第23話 視線の行方
数週間後、古川尚哉の第一公判が始まった。
傍聴人席には、最前列に田端真一郎、田端真理子、田端夏海。そしてその後ろにNESの幹部役員らが、冷ややかな視線を投げていた。
弁護人席には、佐々木匠弁護士と、身元引受人として尚哉を支える李志遠。
対する検察席には検察官が座っていた。
その背後、関係者席に陣取るNES顧問弁護士・高槻慎は、被告人席の尚哉を逃さぬよう鋭い視線を向けている。
夏海は、落ち着かない様子で尚哉の姿を探した。だが、どこにも彼の姿はない。
法廷が静まり返ったその時、脇の重い扉が静かに開いた。
(来た!)
夏海は、弾かれたように身を乗り出し、食い入るようにその姿を見つめた。
入ってきた尚哉は、以前より一回り痩せ、顔色も青白い。
彼は終始俯いたまま、一度も傍聴席を振り返ることなく、ゆっくりと佐々木弁護士の隣へと進んだ。
椅子に深く腰を下ろしたその背中は、夏海が知っている彼よりも、ずっと遠く、頑なに見えた。
「被告人、前へ」
促されて証言台に立った尚哉が、口を開く。
「古川……尚哉です。中国名は、李偉です」
その瞬間、夏海の記憶が蘇る。
今まで聞いていた面会室の声は、スピーカーから流れてくる《音》だった。
今のそれは、二人で過ごした時に聞いた、あの少し低くて、心地よく響く、尚哉の本当の声。
「生年月日は、一九九九年十二月十八日。本籍は、――。住所は現在、東京拘置所です。無職です」
裁判官は頷き、検察官の方へ視線を向けた。
「では、検察官。冒頭陳述をお願いします」
検察官による「起訴状」の朗読が始まる。
「二〇二五年九月十三日から十五日に中国の北京にある恒久動源研究所に行き、所長である張恒一にあらかじめ用意しておいた技術実験結果であるデータと資料の印刷物を手渡した 。二〇二五年九月十七日に隣の同僚のパソコンにキーロガーを仕込み、パスワードを入手。二〇二五年九月十九日に隣の同僚のパソコンから研究所のサーバに入り、実験結果データをコピーし、ネットカフェからあらかじめ指示されたアップロードサイトでデータをアップロードした」
「被告、起訴状の内容に間違いはありませんか?」
裁判官が問いかける。
「……間違いありません」
尚哉は掠れた声で、だが真っ直ぐ前を見据えて答えた。
傍聴席の真一郎は、長いため息をついた。
夏海は、両手でスカートの生地を強く握っていた。
志遠は、証言台の尚哉の横顔を心配そうに見ていた。
裁判官が検察官に「冒頭陳述、お願いします」と告げた。
検察官による冒頭陳述が始まる。
尚哉は裁判長のネクタイを見ながら思った。
(真一郎社長は、生まれて初めて畏怖し尊敬できる人と思った。社長のためにも、罪を受け入れ夏海のことは諦めようと思う。夏海の幸せのためにも。もしかしたら、《諦める》と言う言葉もおこがましいのかもしれない)
「……被告人は、田端夏海氏との交際を、研究所の中枢データにアクセスするための『手段』として利用した。同氏の家に招かれた際も、その隙を突いて内部情報を探っていたことは、家政婦の証言からも明らかです」
(……そうだ。僕は、そう思われても仕方ないことをした)
検察官が、冷徹な声で冒頭陳述を続ける。
「被告人は、国外の組織と接触し、指示を受けながら計画的に犯行に及んだと認められます。その行為は、我が国の基幹技術を標的とした組織的な情報窃取であり、単なる情報の窃盗にとどまりません。企業の根幹を揺るがす、極めて重大な背信行為です。本件による被害額は、被害会社の試算によれば約五億円にのぼります」
高槻顧問弁護士は、深く頷いていた。
「これより証拠調べを行います。まず検察官から、証拠の取り調べ請求をお願いします」
「甲号証第一号、捜索差押調書。甲号証第二号、被告人供述調書。甲号証第三号から第十号まで、電子データ解析報告書ほか」
淡々と検察官の読み上げが続いた。
読み上げが終わると裁判官が弁護士に意見を求めた。
「甲号証第三号については不同意です」
佐々木弁護士の声に、法廷の空気がわずかに張りつめた。
検察官が裁判官に証人を求める。
「証人の家政婦の尋問を求めます」
「承知しました。甲号証第三号の証拠採否については留保します。検察官、証人の手配をお願いします」
「では、次回公判は二月二日十時から行います。本日はこれにて閉廷します」
裁判官が木槌を打ち、閉廷を告げる。
刑務官に促され、尚哉が席を立つ。その瞬間、彼はほんの一瞬だけ、傍聴席の方へ視線を泳がせた――ような気がした。
だが、彼はすぐに顔を伏せ、一度も振り返ることなく法廷を去っていった。
夏海は、握りしめた拳の震えが止まらないまま、彼が消えた扉をいつまでも、いつまでも見つめていた。
◇
一週間後。
夏海は尚哉に手紙を書いた。裁判の話はしない。本は読んでいるか、他の本は必要か、など取り留めない話題だ。
外回り営業の時に、昼休みを利用してまた面接の申請をした。
――だが、係員にはこう言われた。
「古川尚哉被告人から、田端夏海さんとの面会は今後控えたいとの申し出がありました」
「えっ? ……そうですか。わかりました」
夏海は聞こえるか聞こえないくらいの声で返した。
夏海はそれから帰社した経路の記憶が全くなかった。
頭の中は、ある言葉が渦巻いていた。
(もう会わないの? 会う気はないの? 会いたくないの? 会うと辛いの? 忘れたいの?)
――それから何日経っても、尚哉から手紙の返事は来なかった。
◇
二月二日、第二公判。
本日は、証人として田端家の家政婦の市川雅代が呼ばれた。
市川雅代は、証人控室で呼ばれるのを待っていた。
「それでは、証拠調べを続行します」
裁判官が言った。
検察官が証人尋問を求める。
「証拠調べに入ります。まずは事件当時、田端家で勤務していた家政婦の証言を求めます」
尚哉が顔を上げた。
法廷の扉が開き、見知った顔の家政婦が入ってくる。
傍聴席の夏海は、自分の家の家政婦が証言台に立つのを、祈るような思いで見つめる。
尚哉と家政婦の視線が一瞬交差するが、家政婦は気まずそうに目を逸らした――。
市川雅代は、小さく一礼して証言台に立った。
夏海の家にいた時と同じ服装なのに、まるで別人のように見えた。
「良心に従い、真実を述べ、虚偽を述べないことを誓います」
「古川尚哉さんが夕食に呼ばれて家に来たんです。夕食前に古川さんがトイレに行った時に廊下で見てしまったんです。書斎のドアが開いていて、その前に古川さんが立っていました。しばらくした後、トイレに行ったようです」
「被告は書斎に入ったようでしたか?」
検察官が聞いた。
「見た時は立っていただけでしたが、中に入ったのかはわかりません」
雅代は首を少し傾げながら答えた。
検察官は声を張りながら尋問する。
「被告人は、書斎の中を確認しようとした可能性がある、という理解でよろしいですか」
「異議あり! 証人の憶測を誘導する尋問です」
「却下します。被告人、今の証言について答えなさい」
佐々木弁護士は手を挙げたが、裁判官は尚哉に返事を求めた。
尚哉はゆっくりと話し始めた。
「招かれた時、書斎のドアが少し開いていて、それを見てしまいました。中に入ろうか迷っていました」
佐々木弁護士が慌てて割って入る。
「被告人、答えなくて結構です!」
「裁判長、その点については弁護人から──」
尚哉は続けて喋った。
「恒久動源研究所からは、家に入れたら、調べろと言われていましたから。研究所からは家の間取りも教わっていました。でも、僕は何も出来ませんでした」
傍聴席がざわついた。
夏海は尚哉の言葉が信じられなかった。
(本当に騙そうとして私に近づいたの……?)
夏海が貧血でふらっとして、真一郎に倒れかかった。
真一郎が、「夏海、大丈夫か?」と支えて声をかける。
その瞬間、尚哉は少し振り向いてしまう。が、すぐ前を向き直す。
「大丈夫、ちょっと貧血になっただけ」
真理子は尚哉が振り向いたところを見ていた。
――振り向いてしまった。
尚哉は、前を向いたまま、唇を噛みしめた。
夏海の方を見てはいけない。
見れば、すべてが崩れてしまう。
守るつもりで選んだ言葉が、いちばん傷つけてはいけない人を、突き放した。
それでも。
それでも、これでよかったのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
刑務官の声が、彼を現実に引き戻す。
「被告人、移動します」
尚哉は、もう一度だけ、心の中で名前を呼んだ。
――夏海。
だが、その名を口にすることは、もう出来なかった。




