第9話 背負うもの
ラボの実験中、尚哉は昔のことを思い出していた。
――尚哉がNESに就職して一年経った頃。
休みの日、尚哉の携帯が鳴った。画面には父の名前。《李志遠》の文字。
「爸爸,你好」
電話の向こうから、心配そうな声が返ってくる。
「偉、你什麼時候回來?(いつ戻ってくるんだ?)」
「まだ……帰れません」
言葉がぎこちなくなる。胸の奥がチクリとした。
父はしばらく沈黙した後、ぽつりと告げた。
「偉、私の会社――李氏精機の今の状況は……持ち株は没収され、完全に子会社化された。私には何もできなくなった……」
尚哉の手が震える。
「やっぱりそうだったんだ……」
父は声を詰まらせながら続けた。
「私がこの会社――華陽科技を信用し過ぎたせいだ。本当に申し訳ない……。お前の方はどうだ? 留学は一年と思っていたが、違うのか?」
尚哉は胸の中で何かが引き締まるのを感じる。言葉を選びながらも、ついに口を開いた。
「僕は、華陽科技の研究所――恒久動源のためにやっているんだ。NESの技術開発のデータを送れと言われて……」
「それは、スパイと言うことではないのか?」
尚哉は小さく息を吐き、声を震わせながらも言った。
「……うん。その通りだ」
父はさらに深く謝る。
「私のせいだ……私が不甲斐ないばっかりに、お前を苦しませている。本当にすまない……」
互いに言葉を失う。距離は物理的には遠くても、二人の間にある空気の重さは、どこよりも近い。
「……無理はするなよ」
「分かった。じゃあ父さんも体に気をつけて」
「ああ、ありがとう」
電話を切った後も尚哉は画面を見つめながら、父の声を胸に刻む。
「……父さんのために……やるしかない」
手元のスマホを握りしめ、息を整える。
頭の中で、今日までの自分の行動を反芻する。技術データの取得、潜入、計算されたリスク……すべては父を守るためだった。
(僕が止まったら、父の会社も、父自身も守れない……)
尚哉は深く息を吸い込み、静かに立ち上がる。
部屋の窓から見える都会の灯。無数の光が、まるで未来の道標のように瞬いている。
「……行くしかない」
尚哉の決意は固まった。背負ったままのスパイ活動も、孤独であることも恐れない。
心の奥で、父の声と謝罪が反響する。
「……絶対に守る、父さん……」
――回想中の尚哉は実験が終わったことに気づき、結果を解析し、データを眺めた。
「数値はやはり安定したな……」
報告書をまとめるのにデスクに戻った。
席に戻ると隣の席の田辺がいた。ズキンと胃が痛んだ。
「よう。古川」
「お疲れ」
尚哉は自分の席についた。田辺はずっと尚哉の顔を見ている。
「俺の容疑は晴れたよ」
「そうか、それは良かったな」
尚哉は笑おうとするが顔が引きつる。
「セキュリティチームの人は、容疑者は五人ほどに絞ったと言っていたよ」
田辺は余裕の笑みを浮かべる。
「そうか」
尚哉は、平静を装い、パソコンで報告書を開く。
「今度はお前の番だな」
田辺はそう言うと席を立ってどこかへ行った。
尚哉が報告書を作成していると、背後から名前を呼ばれた。
「古川」
振り向くと、村田がいた。
「村田さん」
村田は尚哉の肩に手を乗せるとこう言った。
「今日飲み行かね?」
「ああ、いいですね」
尚哉は情報を集めようと考えた。
「んじゃ、十八時に向かいの居酒屋でいいかい?」
「わかりました。鳥の屋ですね」
「んじゃ宜しく」
尚哉は夏海にラインを入れた。
『今日は先輩と飲みに行くことになった。ごめん』
すぐ返事が来た。
『わかった。あんまり飲み過ぎないでね♡』
尚哉はそれを見ると気持ちが和んだ。
◇
村田は尚哉より先に居酒屋に着いていた。
尚哉が店に入ると、村田が手を挙げて合図した。
「よう。古川」
「お疲れさまです」
村田は通りがかった店員に声をかける。
「すいません。生ビール二つ」
「はーい」
「今日は俺の奢りだ。いっぱい飲め」
「マジですか? ありがとうございます」
「気にすんな」
(本当は俺が奢ってもらう方だからな。お前があの時帰った後、わざわざ戻ってログ消しといたからな。綺麗に)
「まあ飲めよ。田辺のやつ、情シスに『防犯カメラ見せろ』って直談判しに行ったらしいけど、あそこ今月メンテナンスで止まってたらしいぜ。運がいいな、お前」
(本当は俺が止めたんだけど……)
「えっ、そうなんですか……?」
「ああ。だからもう心配すんな。……でもな、古川。お前は真面目すぎる。いざとなったら全部放り出して逃げるくらいの気概を持てよ。 自分の身を守れるのは自分だけだぞ」
「村田さん……ありがとうございます。なんか、少し気が楽になりました」
少しビクビクしながら尚哉が切り出した。
「あの……あの時、僕たまたま残業してたんですけど、上司には内緒にしてほしくて……怪しまれたくないから……」
「あー、俺が帰り挨拶したときか」
「ですです」
「古川がやってないのは知ってる。そんなやつじゃないのは分かってるから。黙っとくよ」
「ありがとうございます」
村田は内心呆れていた。
(なんて脇が甘い素人なんだ。セキュリティカードログも残っていたし……。こんな素人を送り込んでくるなんて、北京の連中も焼きが回ったな)
「それより、夏海ちゃんと付き合ってるんだって? 女子社員から聞いたよ」
「……はい」
「いつからなの?」
「先月からです」
「やるねえ! 夏海ちゃんてあっちの方はどんな感じ? 意外とグイグイくるとか……」
村田はいやらしい目つきで質問した。
「ぶっ! 言えませんよ! そんなこと」
尚哉はビールを吹いた。
「ふーん、やってることはやってんのね」
(ま、せいぜい俺がトンズラするまで盾になっといてね)
「話戻りますが、田辺が言ってたんですけど、容疑者が五人に絞られたって……」
「五人か……。まあ、古川は入ってるだろうな。同じ部署だし」
「俺怖いです……」
「なんもしてないんだろ?」
「はい」
「なら胸張っとけばいい。万が一、疑われたら俺がフォローするよ」
「ありがとうございます! ほんと村田さんには感謝です」
村田は微笑んだ。
「次何飲む? つまみも色々頼もうぜ」
二人の夜は更けて行った。
◇
帰りの深夜。
尚哉はまっすぐ帰らず、ネカフェに寄った。
さっきスマホの暗号アプリで、
「draft accepted」
「scope confirmed」
というメッセージを受け取ったからだ。
中国の『恒久動源研究所』が発表した、最新の次世代バッテリーに関するプレスリリースを発見する。
(……どういうことだ? 技術開発の数値は、僕がアップロードしたものと完全に一致している。……でも、この研究開発側の理論データはどこから漏れたんだ? 僕は、そっちのデータには触れてすらいないのに……)
背筋に冷たいものが走った。自分以外にも、この会社に潜り込んでいる奴がいる。
疑念が渦巻いたまま、尚哉は自分のマンションに辿り着いた。
オートロックを抜け、エレベーターで自分の階へ。いつものように暗証番号を入力し、重いドアを開ける。
コートを脱ごうとした瞬間、尚哉の手が止まった。
(……匂う?)
微かに、知らない匂いがした。
石鹸のような、あるいは雨に濡れたアスファルトのような、自分のものではない体臭が、玄関の狭い空間にほんのわずかだけ停滞している。
尚哉は息を止めて、リビングの明かりをつけた。
パッと照らされた室内。テレビも、ソファも、ガラステーブルも、同じ場所にある。
「気のせい……か」
尚哉はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けようとした。
その時、足元に目が止まる。
(……違う)
キッチンマットの端が、ほんの数センチだけ捲れている。
自分は几帳面な方だ。こんなズレを放置したまま朝出かけるはずがない。
心臓の鼓動が急激に速くなる。
尚哉はクローゼットへ駆け寄り、扉を開けた。
奥に隠していた、中国との連絡用の古いノートPC。
(……ある。場所も変わってない)
でも、確信があった。
何かが、動かされている。プロが丁寧に元に戻した後の、不自然な《正解すぎる配置》。
尚哉はガタガタと震える手でスマホを取り出した。
誰かに電話したかった。
(でも、誰に? 夏海? いや、彼女を巻き込むわけにはいかない。父さん?)
その時、尚哉の脳裏に、さっきの村田の言葉が蘇った。
『いざとなったら全部放り出して逃げるくらいの気概を持てよ』
窓の外。二十五階の夜景が広がる。
街灯の影に、見慣れない黒いセダンが停まっているのが見えた。
尚哉は慌ててカーテンを閉めた。
◇
村田は車から双眼鏡で覗いていた。
「……お、気づいたか。遅えよ。あの探偵、手際はいいが《匂い》に無頓着だな。まあ、あいつに古川が追い詰められれば、俺への追求はさらに遠のく。頑張れよ古川。お前が社長の犬に噛み殺されてる間に、俺は次の逃走ルートを確保させてもらうわ」
尚哉が再度カーテンをあけて下を見ると、黒いセダンはいなくなっていた。




