第7話 二人の余韻
土曜日、夏海は父親と取引先の食事会に呼ばれていた。
都内の高級料亭。取引先のご子息とご婦人。こちらは真一郎と夏海。お見合いのような雰囲気もあった。
「夏海さんは可愛らしいから男の方がほっとかないでしょうね」
「そんなことないです……」
夏海は下を向いて答える。
「私が目の上のたんこぶのようなもんなんで、誰も近寄っちゃ来ませんよ」と真一郎。
「私こそ、はしたないことを……ごめんなさいね」
ご婦人と真一郎は笑った。
「拓実、あなたも何か質問したら?」
おとなしそうな男性に母親が促す。
「夏海さんは、どんなご趣味を?」
「フルートとヴァイオリンです。学生の頃からずっとやっていて……」
「それは素敵ですね」
拓実は母親にせっつかれ、言葉を搾り出そうとするが、次の言葉がなかなか出てこなかった。
「せっかくだし、料理も冷めてしまうので、いただきましょうか」
真一郎の言葉で、今日はこちらが呼ばれたのだと夏海は悟った。
◇
「ご馳走さまでした」
「今日はお忙しいところおいでいただき、ありがとうございました。拓実も挨拶を」
「また機会あればよろしくお願いします」
拓実は深々と頭を下げた。
「そんな仰々しいのはやめて、気楽にいきましょう」
真一郎はそういって、料亭を後にした。
帰りの送迎車の中で、夏海が怒った。
「パパ、こんな感じだったの、聞いてなかったよ」
「夏海、そう言うと行かないだろ?」
「そうだけど……。私には尚哉さんがいますから」
「古川君だけど、あの子少し影があるんだよね」
「そう?」
夏海は反論しなかったが、真一郎が尚哉を気に入っていないからだと思っていた。
「今日は尚哉……さんが来るから、変なこと言わないでよ?」
「仕方ないなあ」
そう言って、真一郎は笑った。
◇
夕方、田端家。
家政婦の市川雅代は忙しく歩き回っていた。
真理子と夏海も盛り付けを手伝う。
今日は、ハムや卵の前菜盛り合わせ、野菜たっぷりコンソメスープ、鶏のグリル ハーブ風味、四川風麻婆豆腐、白身魚のソテー・レモンバターソース、ご飯またはパン、季節のフルーツだった。
食卓は彩り華やかだった。
十九時、尚哉が来る頃だ。
雅代がインターホンで応えていた。
夏海は玄関まで迎えに行く。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
夏海は尚哉のコートをもらうとハンガーにかけた。
「準備できてるよ」
そう言って夏海は微笑んだ。尚哉は少し緊張した面持ちだ。
ダイニングに入ると、奥の席に真一郎社長、その右に真理子夫人、反対側に夏海が座っていた。
「こんばんは。ご招待ありがとうございました。お邪魔します」
尚哉は会釈した。
「これ、大したものではないですが……」
尚哉は、ワインらしいものを持ってきていた。
真一郎が興味津々でそれを見た。
「お、シャトー・マルゴーか。いいワインだ。ありがとう」
「僕は滅多には飲みませんが、お気に入りの一つです」
「そうか、ワイン好きなんだな。ならせっかくなので、みんなでいただこうか」
真一郎は、雅代に渡した。
雅代がワインを注いで行き、みんなに行き渡ると、真一郎が挨拶した。
「我がNESの期待の新人古川君が来てくれた。カフェの模様替えでは手伝いありがとう。感謝する。今宵はゆっくりくつろいでほしい。古川君のこれからの活躍に乾杯」
「乾杯!」
尚哉の方を見て夏海が言った。
「四川風麻婆豆腐あるよ。雅代さんの手作りだよ」
「ほう。美味しそう」
「どうぞ、たくさん召し上がって」
そう言って雅代は尚哉に取り分けた。
「いきなり重い話題ですまないが、夏海と付き合うということは、NESを担うということになるんだが、君はわかっているのか?」
「わかっているつもりです。真剣です……」
急に胃が掴まれたように痛んだ。思わず手で押さえる。
「どうした? 具合悪いのか?」
「最近胃の調子が悪くて……」
「そうか……お大事に」
夏海が雅代に胃薬を頼んだ。
「雅代さん、胃薬を」
尚哉は薬を飲むと、少し落ち着いたようだった。
「トップに立つということは、健康管理も大事なんだよ」
真一郎が呟くように言った。
「私、演奏しようかな」
夏海がふいに言う。
「お、吹くのか? 久しぶりに聞くな」
真理子が解説した。
「古川くん、夏海は音大でフルートをやっていたのよ。オーケストラにも出ていたから結構本格的よ」
尚哉の表情がパァッと明るくなる。
「素敵だ。ぜひ聴きたい」
「じゃあ、準備してくるね」
夏海は急いで自分の部屋に向かった。
しばらくすると、夏海が戻り、手には金色に輝くフルートを持っていた。
夏海は椅子に座った。
そっとフルートを手に取り、口元へ運ぶ。
静かに息を吹き込むと、透明で柔らかな旋律がテーブルを囲む空気に溶け、尚哉の心は静かに満たされた。
誰もが自然に息を止め、柔らかな旋律に耳を傾ける。
まるで部屋全体が、夏海の音と一緒に静かに呼吸しているかのようだった。
尚哉の心がまるで大地のめぐみに抱かれて、癒やされていくようだった。
尚哉は知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。慌てて手で拭いた。
「ブラボー!」
尚哉は拍手をした。
「ありがとう」
「素敵だ……」
尚哉は思わず小さく息を漏らす。
夏海は少し照れた表情で息を整え、フルートをケースにしまった。
「ちょっと待って、私も弾きたくなっちゃった」
真理子は微笑みながらピアノの前に座る。指先から軽やかな旋律が流れ、部屋に温かさが満ちた。
「ちょっと弾きすぎちゃったかしら……」
小声で呟くその言葉に、尚哉は思わずクスッと笑う。
「僕も少しだけ……」
真一郎がヴァイオリンを手に取り、控えめに弾き始める。
夏海も尚哉も、家族の温かな雰囲気に自然と笑みを浮かべた。
音楽が部屋を柔らかく満たし、食卓の灯りと笑顔が静かに溶け合う。
尚哉はこの家族の中で、静かに受け入れられたことを感じていた。
家族は互いに目を合わせ、そっと笑いながら、今日のひとときを分かち合った。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
尚哉が帰る時間になった。
「お邪魔しました。ご馳走さまでした。とっても美味しかったです。特に麻婆豆腐が……。そして素敵な演奏、ありがとうございました。感動しました」
「楽しんでもらえたらこっちも嬉しいわ」
「また、来なさい古川君」
「また来てね、尚哉」
尚哉はみんなに見送られ、歩いて帰った。
夜道、尚哉は人目も憚らず、号泣した。
◇
尚哉はその足でネカフェに行った。
昨夜アップロードしたファイルを確認する。
ファイルのアイコンの隣に『ダウンロード済み』の文字があった。
(もう……手遅れか……)
指先が震え、思わずキーボードを叩く手が止まる。
手遅れと思いつつも、ファイルを削除した。
何度消しても、ログはそこに残り、誰かが見るかもしれないという不安が胸を締め付ける。
尚哉は深く息をつき、椅子に深く沈み込むようにして目を閉じ、両手で頭を抱えていた。
夜のネカフェの静寂が、胸のざわめきだけを増幅するようだった。
尚哉は帰宅の途につく。
家に帰ると十二時を越えていた。
遅いと思いつつ、夏海にラインした。
『今日はありがとう。とっても楽しかった』
『私もよ。楽しかった。あっという間だった』
『明日会える?』
『昼間なら。夜は親戚が来るからいないといけないの』
『わかった。何時なら会える?』
『じゃあ、十時に迎えに来て』
『オッケー。楽しみにしてる』
『私もよ』
『好きだよ♡』
『私も好き♡ 尚哉の♡ 笑っちゃう』
『変か?』
『いいよ♡』
『おやすみ♡』
『おやすみ♡』
尚哉は余韻に浸った後、父親に電話した。
「爸爸? 我不能再背叛我愛的人了。對不起,我再也保護不了你了(父さん? もう愛する人を裏切ることはできない。ごめん、もうあなたを守ることはできない)」
『我很抱歉,因為我是個不稱職的父親,讓你受苦。你不用想我,只要堅持走你認為正確的路就好(不甲斐ない父親のせいで、辛い思いをさせてすまない。私のことは考えなくていい、自分の信じた道を進みなさい)。請原諒我(許しておくれ)』
「爸爸……」
尚哉は泣き崩れた。
尚哉の嗚咽が静かな夜に沁みて行った。




