第31話 日の当たる場所へ
狭いラボの机に、尚哉が書き上げた特許願のドラフトが置かれている。
名称『界面抵抗制御回路を用いた全固体電池システムおよびその製造方法』
《発明者》の欄には、親子二人の連名があった。
尚哉と志遠は椅子に座り、向かい合っていた。
「俺はいいって言っただろ」
志遠が照れた。
尚哉は笑って首を振る。
「このラボがなければ、俺は三年丸々、独房の中でスマホを解体してた。それに、研究を諦めていたかもしれない。これは、俺たちの発明だよ」
「なあ尚哉、これがあれば……いつか、子供たちが『電池を買い替える』なんて言葉をネットで調べる日が来るのかもな」
志遠が中古のテスターを片手に、少し遠い目をして笑う。
尚哉は、その狭いラボの壁に貼られた、手書きの回路図を見つめた。
「……ああ。蛍光灯がLEDに変わったみたいに、俺たちの電池が、世界から『電池切れ』っていう言葉を消すんだよ」
「ラボで0を出して喜ぶのは素人だ。俺たちがやるのは、物理法則そのものを書き換えて固定することだ。課題は『界面抵抗の完全な打破』……いけるか、尚哉」
「ああ。この『第三回路』のアルゴリズムがあれば、固体電池の寿命は、文字通り永久に続く」
尚哉は、最後に『出願人 古川尚哉』という文字を眺めた。
これはNESのものでも、誰のものでもない。この狭いラボで、親子が泥を這いつくばって掴み取った、世界を変えるための《奇跡》の設計図だ。
「一緒に特許庁行くか?」
「ああ」
――霞が関の特許庁ビル。
特許担当の男が、淡々と読み上げた。
「第一項。第三回路を備え、界面抵抗の変動に応じて動的に制御されることを特徴とする電池システム」
尚哉は、指先を軽く組んだまま黙って聞いていた。
「第二項。ピエゾ素子を用い、共振周波数により常温で界面を密着させるプレス方法」
志遠が、小さく息をのむ。
「第三項。正極材料表面にニオブ系酸化物によるナノパッシベーション層を形成する工程」
読み上げが終わり、男は顔を上げた。
受理印が『ドン』と押された。
「以上です」
「――よろしくお願いします」
二人は揃ってお辞儀をした。
志遠が空を見ながらこう言った。
「なんか美味しいもの食べて帰るか?」
尚哉は笑って返事した。
◇
尚哉のアパートの夜。
尚哉が夜更かしして、学会の論文を日本語でまとめた。それを尚哉なりに英文に訳してあった。夏海の仕事帰りに添削の協力をお願いしていた。
夏海が一通り目を通すと、眉間に皺を寄せた。
「尚哉の文章って、表現が固くてわかりにくいのよ。長い文多いし、主語が変だし、やたら受動態だし」
「うるさいなあ……これでも頑張って書いてんだよ」
尚哉が口を尖らせた。
「まあ、一個ずつ直していこっか」
「ここ、《possible》じゃ弱いね」
「ここは《we demonstrate》で行こう」
「この一文、切っていいかも。あっちの人は結論から読むから」
モニターにくっつくくらい顔を寄せてる夏海を見て、尚哉はクスッと笑う。
「何? なんか変?」
「夏海先生ですね!」
「技術の話は負けるけど、語学なら勝てる!」
夏海は笑った。
夏海が見てくれているので、尚哉がコーヒーを淹れに行く。
「コーヒー淹れてくる」
尚哉が席に戻ると、削除された部分が気になった。
「そこ削ると意味変わらない?」
「変わらない。むしろ、ちゃんと伝わると思うよ」
「そうか……」
しばらく添削してもらっていると、時間を忘れていた。
「そろそろ帰らなくていいのか? 明日も仕事だろ?」
《The theory had always been there.
We were simply the ones who finally caught up to it.》
「この文、いいね!」
夏海が気に入ったようで、何度も繰り返し読んでいた。
◇
一週間後、やっと添削も終わり、学会に提出できる状態になった。
尚哉は学会の公式サイトにある投稿システムにアクセスした。
送信ボタンを押すと、画面に小さく《Submission completed.》の文字が表示された。
尚哉は、椅子の背にもたれて息を吐いた。
「……出したな」
夏海が画面を覗き込んで笑った。
「出したね」
夏海が尚哉の肩を揉んで言った。
「お疲れ様」
「さあ……どうなるかな」
「どうなるかね」
「さっきからオウム返しだな」
尚哉が笑って夏海の腕に触れた。
「結構肩凝ってるね」
夏海が尚哉の肩を揉んでいる。
「じゃあ、今度は……」
尚哉が立ち上がって夏海にキスする。
「今日泊まる?」
「うん」
尚哉には、コクリと頷いた夏海がとても可愛く見えた。
◇
尚哉はNESの社長室に呼ばれた。夏海も隣にいる。
「先日のデモ、あれは凄かったよ。驚いた」
真一郎は、目を丸くして驚いた表情をした。
「ありがとうございます」
「それでだ。恩着せがましくいうつもりはないが、ここには最先端の環境がある。是非うちに戻って研究を続けないか? ポストは前と同じでいい」
尚哉は少し考えていたが、すぐに返事をした。
「ありがとうございます。是非こちらで研究を続けたいです」
夏海の表情がパァッと明るくなった。
「もう役員にも話を通してある。未来のノーベル物理学賞候補だ、是非にとのことだ」
尚哉の握った拳が震えた。
(普通であれば実験結果がどうあれ、スパイした過去のある奴を受け入れてもらえるなんてあり得ない――)
「ありがとうございます!」
尚哉は深々とお辞儀をした。
「困ったことがあれば、なんでも気軽に言ってくれ。夏海経由でもいい」
「お気遣いありがとうございます」
「良かったね」
夏海が微笑む。
「早速今日から仕事してくれて構わないぞ」
真一郎は、そう言って笑った。
尚哉と夏海は、社長室を後にした。
「引っ越し手伝おうか?」
「ああ、ありがとう。でも、汚れるしいいよ」
「あそこ通い慣れてるし、汚れても平気」
「なら、甘える」
尚哉ははにかんで言った。
「――古川尚哉です。今日から宜しくお願いします」
「よろしく」
「おかえり」
ほとんどの人は歓迎してくれた。
田辺仁――尚哉がスパイした時に濡れ衣を着せてしまった人だ。
「古川、久しぶり。よく帰ってこれたな、スパイしたのに」
「申し訳ありませんでした」
尚哉が頭を下げた。
「まあ、もういいよ。しっかり働いてもらえれば」
田辺はチーフマネージャーになっていた。
「はい」
尚哉は自分のデスクに座ると、あの時の記憶が昨日のように思い出されてなんとも言えない気持ちになった。
尚哉はラボに行った。
ここで研究していた時、ここまで深く研究することになるとは思っていなかった。
(運命なんてどう転ぶかわからない……)
「あ、ここにいた」
夏海が引っ越し手伝いをするのに呼びにきた。
「じゃあお願い」
「会社のトラック回してきたから荷物取りに行こう」
夏海の運転する小型トラックに乗せてもらい、尚哉は助手席に乗る。
「二ヶ月後、学会のデモがあるんだ」
「どこで?」
「東京だよ」
「あ、日本か」
「うん。だから夜は忙しくなる」
「んー、邪魔にならないなら行ってもいい?」
尚哉は笑って、「いいよ」と言った。
「楽しみだね」
「緊張するよ」
「今から緊張してたら疲れちゃうじゃん」
「今はまだしないだろ」
そう言って尚哉は笑った。
◇
日本電気化学会のデモンストレーションの日。
まずは、スライドを使って理論説明をする。
従来の全固体電池(硫化系)は、4・2Vまでの最大電圧であり、それ以上は発火してしまう。
我々が開発した全固体電池は、《ナノパッシベーション加工》により、正極材料をコーティングすることによって隙間のない電極を作り、《常温での共振周波数によるプレス》によって界面抵抗がほぼゼロの全固体電池が出来上がります。
その上で、外部スイッチつき《第三回路》をつけて、最高7・0Vまでの電圧を加圧しても静かでびくともしない安定した電池となります。
固体の密着度が高いため、デンドライトもほぼ発生しません。
会場のあちこちから話し声が聞こえた。
三つのイノベーションについての動画が披露されると、ますます会場の熱気が上がってくる。
会場の照明が落とされ、壇上の尚哉の手元が巨大スクリーンに映し出された。
「……Here, I will demonstrate.(では、実演します)」
グラフの波形が、物理的限界の線を軽々と突き抜ける。
日本語、英語、ドイツ語……会場のあちこちで、信じられないという驚嘆の声が漏れた。
想定通りの値、グラフ曲線が電圧7・0Vまで上がった。
一瞬、会場は静まり返る。
それからもずっと安定した値を表示すると、会場が一気に沸いた。
それぞれが驚愕の声をあげ、口に手を当てて泣く人もいた。
「これが我々の発見した世界です」
尚哉がそういうと、拍手の渦がずっと続いてなかなか収まらなかった。
◇
たちまち、ニュースになった。
尚哉の元に取材が来るようになった。
夏海がふざけて尚哉をこう呼んだ。
「古川博士!」
世界の工業界に革新をもたらした。
どんどん新製品が生まれて行く。
一週間電池が持つスマホ、そして三秒急速充電、1ミリの薄さのスマホ、電気飛行機、電気自動車の普及、などなど。
――そして、尚哉は半年後『大河内記念賞』を受賞した。
都内ホテルの豪華な大広間。
眩いシャンデリアの下、尚哉の隣には、慣れないタキシードに身を包んだ志遠が立っていた。
司会者が厳かに読み上げる。
「大河内記念賞。受賞者、古川尚哉殿、ならびに、李志遠殿」
志遠はガチガチに緊張して、借り物の蝶ネクタイを何度も触っていたが、名前を呼ばれると、尚哉と顔を見合わせて小さく頷いた。
賞状を受け取る志遠の指先は、長年の油汚れが染み付いて、どれだけ洗っても真っ白にはならなかった。けれど、その無骨な手が、世界一精巧な《第三回路》製作を成し遂げた証拠だった。
壇上から見える客席の最前列には、涙を拭う夏海の姿もあった。
「親父、おめでとう」
尚哉が隣で囁くと、志遠は少し照れくさそうに、でも誇らしげに胸を張った。
「馬鹿野郎、おめでとうは俺のセリフだ。……生きてて良かったな、尚哉」
まばゆいフラッシュの渦の中で、かつて『日陰でいい』と言った親子は、今、間違いなく世界の中心で光り輝いていた。
そして、刑務所の中でその知らせに衝撃を受けていた人物がいた。
村田守――またの名を林守安、またの名を周 嘉诚。
かつて、尚哉と同時期に逮捕されたプロスパイの村田だ。
村田は独房で新聞を読んでいた。
尚哉の顔写真が一面に載っていた。
(古川……まじか)
新聞を持つ手に力が入っていた。
村田の目から涙が溢れていた。




