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『刺(とげ)』  作者: 橋平 礼


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第一章 迷霧(めいむ)の獣道

いかにも、僕だ、芥川だ!!

僕は、現代に転生した。山中の怪異と人間の浅ましき虚栄が織りなす、おどろおどろしくも冷徹な五章の物語に仕立ててみようじゃないか。

挿絵(By みてみん)


第一章 迷霧めいむの獣道


 或る年の秋、僕は上越の峻険な山嶺を、唯ひとり歩んでいた。  仰ぎ見る空は、吸い込まれるようなはなだ色に澄み渡り、天の高みに到るまで、一点の濁りも存しない。時折、木々の密生した隙間から、日光が金糸のように鋭く、且つ冷ややかに降り注いでいた。これこそ「絶好の登山日和」と世俗が喧伝する天候に相違ないが、その輝きは、むしろ人間を嘲弄する神々の眼差しにも似ていたのである。


 松村――便宜上、僕自身の内なる半身をそう名付けておこう――という男の胸中には、この自然の静謐せいひつを我が掌中に収めたかのような、根拠なき自尊心が肥大していた。彼の足取りは、羽毛の如く軽やかであった。一歩一歩、腐植土を踏み締める度に、己がこの巨大な伽藍の主であるかのような錯覚に酔い痴れていたのである。西欧の論理が説くところの


「自然征服」なる傲岸不遜ごうがんふそんな思想が、彼の血を不自然に昂ぶらせていた。


 が、山というものは、一介の人間が抱く微かな「驕り」を、決して見逃しはしない。


 ふと気づけば、それまで僕を導いていた筈の、標識の整った登山道は、あたかも霧が消え失せるように霧散していた。足元に広がるのは、這い蹲るような獣道のみである。それは、幾重にも絡み合う蛇の如くうねり、僕を森の深淵へといざなっていた。


 僕は立ち止まり、周囲を展望した。しかし、視界を遮るのは、どす黒い触手となって空を掻き毟る、古木たちの異様な枝振りばかりである。さっきまで僕を祝福していた筈の金糸の光は、いつの間にか、銀鼠ぎんねず色の薄汚れた膜に覆われ、森全体が巨大な、生温かい口腔こうくうのように僕を呑み込もうとしていた。


 「迷ったのか」  その自問は、氷のくさびとなって僕の自尊心を打ち砕いた。方角という概念は、この深緑の迷宮の中では無意味な記号に過ぎない。焦燥という名の毒が、血管の隅々にまで浸透し、心臓の鼓動を醜く早めてゆく。僕は半泣きになりながら、泥塗れの長靴で藪を掻き分けた。理性という名の灯火は、原始の恐怖という突風の前に、今にも吹き消されようとしていた。


 がむしゃらに、ただ盲目的に、茨に皮膚を裂かれながら進むこと数刻。


 突如として、僕の視界は、眩暈を覚えるほど強烈に開けたのである。


 そこは、森の臓腑を鋭利なメスで抉り取ったような、不気味な広場であった。


 周囲を囲む鬱蒼とした原生林から、そこだけが呪われた「無」として切り離されている。半径五十メートルほどの円形の土地には、本来あるべき背の高い樹木が一歩も立ち入ることを許されず、ただ足首を埋めるほどの枯れ草が、死人の髪のように銀色に光り、風もないのに微かにそよいでいた。


 色彩は絶えていた。  あるのは、灰色の空と、死臭を帯びた草の白さと、そして広場の中央に、深手を負った巨人の指のように突き出している、あの「怪木」の影だけである。


 僕は、その異様な光景の前に、石化したメドゥサを眼前にした者の如く、立ち尽くした。


 広場に漂う空気は、理知的でありながら冷酷な、ある種の沈黙を強いていた。そこには、忘れ去られた神々の祭壇がある訳でも、伝説の怪異が潜んでいる訳でもない。ただ、人間の理解を超えた「虚無」が、口を開けて待っていたのである。


 僕は震える手で、顔の汗を拭った。


 獣道を抜け出した安堵感よりも、この「非在の空間」に足を踏み入れてしまったことへの、底知れぬ後悔が、どす黒い水のように僕の心を満たしてゆく。


 何故、ここには草木が育たぬのか。


 何故、中央の木だけが、あのように歪な、トゲに塗れた枝を空へと伸ばしているのか。


 僕は、己のエゴイズムが、今や恐怖という名の濁流に呑み込まれてゆくのを感じていた。


 だが、その恐怖の裏側で、僕の眼は、広場の中心に転がっている「異物」を捉えていた。それは、登山者が置き忘れた、幾つかの古びたザックであった。それらは、主を失った後の抜け殻の如く、或いは、この広場の「主」に捧げられた供物の如く、不気味な静寂の中に横たわっていたのである。


 僕は、自らの運命が、あの銀色の枯れ草の一本一本に、冷たく監視されていることを悟った。


 迷霧の獣道は、僕を単なる遭難へと導いたのではない。


 それは、人間の尊厳が剥ぎ取られ、剥き出しのエゴと恐怖だけが露呈する、あの「とげ」の王国の門へと、僕を連れてきたのである。


 僕は、一歩、また一歩と、その中心にある木へと近づいていった。


 逃げるべき知性は、もはや僕の裡には存在しなかった。ただ、地獄変の炎に惹かれる絵師の如く、僕はその「破滅の美」に魅せられていたのである。


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