第四章 老夫婦の饗宴(きやうゑん)
第四章 老夫婦の饗宴
山を下りきつた頃には、夜の帳は既に完全に落ちてゐた。
仰ぎ見る天空には、剃刀の刃の如く鋭く研ぎ澄まされた月が懸り、冷ややかな、慈悲の欠片もない光を地上へ投げかけてゐる。僕は、自分が今、地図上の何処に足を踏み立ててゐるのか、その見当すらもつかぬ辺境の地に放り出されてゐた。
名声への期待に胸を躍らせ、身一つで山を駈け下りてきた僕の熱狂は、夜気の冷たさに触れて、次第に薄ら寒い不安へと変質し始めてゐた。周囲は漆黒の闇に沈み、時折、遠くで獣の咆哮とも、あるいは木々が軋む断末魔ともつかぬ音が響いてくる。宿の見当たらぬこの絶望的な暗夜にあつて、唯一点、銀鼠色の闇を穿つやうに、一軒の古びた民家が、ぽつねんと赤茶けた灯火を漏らしてゐた。
それは、あたかも僕を誘ひ寄せる「網」の如く、不自然なほど静かにそこに存在してゐたのである。
僕は、己の自尊心をかなぐり捨て、恥を忍んでその重厚な木戸を叩いた。
「御免下さい。道に迷つた者ですが……」
僕の声は、夜の静寂に吸ひ込まれ、空しく霧散するかに思はれた。が、驚くべきことに、戸は直ちに開かれた。
現れたのは、一組の老夫婦であつた。
老人は、古びた単衣を纏ひ、その顔には幾千の皺が、あたかもあのカラタチの枝の如く複雑に刻み込まれてゐる。老婆の方は、影のやうにその背後に佇み、濁つた硝子球のやうな瞳で僕を見詰めてゐた。
彼らは僕の困窮した身なり――泥に塗れ、荷物すら持たぬ異様な格好――を見るなり、事情を尋ねる露ほどの素振りも見せず、快く家の中へと招き入れた。
「お疲れでせう。今、温かい食事を用意しますから」
その言葉は親切を極めてゐたが、老婆が台所へ消える足取りの軽快さは、どこか奇怪であつた。老夫婦の手際の良さは、あたかも「この刻に、この客が来ることを予め知つてゐた」かのやうな、計算された冷徹さを孕んでゐたのである。
差し出されたのは、湯気の立つ粗末ながらも芳醇な香りを放つ汁物と、握り飯であつた。僕は、野生の獣の如く、それらを貪り食つた。空腹が満たされるにつれ、僕の裡に再び、あの浅ましい虚栄心が頭を擡げてきた。僕は満足げに、鼻を鳴らしながら、あの広場で見出した「銀色の枯れ草」と「カラタチの巨木」の話を、滔々(たうたう)と語り始めたのである。
「あれは世界的な大発見だ。本来、カラタチがあれほどまでに肥大化するなど、生物学の常識を覆す奇跡に相違ない……」
僕は、自分が手にするであらう名声について、あたかも勝利した将軍の如き口調で弁じた。しかし、僕の熱弁に対し、老夫婦は唯、淡々と相槌を打つばかりであつた。老人の瞳の奥には、どす黒い沈黙が澱み、老婆の唇の端には、憐憫とも嘲笑ともつかぬ微かな歪みが浮んでゐた。彼らの沈黙は、僕の言葉を一つ残らず、あの銀鼠色の枯れ草が光を吸ひ込むやうに、無に帰せしめてゆく。
「さあ、今夜はもうお休みなさい」
老婆に促され、僕は用意された布団に潜り込んだ。興奮の余熱と疲労とが綯ひ交ぜになり、僕は泥のやうな眠りに沈んだ。夢の中に現れたのは、あのカラタチのトゲであつた。トゲは僕の荷物を、僕の記憶を、そして僕の皮膚を、優しく、慈しむやうに突き刺してゐた。
翌朝、窓から差し込む冬の如く冷淡な陽光に、僕は眼を覚ました。
昨夜の狂熱は去り、僕は己の愚行を痛感した。荷物の一切をあの中央の木の根元に置いてきたのである。あれが無ければ、僕は都へ帰る路賃すらも持たぬのだ。僕は老夫婦に深々と頭を下げ、泊めてくれた礼を述べると共に、一つの、拭い切れぬ疑問を口にした。
「何故、これほどまでに見ず知らずの私を、手厚くもてなして下さつたのですか」
老人は、囲炉裏の傍らで、銀鼠色の煙を吐き出しながら、冷ややかに微笑んだ。その笑みは、今昔物語に描かれる、人間の皮を被つた化け物の如き、理知的な残酷さを湛へてゐた。
「毎年、あなた様のやうな方が数人、あの山から下りてくるのですよ」
老人の声は、枯れ葉が擦れ合うやうに乾いてゐた。
「皆、同じものを見て、狂つたやうに山を駈け下りてくる。そして不思議なことに、どの方も皆、荷物をすべて、あそこに置いてこられる。だから、私共には、そのお姿を見ただけで分かつてしまふのですよ。――ああ、今年もまた、あの方が『蓄え』を得たのだな、と」
「……あの方?」
僕の声は震へてゐた。老人は、僕の問いには答えず、唯、昨夜と同じ「にっこり」とした笑みを浮かべた。その瞳は、もはや僕といふ人間を見てはゐない。僕の背後に、あるいは僕の裡に植ゑ付けられた、あのカラタチのトゲを見つめてゐるやうであつた。
僕は、背筋を氷の指でなぞられるやうな戦慄を覚えた。
老夫婦が僕に施した「善意」は、困窮した旅人への慈悲などではない。それは、あの山に鎮座する「あの方」へ捧げ物を提供したばかりの、疲弊した獲物への、単なる儀礼的な「饗宴」に過ぎなかつたのだ。彼らは、あの大樹の共犯者、あるいはその威光を享受する「影」としての役割を、淡々と果たしてゐるに相違ない。
「さあ、お行きなさい。もう何も、お持ちではないのでせう?」
老人の言葉は、僕の虚栄心を根底から打ち砕く、冷酷な宣告であつた。
僕は逃げるやうにその家を飛び出した。背後で、老婆が「カサリ」と戸を閉める音が響いた。それは、あのカラタチの枝が、満足げに獲物を呑み込んだ時の音と、寸分違はぬ響きであつた。
冬晴れの空は、相変わらず縹色に澄んでゐる。しかし、僕の心には、あの大樹の影がどす黒く広がり、自分が手にしたと信じてゐた「名声」の代わりに、取り返しのつかぬ「空虚」が、毒のやうに充満してゐたのである。




