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第28話 優しさの棘

 田端家の夕飯後。

 

 真理子が夏海の部屋に行った。

 夏海はパソコンに向かっていた。


「夏海、蒼くんとはうまくいってるの?」

「何回かデートしたよ。先週は、テニスの試合観に行った」

  

「そう。どうだった?」

「楽しかったよ」

 夏海は指をいじりながら答えた。 

 

「蒼くん、小さい頃は体が弱かったらしいわ。テニスを始めてから体力がついて体調が安定したらしいわ」

 

「そうなんだ」


 真理子が夏海の方に手を置いた。

「夏海がいいならそろそろ結納しましょうかね」


「結納……」


「あちらの親御さんがかなり夏海のことを気に入ってくれてね。早めに式を進めたがってるわ」


「まだ気持ちの整理がついてないよ」


「一緒にいる時間が増えるうちに気持ちがついていくわよ」

 真理子はそう言って笑った。


 夏海は笑わなかった。

 尚哉と、どんどん離れていってしまう距離を感じていた。


 ◇


 尚哉の仮釈放。


 刑務所に志遠が迎えにいく。

 車の中で、志遠が労いの言葉をかけた。

「お疲れ様。何か食べたいものはあるか?」

「……寿司」

「回転寿司でもいいか? 回らない寿司行ったことないんだよ」

「なんでもいいよ」

 尚哉は笑いながら車からの街の景色を眺めた。

 

「その前に家に行くか。新しいラボの近くにアパート借りたから」

「それは助かる」

 部屋は1LDKだった。

 尚哉は荷物を置くと、こう言った。

 

「新しいラボが見たい」


 志遠は工場と、その片隅にあるラボを案内した。


「ここだよ」


 志遠が重い鉄扉を開くと、独特の機械油と、焼けた半田の匂いが混じった空気が流れ出してきた。

 広さは十畳ほどだろうか。中央には、志遠が方々からかき集めてくれたのであろう、使い込まれた頑丈な作業デスクが鎮座している。

 その上には、尚哉が喉から手が出るほど欲していた《世界》が広がっていた。

 高精度なデジタルオシロスコープ、電圧を制御する直流電源装置、そして奥の防爆ブースには、全固体電池の心臓部を作るための小型グローブボックス。

 どれも最新鋭ではないが、手入れが行き届き、鈍い光を放っている。

 尚哉は吸い寄せられるように、デスクの上のテスターに触れた。

 指先に伝わる冷たい金属の感触。

 独房の冷たさとは違う、何かを生み出すための、熱を帯びた冷たさだ。

「……これだけのものを、揃えてくれたのか」

「ああ。中古だけどな。やっと売ってくれる取引先の知り合いの会社が見つかったよ。借りたものも結構あるし。お前が獄中で書き溜めてたあの『設計図』、ここで形にしなきゃならんからな」

 志遠のぶっきらぼうな言葉に、尚哉の視界が少しだけ滲んだ。

 ここにあるのは単なる機械じゃない。志遠の信じてくれた時間そのものだった。

 

「いつかお金は返すよ」

「大丈夫だ。今は前と違って余裕だよ」

「いや、返すから」

「それより早く第一号作ってくれよ」

「そうだね。楽しみだ」

 

 尚哉はもう一度、ガランとしたラボを見渡した。

 窓から差し込む夕日が、舞い上がる小さな埃を黄金色に照らしている。

 ここで、俺はもう一度始めるんだ。いつか世界が変わるようなものを作るために。

 

 近くの回転寿司に向かった。


 志遠はお茶を用意しながら言った。 

「まずい飯ばっかり食わされてたんだろ。いっぱい食べな」

「久しぶりだ。ほんと」

 

 尚哉は注文の仕方も分からず戸惑った。

「この大きなパネルから注文するんだ」

「わかった」


 尚哉は、アジが好きだった。

「お前アジが好きだったよな。トロとかも食うか?」

 

 志遠が高そうなものをどんどん注文する。

 

 テーブルの上には二十皿ほど並んだ。

 

「頼みすぎ……」

 尚哉がそう言うと、二人で笑った。

  

 ◇


 平日の夜。

 蒼がNESの会社の前に車を停めて、夏海を待っていた。

 仕事を終えた夏海が蒼の真っ赤なスポーツカーを見て乗り込んだ。

「平日にごめんね。話がしたくて」

「ううん。忙しくなかったし、大丈夫」

 夏海は微笑んだ。

 

「先日言ってたイタリアンレストランに行こうか」

「はい」

「その店、従兄弟が経営してるんだ」

「そうなんだ」

「とっても美味しいから」

 蒼は車を走らせながら、夏海をチラッと見た。

 夏海は遠い目をしていた。

 

「結納の話をしたくてさ。細かい打ち合わせがしたかったんだ」

 ハンドルを操作しながら、蒼が言った。

 夏海はドキッとする。

 

「まだ、早くない……?」

「いや、親が早くしろってうるさいんだよね。うちの弟はもう子供がいるし……。夏海さんは違和感ある?」


「違和感……というか、まだ数回会っただけだし……」


 会話している間に、駐車場に着いていた。

 蒼の左手は助手席のシート、右手はハンドルに置いて、夏海を見つめた。


「何回会えば、本気で向き合ってくれる……?」

 蒼は、見透かすような視線を送った。


「……」

 夏海は、蒼の直球な言葉にたじろいだ。


「君の中にはまだ前の奴がいると、薄々感じてたけど、僕はいつも本気で君を見てたよ」 


「ごめんなさい……」

 夏海は、ポロッと涙を流した。


「ごめん……。怒ってるわけじゃないんだ。君の気持ちが知りたいだけなんだ」

 蒼は、夏海のシートベルトを外して抱き寄せた。


「僕のこと嫌い?」

 夏海は首を振った。

 (そうじゃない――。貴方はいい人。私は気持ちを返してあげられないの)


「じゃあ、好き?」

 蒼が体を離した。

 

「ごめんなさい。尚哉のことが消えないの。まだ考えちゃうの」

 夏海は下を見ながら呟いた。

  

「それも含めて、好きになってもいい?」

「……」

「時間かかってもいい。待つよ」


 ――待つよ。と言う言葉が、夏海の胸に刺さった。

 (蒼さん、私のこと本気で愛そうとしてくれてる……)


「夏海さんのこと、夏海って呼んでもいい?」

「うん」

「ありがとう。……ご飯食べられる?」

「大丈夫」

「よかった」

 蒼は、微笑んだ。


 車を降りると、蒼が夏海の手を取った。

 夏海は、微笑む蒼の顔を見て思った。

 (蒼さんは、優しい……。好きになれたらいいのに)


 イタリアンレストランは、柔らかなキャンドルの火が揺れる、落ち着いた大人の空間だった。

 

 蒼は、夏海が暗くならないように、仕事の面白かった話を聞かせた。

 夏海が笑うと蒼は安心したような表情をした。

 夏海が、「美味しい」と言うと、彼は本当に嬉しそうに目を細めた。

  

「良かった。君が美味しそうに食べてくれるのが、一番見たかったんだ」

 蒼は素直に気持ちを伝えた。


 デザートが運ばれてくる頃、蒼はそっと夏海の手の甲に自分の手を重ねた。指先を絡めるわけでもなく、温かくて静かな触れ方だった。

  

「さっきは困らせてごめん。……結納のことは、もう少し君のペースに合わせるよ。親には、僕から上手く言っておくから」

 

 (……本当に、この人は優しい)

 

 夏海は胸の奥がチクりと痛むのを感じた。蒼の優しさは、尚哉を想う自分を責めているように胸を締め付けた。

 

「ありがとうございます……蒼さん」


 蒼は微笑んで、夏海を安心させるように、その手を軽く一度だけ握りしめた。 

 

 ◇


 次の日の定時後、夏海はいつものように志遠の工場に顔を出した。 

 

 夏海は志遠のそばにいると安心する。まるで実の父のように思っていた。


「あ、夏海さん」

「志遠さん、こんばんは。遅くまでお疲れ様です」

「尚哉がね、仮釈放になったよ」

「本当ですか?」

「つい昨日だよ」


「尚哉は今どこに?」

「今日は書類の書き物とか荷物の整理で、もう帰ったよ」

「家を聞いてもいいです?」

「ちょっと待ってね」

 志遠は、尚哉のアパートの契約書を引っ張り出した。

「ここだよ」

「近いですね」

 志遠は、つい教えてしまったことを後悔した。

 (まあ……いずれバレるだろうし……、いいか)

「送って行こうか?」

「近いから大丈夫です。ありがとう」

 夏海は笑顔で急いで工場を後にした。

 

 ◇


 夏海が尚哉のアパートに着いた。

 尚哉がドアを開けると、夏海がいた。

 二人はしばらく無言で見つめ合っていた。

 

 ――夏海、なんで来た?

 ――尚哉、痩せたね。


「夏海、なんでここがわかったの?」

「志遠さんが教えてくれたの」

 夏海は中に入ろうとするが、尚哉が手で制止する。

 

「君はこんなところにいるべきじゃない」

「お祝いしたかっただけなんだけど……」

 夏海は手に持った花束を尚哉の前に差し出した。


「……ありがとう」

「……じゃあ、またね」

 夏海はそう言って、走って戻って行った。


 尚哉は受け取った花束をしばらく眺めていた。

 ペットボトルで花瓶を作り、生けた。

 尚哉は生けた花を眺めた。

 嬉しそうに微笑んでいた。


 夏海も尚哉に会えて嬉しくて微笑んでいた。

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