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第3話 孤独な天秤

 木曜日の昼休みが終わる頃、尚哉はデスクで鳴り出した会社用携帯を取った。

 

 ――夏海だ。

 尚哉はすぐ電話に出た。

「こんにちは」

『夏海です』

「どうしたの?」

『例の一階のカフェの模様替え、手伝ってもらえませんか?』

「おっ、もちろんいいよ。いつ?」

『明日の夜なんだけど、店閉めてからになるから、二十時くらいで大丈夫?』

「もちろんだよ。じゃあ、その前に軽く夕飯、僕が奢るけど、どう?」

『うん、わかった。いつもありがとう』

「僕はそのままカフェの軽食でもいいよ」

『そうね、尚哉さんがそれでいいなら。じゃあ、また明日、楽しみにしているね!』

「またね」


 尚哉が電話を切ると、隣の席の田辺仁が話しかけてきた。

「古川さん。例の社長令嬢?」

「ん? ……ああ、まあ」

 尚哉は頭を掻いた。

 

「いつの間にそんなに仲良くなったの? やるねえ」

 田辺はニヤニヤして続けて言った。

「みんな社長にビビって近寄らないのにさ。よく行くよなあ」 

「なんとなく気が合っただけだよ。そんなんじゃない」

「まあ、社長に気に入られるように頑張ってね」

 田辺は尚哉の肩をポンと叩いてどこかへ歩いて行った。


 尚哉はしばらく一点を見つめていた。その後、ラボの方に移動した。


 ◇


 尚哉はラボへと続く屋根付きの渡り通路を歩いていた。

 足元のプランターには、パンジーやビオラが青や黄色の花を咲かせている。

 さっきの電話の夏海の声が耳からなかなか離れなかった。

 尚哉は頭を切り替え、実験の手順を思い浮かべた。


 建物に入り、階段を上がった先にあるラボ棟のロッカー室。

 尚哉は自分のロッカーを開け、私物の服を整えたあと、白衣を取り出す。

 白衣を着て、専用のシューズに履き替える。防塵マスクをつけ、グローブボックスで使う薄いインナー手袋をはめる。

 

 尚哉が働くラボは、全固体電池の量産化を担う技術開発部だ。二階が作業場、三階が研究部門になっている。

 

 ロッカー室を出て廊下を進み、階段を登る。

 二階が尚哉の作業場だ。カードキーをかざして扉を開けると、空気が乾燥した冷気のように肌に触れた。


 部屋に一歩足を踏み入れると、作業台には粉体用のヘラやプレス用の治具が整然と並び、ガラス扉付きの棚には電極シートやリチウム金属箔が、厳重に真空パックされて整列している。

 

 エアシャワーを抜けて入ってきたばかりのドアが、二重扉の重い音を立てて閉まる。高性能エアコンの除湿モーターの唸りが、ラボ全体に低く響く。

  

 尚哉は白衣の袖をまくり、グローブボックスに身を乗り出した。アルゴンガスに満たされた空間で、極限まで乾燥した固体電解質の粉末が、光を鈍く反射している。

 

 微細な粉末の量を超精密天秤で測り、デジタル表示が小数点以下四桁で安定するのを息を詰めて待つ。

 

 目の前のプレス成形機のダイヤルを、昨日計算した値にセットする。何百Mpaの圧力をかけるか、それが今日のセルの界面密着性を左右する。


 グローブボックスの覗き窓越しに、彼は慎重にコイン型セルを組み立てた。その小さな円盤が、数日後、量産試作ラインへと繋がる最初の一歩になる。

 

 プレス成形機から、圧力が極限に達したときの『キィ…』という金属の軋みがかすかに響く。数マイクロメートルの隙間を、この圧力が叩き潰し、電気の道を作る。

 

 失敗すれば材料が無駄になるだけでなく、量産計画の遅延と、次の試作の計画にも影響する——責任感とわずかな焦りが、静かなラボの空気に溶け込む。


 尚哉がセットした圧力設定値は、理論上もっとも効率のよい、この部署の誰も知らないはずの数値だった。


 尚哉は慎重に作業を終え、プレス機からコイン型セルを取り出した。

 通常、この高圧で成形されたセルは、僅かに歪んだり、端が欠けたりすることがある。

 しかし、尚哉が手にしたそれは、寸分の狂いもなく均一な円盤として仕上がっていた。まるで、最初から固体電解質と電極が一つであったかのように。

 

 尚哉はセルの外周を指の腹でそっと撫でた。

「理論上、界面抵抗はゼロに近い」

 

 彼は結果の数値を、今日のログとして解析システムに入力した。

 その数値は、三階の研究部の誰よりも、日本のどのラボの公表値よりも、理想に近すぎるものだった。

 そして、この記録が、尚哉が所属する技術開発部のサーバーに記録された。

 

 ◇


 その日の夜。田端家の夕食後。

 真理子の書斎に真一郎がドアをノックした。

「真理子、いるか?」

「どうぞ、あなた。まだ仕事?」

 真理子は部屋の大きな作業机に向かい、明日のカフェ模様替えの分厚い見積書兼請求書をまとめていた。その表情は、仕事人としての鋭さに満ちている。

 真一郎は革張りの重厚な椅子に座り、ファイルを開いた。


「……例の古川尚哉の過去歴の調査結果なんだが」

「あー、夏海のボーイフレンドね。結果は?」

 真一郎は、ため息まじりに資料を差し出した。

 

「一年間の海外研究について調べたんだが、ドイツの研究所にその期間たしかに在籍していたことがわかった。研究所からの回答も完璧だ」

「あら、そう。じゃあ、あなたの深読みだったんじゃない?」

 真理子は資料には目もくれず、真一郎の顔を見た。彼女の視線は、データではなく、夫の表情を探っている。

「……そうならいいんだがな」

 真一郎は資料を指先で叩きながら呟いた。

 

「問題は、あまりにクリアすぎるということだ。あの男の専門分野と、ドイツでの研究内容にわずかな齟齬がある気がしてね。それに、夏海の前では言いづらくて」

 真理子は筆記具を置き、穏やかに笑った。


「そうね。明日のカフェ模様替えで、夏海が彼を誘ったらしいわ。私が直接会って、少し話をしてみる。女の勘、というやつよ」

「頼む。俺も時間を縫って顔を出す。……ありがとう、真理子」

 真一郎は立ち上がり、机の横に回り込んで真理子の顔を引き寄せ、深く頬に口付けした。

 真理子は少し照れくさそうに、彼の背中に軽く手を回して応える。

「忙しいから、手短にお願いね、社長」

 真一郎は安堵の表情を浮かべ、書斎を出て行った。

 真理子は、彼が残していった尚哉の調査資料を、ようやく手に取った。ドイツの研究所のロゴマークをじっと見つめ、小さくため息をつく。

 

 ◇


 当日の夕方。

 尚哉の携帯が鳴った。

「はい」

『夏海です』

「お疲れさま」

『お疲れさまです。今日大丈夫ですか?』

「いけるよ。どこにする?」

『あ、じゃあ、いつものところで』

「わかった。今から支度する」

『はい』

 尚哉は夏海の返事に照れが入ってるのを感じ、くすぐったかった。


 ◇


 出がけに隣の席の田辺から質問を受けて少し遅くなってしまった。

 カフェの前に来ると夏海が立っていた。

「待たせてごめんね。急に質問受けちゃってさ。対応してたら遅くなった」

「私も今来たところです」

 夏海は寒そうに震えていた。待ってたことは間違いなかった。

 尚哉はそんな夏海が急に愛おしくなった。


 夏海の背中を支えながら、カフェに誘う。

「カフェにしようか」

「はい」


 カフェの中はとても暖かく感じた。

 週末の割に空いていた。二人はレジに並ぶ。

 尚哉は夏海の手を握った。

「やっぱり冷たい。待ってたんでしょ。中で待っててもらえば良かった。すまない」

「大丈夫。それより……会社の中だから……」

「ああ……ごめん」

 尚哉は握った手を離した。

「寒くない?」

「大丈夫。めったに風邪ひかないから」

 そう言って夏海は笑った。


 レジの前。

 夏海は、ミックスサンドと紅茶を頼んだ。尚哉は、エッグチーズベーグルサンドとブラックコーヒー。

「それで足りる?」

 尚哉は夏海に聞いた。

「尚哉さんは足りないでしょ」

 夏海はクスクス笑う。

「足りなかったら、コンビニで帰りなんか買うよ」

「自宅の近くにコンビニあるの?」

「あるよ。歩いて数分」

「ならいいね」

 二人でもぐもぐ食べていると、店員が声をかけてきた。


「田端様、こちらサービスです。いつもありがとうございます」

 店員は微笑みながら、二人にケーキをサービスしてくれた。

「ありがとうございます。いつもご馳走様です」

 夏海はニコニコしてケーキを頬張った。

「僕のも食べる?」

「今ダイエット中なの」

「ふふ。ダイエット中といいながら美味しそうにケーキ食べる姿、可愛いな」

 尚哉はそう言って笑った。

 その瞬間、不意に背後から声がした。

「夏海」

 尚哉が振り向くと、荷物を持った女性が立っている。

「あ、ママ」

 尚哉は急いで立ち上がり、挨拶する。

「技術開発部の古川尚哉です。夏海さんに誘っていただいて、ご一緒してます。お手伝いできれば嬉しいです」

 

「田端真理子よ。男手がなかったから嬉しいわ。技術開発部の古川さんね、どうぞよろしく」

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