度も藪を漕ぎ、茨に皮膚を裂かれ、泥濘に足を取られながら、山中を彷徨した。昨日、あれほど鮮明に僕を誘つた道筋は、今や迷宮の如く複雑に縺れ合ひ、僕の視界を嘲笑ふやうに遮つてゐる。
幾刻が過ぎたであらうか。僕が辿り着いたのは、ただの平凡な、鬱蒼たる原生林の只中であつた。あの銀色の枯れ草が広がる円環も、天を衝くトゲの巨木も、どこにも存在しない。昨日、あんなに鮮明に僕の網膜に焼き付いたあの異様な光景は、あたかも山といふ名の怪物が、一時の気紛れで見せた「幻影」の中に溶けて、消え失せてしまつたのである。
「……あな恐ろしや」
僕は、その場に膝を突き、乾いた笑ひを漏らした。
その時、ふと僕の脳裡を、あの広場に散乱してゐた「空のバッグ」の残像が掠めた。
あれは、単なる「置き忘れ」などではなかつたのだ。
あのカラタチといふ怪物は、トゲで肉を裂き、力尽くで獲物を捕らへるやうな、野蛮な捕食者ではなかつたのである。奴は、より理知的で、より洗練された、残酷な手法を心得てゐた。
奴は、登山者に「美しき幻想」を見せる。興奮といふ名の、麻薬にも似た虚栄心をその血管に注ぎ込み、理性を麻痺させる。すると人間は、自ら進んで、己の最も大切な「財産(糧)」を、その根元に捧げ、身軽になつた喜びと共に去つてゆくのだ。
トゲは肉を貫くためのものではなく、人間の虚栄心といふ、最も脆い心理の隙間に喰ひ込み、効率よく「エゴの搾りかす」を収穫するための道具に過ぎなかつた。
だとすれば、あの老夫婦もまた、この循環の一部であつたに相違ない。
彼らは「善意」といふ名の仮面を被り、抜け殻になつた人間を優しくもてなすことで、山の怪異が遺した「収穫」を分かち合ひ、この不吉な因果を永らへさせてゐる、静かなる共犯者であつたのだ。
僕は、すべてを失つた。
生活の糧たる荷物も、学界を驚かすはずであつた名声の夢も、そして、自らを理知的存在であると信じて疑はなかつた、自分自身の矜持すらも。
今の僕の手元には、一銭の硬貨もなく、一編の記録もない。ただ、空虚なる「生」の残骸が、冬の日の影のやうに、薄く、寒々と地に落ちてゐるばかりである。
いや、一つだけ、残つてゐるものがあつた。
それは、あの時、カラタチの枝に触れた指先に残る、微かな感触である。
氷の如き滑らかさと、その裏側に潜む、掌を刺し貫くやうな微かな痛痒さ。それは、肉体の傷といふよりは、魂に深く刻み込まれた「呪ひ」の刻印であつた。僕は一生、この疼きを感じる度に、あの銀鼠色の広場と、僕を嘲笑つたトゲの影を思ひ出すに相違ない。
山は、今日もまた、銀鼠色の空の下で、深く、冷ややかな静まりを保つてゐる。
そこでは、あの大樹が幾千万のトゲを研ぎ澄ませ、次の犠牲者を待つてゐる。己の「発見」を、世界で唯一の「真実」であると信じ込み、誇らしげに語るための言葉を蓄へながら、空身で山を下りてくる、あの滑稽な人間たちの群れを。
――読者諸君。 もし貴方が、上越の峻険な山嶺で、常識を絶した美しい巨木を見かけたなら、どうか気をつけ給へ。その美しさに、貴方の自尊心が昂ぶつた時こそ、貴方は既に「蓄え」としての資格を得てゐるのだ。
その木の根元に転がつてゐる幾つかのバッグは、貴方の先達たちが、自らのエゴイズムと引き換えに捧げた、虚栄といふ名の「屍」に他ならないのだから。
僕は今、都へ帰る汽車の中で、この文章を綴つてゐる。
窓の外を流れる景色は、どこまでも平穏で、どこまでも卑俗である。しかし、僕の視界の端には、常にあのトゲの残像が、黒い網目のやうに張り付いてゐる。
娑婆苦を脱したと思つてゐる諸君。貴方方の背後にも、今、あの銀色の枝が、音もなく伸びてゐるのではないか。
僕は、ただ冷ややかに、窓硝子に映る己の、幽霊のやうに窶れた貌を見つめるばかりである。
(了)
――読者諸君。もし貴方が山中で美しい巨木を見かけたなら、どうか気をつけ給え。その木の根元に転がっているのは、貴方の先達の、虚栄という名の屍なのだから。




