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第29話 未完成の証明

 夏海が尚哉と最初に会ってから、夏海は毎日尚哉のラボに顔を出していた。


 夏海がラボの扉から中に入る。

 尚哉はモニターをじっと見ている。


「お疲れ様。差し入れ持ってきたよ」

 ファストフードの袋を渡す。


「ありがとう」

 尚哉が代金を払おうとする。

 

「いいよ。これくらい」

「でも……」

「体に良くないと思うけど、尚哉が食べたいって言ってたから」

「じゃあ、甘えとく」

「今日も遅くまでやるんだ?」


 尚哉は天井を見ながら答える。 

「目標の半分くらいは達成できた。後半分だね。でも、目標達成したら、学会に発表する予定」

「そうなの? すごいじゃん!」

 

「学会の資料が英文だから、添削して欲しいな」

 尚哉は照れながら言う。 

「いいよ。手伝えるのは私も嬉しい」

 夏海がニコッと笑った。


 尚哉は夏海の笑顔が眩しくて、モニターに視線を戻した。

「夏海もご飯食べないと」

「これから食べに行くから大丈夫」

「……行っといで」

「じゃあ、またね」

「ごはん、ごちそうさま」

 尚哉がそう言うと、夏海は笑顔で手を振ってラボを出て行った。


 今度は志遠が入ってくる。

「例の実験終わったか?」

「まだ」

 志遠は、ファストフードの袋を見た。

「差し入れ? 夏海ちゃんか」

「うん」

「水沢さんに知られたらまずいぞ」

「わかってるよ」

 (夏海に来るなと言えないし、言いたくない……)


「さあ、実験するよ」

「お! 俺の第三回路の出番か。というか、このセルどっから持ってきたんだ? NESのロゴあるぞ」

「昨日、夏海がね……」


 ――昨日の夜。

「尚哉、これ! 使って!」

 夏海が重そうに抱えてきた箱の中には、NESのロゴが入った最新の試作セルが詰まっていた。

 尚哉は目を見開いて絶句する。

「……夏海、これどうしたんだよ。まだ発表前の次世代モデルだろ?」

「営業の特権。ちょっと『競合調査に必要なんです!』って言って、技術部の部長さんにお願いして借りてきちゃった。……あ、でも期限は一週間だからね!」

 尚哉は呆れながらも、夏海のその《目的のためなら手段を選ばない強さ》に救われる。

 自分はラボに籠もって計算と実験しかできないけれど、彼女は外の世界から、自分には不可能な《武器》を運んできてくれる。


「……と言うわけ」

「夏海ちゃん、やるなあ」

 志遠は変なところに感心している。

 

 尚哉が真面目な表情に戻る。


 第三回路とは、電池本体のセルと半導体をつなぐ、熱制御用補助導電パスだ。

 異常電圧時に瞬時に負荷を逃がし、電池内部の熱暴走と構造破壊を防ぐための命綱とも言える。

 志遠が独自に立案・開発したこの技術は、すでに指先ほどの小さなチップにまで集約されていた。

 

 尚哉が電圧を上げる。 

 

 さらに異常加熱をシミュレートした瞬間、志遠が組んだ第三回路が静かに作動する。


「よし、熱制御パスに電力が逃げた! セルは無傷だ。……尚哉、これ、世界が変わるぞ」


 二人は、小さな液晶画面に表示された、完璧に安定した波形をただ見つめていた。

 

 ◇


 今日も定時後に夏海が尚哉のラボに来た。

 

 尚哉が獄中で研究した技術にナノパッシベーション技術があった。

 夏海に説明する。

 

「硫化物系の固体電解質は、イオン伝導率は高いが、正極との界面でどうしても反応層ができてしまう。それが電池の寿命を縮める最大の原因だった」

 

 尚哉はモニターに映るナノレベルの解析図を指した。


「だから俺は、正極活物質の粒子一つ一つの表面にニオブ系の酸化物でナノパッシベーションを施すことを考えた。わずか数ナノメートルの膜だが、これが絶縁破壊を防ぎ、界面の抵抗を極限まで下げる。しかも、コーティング剤のおかげで乾燥条件が大幅に緩和できる」


「粉にコーティングか……すごいね」


「親父が中古の真空蒸着機を見つけてきてくれたんだ。制御系の基盤は新たに組み直して、1ナノ単位で膜厚をコントロールできるようにした」

 

 それは巨大な潜水艦の窓の窓なようなものがついた、重厚で錆びた鉄の塊だった。

  

「夏海、そこ動くな。……いいか、今から容器を開ける。絶対に、息を止めてろ」


 尚哉の真剣すぎる眼差しに、夏海は思わずコクンと頷いて、口をぎゅっと結ぶ。


 尚哉が慎重に、真空蒸着機へ投入するための《生》の粉を取り出す。

 ほんの数秒。でも、二人にとっては永遠のような静寂。


 尚哉の手が、精密な動きで粉をマシンへ流し込む。

 最後にハッチを閉め、真空ポンプのスイッチを入れた瞬間、尚哉が「……ふぅ」と短く息を吐いた。


「……ぷはっ! も、もう吸っていいの!?」


 顔を真っ赤にした夏海を見て、尚哉は少しだけ口角を上げた。

「ああ。これでやっと、外の酸素や湿気から守られた。ここからは『魔法』の時間だ」


「夏海、今日は時間はあるか?」

「うん。大丈夫よ」

「セル作るの手伝ってくれないか?」

「ここのセル第一号?!」

「ああ、そうだ」


「夏海、これ混ぜるから見てて」

 電極の粉末と液体を混ぜて、ドロドロのソース(スラリー)を作る。

 夏海はしばらくの間、《攪拌機》を見守っていた。

「尚哉、そろそろマヨネーズくらいの固さになったよ!」

 

 夏海の弾んだ声に、尚哉が背後から覗き込む。ふわりと夏海のシャンプーの香りがして、尚哉は一瞬息を止める。

 (……だめだ、今は集中しろ) 

 自分の立場を言い聞かせるように、尚哉はスラリーを厳しく見つめた。

 

「箔がズレないように押さえてて」

 尚哉の指示に、夏海が真剣な顔でアルミ箔の端を指で押さえる。

 尚哉がスラリーをアルミ箔に薄く均一に塗った。

「塗りムラ、ないよ。完璧」

「ありがとう」

 尚哉がわずかに微笑む。その笑顔を見て、夏海は胸がズキリと痛む。

 (蒼さんとでは感じない、この胸の痛み……)


 乾燥炉の前に移動して、スラリーを入れて乾燥炉のスイッチを入れた。

「塗った後は、この乾燥炉で一晩寝かせる。溶剤を完全に飛ばさないと、次のプレスで膜が死ぬんだ」

 尚哉の言葉に、夏海は窓越しに赤く光る乾燥炉を見つめる。

「一晩……。じゃあ、明日の朝まで待つしかないのね」

「ああ、焦らない。電池作りは、待つのも仕事だから」

 

「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」

「いいけど、もう遅いよ」

 尚哉が時計を見ると十時手前だった。

「遅くさせすぎたね、送るよ」

「ありがとう」

 夏海のスマホが鳴る。蒼からだった。


 夏海が尚哉に背を向けて、会話している。

「迎えに来る? 大丈夫だから」

「本当に大丈夫」

「……わかった」


 夏海は、電話を切った。

「蒼さん、ここに来るって」

 

「……そうか」

 尚哉は静かに言った。

 (ここに夏海が通う以上、いつかこうなるとは思っていた……)

 

「外で待っとくね。またね」

 ドアが開き、夏海が出て行こうとすると、焦燥を浮かべた蒼がラボに入ってきた。

「蒼さん……」

 

 尚哉は蒼を見ると、ゆっくり立ち上がった。


 蒼が夏海に話しかける。

「夏海、夜遅くは危ないから、なんもなくてよかったよ。真一郎さんに最近ここにきてるって聞いてたし、気にはなってたんだ」


「水沢蒼です。夏海の婚約者です」

「古川尚哉です」


 綺麗な高級スーツに身を包んだ蒼と、真っ黒に汚れた作業服の尚哉。


 見た目では圧倒的に蒼が有利だった。


「私の婚約者と親しくしないで欲しい」

 蒼が尚哉に歩いて近づいた。


「作業を手伝ってもらってただけです」

 尚哉は俯く。


 蒼はこんな態度の尚哉にカチンときていた。

 (前科者で恋人も守れないくせに、曖昧な態度しやがって……)

 

「夏海もこんな薄汚い前科者にもう近づくな! 真一郎さんのためにも。会社のためにも」


「蒼さん、それはできないわ! ごめんなさい。私……やっぱり尚哉が好きなの」

 夏海は涙を流していた。


 蒼の拳が震えている。

「この! なんか言えよ!」

 

 蒼が尚哉の胸ぐらを掴んだ。

 尚哉は掴まれながら蒼をまっすぐ見た。


「俺は……夏海を幸せにする自信がない」

 尚哉は拳を力一杯握りしめていた。

  

 蒼は尚哉の胸ぐらを押し上げる。

「何言ってんだよ! 幸せどころか不幸にしてんの、気づいてないのかよ! 悔しいけど……」

 蒼が言葉に詰まる。涙を堪えた。

 

「悔しいけど、あんたと一緒にいるのが一番幸せなんだよ……」 

 蒼は、拳を下ろした。


 夏海は二人を見て、ポロポロ泣いている。

 

「最後に確認するけど、あんたは夏海が好きなんだよな?」

 尚哉は少し躊躇したが、口を開けた。

「ああ、好きだ」

 

「……婚約のことは、俺から言っとくから。夏海、元気で」

 蒼は夏海に優しく言った。


 尚哉には、「泣かすなよ!」と言って、ラボを出て行った。


 ラボには静寂が戻った。

 

 尚哉は夏海に歩み寄る。まだ泣いている夏海を抱き寄せた。

「今までごめん……。何度も傷つけた」

「もういいの」

「今晩、うちに泊まるか? ボロアパートだけど……」

「うん」


 ◇


 尚哉の家で、深夜。


「……覚えているか。あの時、君の家のベランダ越しに電話で言ったこと」

 

 尚哉の声が、夏海の耳元で低く響く。

 

「『君をさらってしまいたい』……あれ、本気だったんだ。スパイなんて任務も、何もかも捨てて、君とどこか遠くへ逃げ出したかった」


 夏海は、尚哉の背中に回した手に力を込める。

 (あの夜、電話越しに聞いた彼の声の震え。あの時は理由がわからなかったけど、今、すべてのピースが繋がった)

 

「服役中、辛かった時も夏海がいたから乗り越えられた。夏海は俺の中で女神なんだよ」

 

 ――これが本当の尚哉の心の言葉だった。やっと夏海の前で素直に言うことができた。

 

「……私、あなたのこと、一日も忘れたことない」

「俺だって。……愛してるよ、夏海」

「私も……愛してる」


 重なる唇。混じり合う吐息。

 

 何年もの月日を追い越すかのように尚哉は夏海を求めた。

 

 (……生きててよかった。洗脳も、監獄も、この瞬間に辿り着くための道だったなら……耐えてよかった)

 

「尚哉……」

「夏海……」

 

 二人はお互いの名前を呼び合い、溶けていく。

 二人の確かな夜は更けて行った。

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