第30話 理論の向こう側
翌日の朝。
夏海が家に帰ると、夏海の部屋に真理子が顔を出した。
「夕べ電話来てから大変だったんだから。真一郎をなだめるのに」
真理子がため息をついた。
「今日は真一郎が出張だから、明日尚哉くんと夏海とで話を聞きたいらしいわ」
「ごめん、ママ」
「水沢さんには、時間をかけて謝るわ。尚哉くんの研究はどうなの?」
「今のところうまく行ってるみたい。予定の半分成功してるって」
「そう……」
真理子は遠い目をして言った。
「昔の真一郎を思い出すわね」
「あれ? パパって経営畑じゃなかったっけ」
「ううん。昔はバリバリの技術者だったのよ。ふふ」
「へー。そうなんだ」
「経営に携わるようになってから、辞めたわ」
「意外」
夏海は感心したように言った。
「夏海は大変な道を選んだのだから、覚悟しなさいね。私は応援するけど」
「ありがとう、ママ」
返事をする代わりに、真理子は優しく微笑んだ。
◇
尚哉のラボ。
翌日の夜。ラボには、乾燥炉の熱気と、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
尚哉は、プレス機にピエゾ素子の金型をセットする。
これも尚哉が獄中で研究した技術で、共振周波数を求め、粒子を揃える技術だが、金型を使うだけだとかなり厳しかった。
(NESのラボなら、超音波振動機能がついているプレス機があるんだけど――)
「……レバーを引くぞ。手、貸してくれるか」
狭いプレス機の前に二人が並ぶ。尚哉の手の上に、夏海の手が重なる。
もう尚哉も夏海も同じ想いだった。
重なる手のひらから伝わる熱が、二人の共同作業の証だった。
ググッ……と、重い圧力がかかる。粉末が固まっていく感触が、二人の沈黙を埋めていく。
『キーン……』と、耳の奥を刺すような高い超音波の音。
「これが、粉を密着させる音だよ」
尚哉の言葉通り、モニターに映る粉末の密度が、限界を超えて上昇していく。
ピンセットで小さなパーツを重ねる。
夏海は真剣な尚哉の顔を見ていると笑いたくなった。
「笑ったらダメだよ。ズレちゃう」
そう言っている尚哉も笑っていた。
二人で見つめ合った。自然と笑みが溢れる。
「さっさとやっちゃおう」
夏海が一回目の超音波プレスで作った、黒い円盤。これをコイン型の金属ケースの底に置く。
尚哉が、破れやすい薄い固体電解質(膜)を黒い正極の上に、《完全に真ん中》に来るように置く。
「……くっ、離れない」
乾燥したボックス内は静電気がものすごいため、薄い膜がピンセットに吸い付いてしまう。
尚哉が息を呑んでコントロールする。
夏海が横から見ている。
「あ、右に0・5ミリずれてる!」
最後に夏海が金属光沢のあるリチウムの薄い板を一番上に重ねた。
黒い正極、白い電解質、銀色の負極。
「三つの色が重なって、やっと電池の形になったね」
夏海の言葉に、尚哉が満足げに頷いた。
「仕上げだ。……夏海、一緒にレバーを」
重ね合わせた三つの層を、一つの『電池』に変える儀式。
二人の手が重なり、プレス機のレバーを力強く押し下げる。
「……これで、バラバラだったパーツが、一つになった」
「私たちみたい……」
お互いに目を見た。
目の前には、世界でたった一つの、二人の愛と技術が詰まった『第一号セル』が転がっている。
尚哉が、隣に座る夏海をじっと見つめる。
マスクのない、剥き出しの素顔。
「……夏海」
名前を呼ぶ掠れた声に、夏海が顔を上げた瞬間。
尚哉は、吸い寄せられるように彼女の唇を奪った。
二人は何も言わず、呼吸を整えた。
「……できた。行こう、測定室へ」
尚哉が慎重に、セルの端子をホルダーに固定する。小さな金属の塊が、太い配線を通じて測定器の《心臓》へと繋がれた。
測定器と繋がったパソコンの画面で、《充放電サイクル》の条件を入力して、マウスをカチッとクリックする。
尚哉がエンターキーを叩いた。
部屋の隅で、測定ユニットが『ファン……』と低い駆動音を上げ始める。
真っ黒だったモニターに、一本の青い線が走り出した。
「……上がっていく。電圧、安定してるね」
夏海が画面を覗き込む。
「ああ。界面の抵抗が極限まで低い証拠だ。……くるぞ、理論上の限界値だ」
二人は、並んで座ったまま画面を見つめる。
『4・2……4・3……4・4……』
普通の全固体電池なら、ここで反応層ができて電圧が急落し、グラフは無残に折れ曲がるはずだ。だが、尚哉のナノパッシベーションを施したセルは、嘲笑うかのようにその壁を突き抜けていった。
「……4・5V突破。尚哉、止まらないよ!」
夏海の声が弾む。
「……信じられない。シミュレーション以上のデータだ」
尚哉の手が、無意識に夏海の手を握りしめていた。
二人の執念が、数字になって世界を塗り替えていく。
「でも、どうしてももっといい環境でセルを試作したいんだ。田端社長に掛け合ってみようと思う」
「尚哉、私も一緒に説得する」
「ありがとう」
尚哉は夏海の手を握ると、夏海は微笑んだ。
◇
NESのプレス機を借りに尚哉はNES本社に行った。
カフェで夏海と待ち合わせをしていた。
夏海が手を振った。
「一旦社長室行って。カードとログインIDとパスワード借りられるから。今日だけのやつ」
「社長と会うの久しぶりだな……」
(なんて言って謝ろう……)
夏海の後ろから社長室に入った。
尚哉は一礼する。
久しぶりに見た田端社長は、少し年老いて見えた。
「この度は申し訳ございませんでした」
「久しぶりだな」
田端社長は、怒っている様子も悲しんでいる様子もなかった。
「いい数字出したそうじゃないか」
「ああ……今は企業秘密です」
尚哉は頭を掻いた。
「うちの資源使うのに教えてくれないのかい?」
尚哉は持参したアルゴンガス充填のステンレス製真空キャニスターを取り出した。
「後で説明します」
「じゃあ、早速ラボに行こうか。……さっきの、企業秘密ってとこ、冗談は笑っていうものだよ」
真一郎は、そう言って尚哉の肩をポンと叩いた。
◇
尚哉がかつての職場のラボに帰ってきた。
(懐かしい……ほとんど変わってない)
大切に抱えてきた銀色のキャニスターをグローブボックスに繋いだ。
キャニスターのバルブを開け、中の粉を計量皿に移した瞬間、ラボのライトを反射してその粉がギラリと銀色に輝いた。
「……なんだ、その光沢は? まるで金属粉じゃないか」
監視モニターを見ていた主任研究員が、思わず声を漏らす。
本来、硫化物の粉末はくすんだ色をしているはずだ。だが尚哉の粉は、一つひとつの粒子が鏡のように磨き上げられたかのような、異様な《金属光沢》を放っている。
「この輝きは、界面抵抗をゼロにするために俺が叩き込んだ、ナノコーティングの証です」
「もしかして、ナノパッシベーション?」
主任研究員が尚哉に聞いた。
「そうです」
尚哉は、サラッと答えた。
「なるほど」
真一郎が唸った。
周りがざわついてくる。
専門家であればあるほど、その《輝き》がどれほど異常な領域の精製技術によるものか、理解できてしまうのだ。
尚哉はグローブ越しに、その粉を金型へと流し込む。
「次はプレスします」
「……尚哉、加熱はどうした。ヒーターの電源が入っていないぞ。そんな温度でプレスしたって、粉同士がくっつくはずがない」
背後で見ていた真一郎が、我慢できずに口を出す。だが、尚哉はモニターから目を逸らさない。
「熱をかけたら、材料が劣化する。……界面抵抗をゼロにするのは、熱じゃなくて『同期』です」
「このプレス機、超音波ユニットが内蔵されてますよね。なんで使わないんですか?」
尚哉の問いに、真一郎が鼻で笑う。
「使い物にならんのだよ。出力が安定せず、材料が割れるか、ただ熱くなるだけだ。扱える者がいない。今はただの熱プレス機として使っている」
「……宝の持ち腐れだ」
尚哉はコンソールの奥深く、普通は触らない《周波数変調モード》を引っ張り出す。
「ピエゾ素子は、ただ震わせるためのものじゃない。材料の反発を『聴く』ためのセンサーにもなる。……プレス機のモニターを『圧力』から『波形干渉』に切り替えます」
ピーーー……という、耳を刺すような高い音がラボに響く。
モニターには、波がたくさん表示され、ぐちゃぐちゃな線になっている。
「今から一本の線にします」
尚哉がプレス機のレバーに手をかけ、耳を澄ませる。
ギュイイィィ……という高周波の音がラボに響く。尚哉の指先が、ダイヤルをミリヘルツ単位で微調整していく。
「……今だ」
プレス機が一気に沈み込む。
「……馬鹿な、常温だぞ!? ……っ、おい、テスターを見ろ!」
ざわつく技術者たちの前で、界面抵抗を示す数値が、ストンと『0・00』に落ちた。
物理の常識を無視したようなその数字に、ラボ全体が凍りついた。
「……これが、僕のやり方です。社長」
「……信じられん」
真一郎は、また唸った。
尚哉への質問が飛び交う。
「まだ、ありますから」
尚哉がそういうと、ラボはまた静まり返った。
尚哉はピカピカに光った出来立てのセルに、持ってきた《第三回路》を接続した。
「どんなに表面を磨こうが、5Vを超えた瞬間に、そのセルは内部から崩壊してしまう」
真一郎は、軽く言った。
だが、その視線はモニターに釘付けになっている。
尚哉は何も言い返さない。ただ、セルの側面にセットされた《第三回路》のスイッチを静かにスライドさせた。
カチッ……。
その瞬間、電圧計のデジタル数字が狂ったように跳ね上がった。
『1・2V……3・5V……4・8 V……!』
「止まるぞ。そこで終わりだ」
真一郎が、祈るように呟く。
だが、数字は止まらない。
『5・36V』――NESが喉から手が出るほど欲しがっていた理論上の限界値を、何事もなかったかのように通り過ぎる。
「……なっ!?」
『6・0V……6・5V……!!』
ラボ内が、静まり返った。
計測器が放つ微かな電子音だけが、ラボに響いた。
本来なら、この電圧に達した瞬間にセルは熱を持ち、膨張し、最悪の場合は爆発するはずだ。しかし、尚哉の作った《銀のセル》は、志遠の回路によって完璧に制御され、深い眠りについたままのように静まり返っている。
――そして。
『7・02V』
鮮やかな緑色の数字が、モニターに静止した。
「……バカな。ありえん」
真一郎が、ついに椅子から立ち上がった。
「理論崩壊だ……」
技術者たちが、ガタガタと震えながらモニターを見つめている。
尚哉は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、《技術者としての誇り》だけが宿っていた。
「これが、僕と志遠の研究の成果です」
「お前は、獄中で頑張ってきたんだな……」
真一郎が、少し震えた声で言った。
「……はい」
「わかった。休日に限り、ラボを使っていい。ただし監視付きでな。監視は夏海でいいだろう」
「ありがとうございます」
尚哉は嬉しくて笑顔になった。
それから尚哉は、何人もの研究員からの質問攻めに合っていた。




