第5話 あなたに辿り着く夜
夏海が薫の家を訪ねていた頃、尚哉は海外にいた。
とある研究所の研究室におり、その部署の責任者と話をしている。
その人物は尚哉と古い知り合いで、以前この会社に勤めていたことがあった。
その男性と話をしたあと、尚哉は今日帰国することを告げた。
その日の夕方、空港へ向かう。
(夏海さんに連絡しないとな……)
搭乗前、尚哉はダメ元で夏海の会社用携帯に電話をかけた。
何度か呼び出し音が続き、切ろうと思った瞬間――夏海が出た。
『はい』
「ごめん、三連休は連絡できなかった。前の会社のプロジェクトで、急な技術支援を頼まれてね。ちょっと海外まで飛んでたんだ。専門家が足りなくて、携帯も触れないくらい立て込んでて……。これから十九時の飛行機で帰る。今、個人携帯からかけてる。夏海の番号、教えて」
『あとでワンコール入れる』
「本当ごめん。寂しくなかった?」
『今電話くれたから……大丈夫』
「ごめん。夏海に……早く会いたい」
『私も……』
「会ったらいっぱい話そう」
『うん』
「そろそろ搭乗口に行かないといけない。着いたらメッセージ入れる」
『わかった。待ってる』
「じゃあ、またね。好きだよ」
『……私も』
尚哉はしばらく余韻に浸っていた。終了画面を指でそっと撫で、俯いたまま搭乗口へ向かう。
◇
深夜の羽田空港。
遅い時間だと思いつつも、夏海が待つと言っていたため、メッセージを入れた。
『日本に着いたよ。これから自宅に帰るところ』
『遅い時間までお疲れさま。帰ったらゆっくりしてね♡』
ハートを見てクスッと笑う。
直後、個人携帯からワンコールかかってきた。個人用携帯に登録する。
夏海の声を思い返すうちに、少しうとうとしてしまった。
無事帰宅すると、そのまま朝まで爆睡した。
◇
翌朝、尚哉の個人携帯に夏海から電話がかかってきた。
「おはよう」
『おはよう。疲れてない? 大丈夫?』
「大丈夫だよ。優しいね」
『心配になっただけ。元気ならいいよ』
「今日の夜、会おっか。定時後なるべく早めにいつものところで待つよ」
『わかった。早めに行くね』
「仕事が手につかなくなりそうだよ」
尚哉は笑った。
『……私も』
「好きだよ」
『私も』
「また夜に」
『またね』
二人とも、電話を切ったあと、自然と微笑んでいた。
◇
夕方のカフェの前。
夏海が先に来ていた。
「お待たせ」
「ううん、待ってないよ。今来たところ」
「本当? 夏海はすぐ気を使うからな」
そう言って尚哉は笑った。
夏海は尚哉の腕を、両手で包み込むように、ぎゅっと胸に引き寄せた。
「見られても大丈夫?」
「親公認だから」
そう言って夏海は笑う。
「俺はこっちの方が好きだな」
尚哉は夏海の手を取って握った。
夏海は少し照れていた。
「もっとやつれてるかと思ってた。元気そうで安心した」
「心配かけてごめんね」
「いいよ」
「今日は近場のところでもいい?」
尚哉が聞いた。
「うん」
目の前に日本蕎麦屋があった。
「ここでいい?」
「いいよ。どこでも」
「胃の調子が良くなくってね」
「大丈夫? 胃薬あるよ。後であげる」
「助かる」
尚哉はいつものように夏海の背中を支えて先に行かせようとする。
お店の中は半分くらい埋まっていた。
入り口近くの席に座った。
夏海は天ぷらそば、尚哉はとろろそばを注文した。
「連休はどこ行ってたの?」
「あー、中国の北京だ」
「前そこの研究所に勤めていたの?」
「北京の研究機関でデータ解析やってたんだ。名前はややこしくて覚えにくいけど」
「ふーん。昔から研究者だったのね」
「そうだよ」
尚哉はそう言いながら夏海の手を握る。
「君のお父さんて、研究畑ではないの?」
「研究ではなくて経営ばっかり。昔は研究やってたのかよく知らない」
「そうなんだ」
「気になる?」
「いや、研究について詳しそうだなーと思っただけさ」
「……確かに」
そばが来た。
「食べよう」
「あ、これ」
夏海はバッグから胃薬を取り出し、尚哉に渡す。
「ありがとう」
尚哉は優しく微笑んだ。
温かいそばを食べると体が温まる。ここのそばは澄んだ味がした。
「美味しい」
「ね」
二人とも食べ終わり、会計は尚哉が出した。
「ご馳走さま」
「美味しかったね」
「……さて、これからどうする?」
夏海の手の握る力が強くなる。
「まだ……一緒にいたい」
「ん……うちに来る?」
夏海は頷く。
「タクシー呼ぶね」
夏海の心臓はドキドキしていた。
しばらくしてタクシーが来た。
夏海からタクシーに乗る。
尚哉が自宅の住所を伝える。
尚哉は夏海の肩に腕を回し、夏海を引き寄せる。
夏海はドキドキしながらも優しさに包まれているのがわかった。
タクシーが止まったのは、都会の夜景を映すガラス張りのモダンな高層レジデンスだった。尚哉が慣れた手つきで暗証番号を入力し、重厚な自動ドアが開く。
「すごい……」と夏海が息を飲む。
大理石のエントランスを通り抜け、尚哉は専用のエレベーターに乗り込む。尚哉は夏海の肩に腕を回し、優しく引き寄せた。
「遅くなっても大丈夫?」
「ママにラインだけ入れとく」
「うん、心配するからそうして」
エレベーターが二十五階で止まり、二人は廊下を歩く。尚哉の部屋は、間接照明が廊下まで漏れる、温かい光を放っていた。
尚哉が鍵を開け、夏海は一歩、部屋に足を踏み入れた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。窓際には一脚だけアームチェアが置かれ、バーカウンターにはグラスが二脚並ぶ。都心の夜景が、ガラス越しに淡く輝いていた。
「広いわけじゃないけど、落ち着くんだ。どうぞ、上がって」
尚哉は夏海のコートを優しく受け取ると、クローゼットにかけた。その手つきは、優雅で丁寧だった。
「すごく綺麗。男の人一人暮らしとは思えないくらい」
「はは、そう? たまに掃除はしてるから」
尚哉は、間接照明で暖かく照らされたキッチンカウンターに寄りかかり、夏海を見た。その眼差しは、フレンチレストランの時よりも、ずっと熱を帯びていた。
「コーヒーでも淹れようか? それとも……」
夏海は、尚哉の優しさが詰まった部屋の雰囲気に包まれ、緊張と安堵が入り混じった感情を抱えていた。
「私、尚哉さんを信じたい。個人携帯の電話番号も知らなかったし、連休連絡くれなかったけど……」
夏海が俯いて喋り出すと、尚哉は夏海に近づく。
「ごめん。番号は後で教える予定だった。連休は急用だったから連絡しそびれた。僕に責任はある」
「私、とっても寂しかった……」
夏海の頬に涙が伝う。
尚哉は夏海を抱きしめた。
「ごめん。もう寂しい思いはさせないよ。絶対に」
「本当?」
夏海は尚哉の目を見つめた。
「本当……」
尚哉は優しく夏海に唇を重ねた。
徐々に深く愛情を乗せて。何度も愛撫のように優しく。
「大丈夫? もう止めらんないよ……」
尚哉は夏海を抱きしめ直した。
「……うん」
尚哉は夏海をベッドにいざなう。
「照明消す?」
夏海は頷く。
「おいで」
二人は唇を重ね、互いの体温を感じながらゆっくりベッドに倒れた。尚哉の手の温もりが、夏海の全身に伝わる。
――尚哉は全てに優しかった。愛に溢れていた。
◇
尚哉の腕の温もりがまだ体に残り、夏海は深く息をついた。瞼は重く、心も体も静かに満たされていく。
夏海がまどろんで寝そうになっていた。
尚哉は愛おしそうに見つめていた。
「夏海」
「……うん?」
「そろそろ帰らないと……明日も仕事だし」
夏海は名残惜しそうに尚哉を見上げ、微かに唇を噛んだ。
尚哉は素早く着替えると、夏海の着替えを手伝った。
「大丈夫? 家まで送ろうか?」
「タクシー乗るから、呼んどいて」
尚哉がタクシーを手配する。
力が抜けている夏海が愛おしい。またキスしてしまう。
「そろそろ下に行くよ」
夏海の手を取り、一階まで連れて行く。
「大丈夫?」
顔を覗くとまたキスしてしまう。
「尚哉……」
「ん?」
「好き」
尚哉は夏海を抱きしめる。
「もう帰したくないな……ほんと」
タクシーが着いた。
夏海を乗せ、お金を払った。
「また明日ね」
「また明日」
尚哉は手を振って見送った。
夏海は夜の街明かりを眺めながら思った。
(こんなに早く誰かを好きになるなんて、思わなかった……)




