第22話 それぞれの檻
佐々木弁護士は、今日も尚哉の面会に来ていた。
裁判の準備の報告と、段取り確認などやることは多い。
佐々木が面会室の椅子に座って待っていると、尚哉がアクリル板の向こうの部屋に入ってきた。
「こんにちは。今日は更生案を持ってきました」
「更生……?」
「古川さんは実刑を望まれていますが、実刑を受けなくても社会貢献する方法はあります」
「……」
「古川さんの培った技術を他の方へ教育や研究支援をしたり、学生への貢献が出来ます」
「……」
「夏海さんへの影響が心配とおっしゃられていましたが、メンタルカウンセリングを受ければ、きっと自己コントロールもできるようになります。前回お伝えしましたが、あなたの住居は秘匿できますから個人情報は守られます。……いかがでしょうか?」
尚哉はしばらく黙って考えていた。
「……案は大変ありがたいのですが……」
尚哉の声は掠れていた。
「僕はそんな強い人間でもありません。夏海を……僕の手から守りたいんです。どうしても……」
「……そうですか」
佐々木は肩を落とした。
「では、何度も繰り返しになりますが、法廷での注意です」
「検察官や裁判長の質問には、『はい』か『いいえ』、あるいは短く事実だけを答えてください。『自分は最低な人間です』とか『もっと重い罰を』なんて個人的な感情を付け加えると、自暴自棄で反省していないと取られるリスクがあります」
「はい」
「傍聴席は絶対に見ないでください。夏海さんが気になっても、前だけを見て下さい。視線が泳ぐと証言の信頼性が揺らぎます。裁判長が話している時は、裁判長のネクタイの結び目あたりをじっと見るといいです」
「はい」
「起立、着席、一礼。すべてゆっくり丁寧に行ってください。『誠実さ』を視覚的に裁判長へ印象づけるためです。スパイとしてではなく、一人の真面目な技術者としてそこに立つのです」
「……」
「最後に意見を述べる機会がありますが、そこで初めて夏海さんやNESへの謝罪を口にしてください。ただし、泣き喚くのではなく、静かに、一言一言噛み締めるように」
「はい」
「お父様が証言台に立った時、顔を背けないでください。父親が自分を捨てずに支えようとしている事実を、正面から受け止める姿を裁判長に見せる必要があります。それが『更生への道しるべ』があるという証拠になるからです」
「……」
「後五分です」
刑務官が静かに言った。
「いいですか、古川さん。これは君一人の問題じゃない。身元引受人になってくれた志遠さん、そして君を信じようとしている夏海さんのための戦いでもあるんです。実刑を望むなんて勝手な理屈で、彼らの思いを無碍にしないでください」
佐々木が身を乗り出して、尚哉を説得する。
「……」
尚哉は何も言わなかった。テーブルの下で震える拳を握りしめた。
◇
今日は夏海のお見合いだった。相手は、老舗化学メーカーの社長の次男だ。
格式高い料亭は、手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。
枯山水の砂紋に冬の低い陽光が反射し、池の縁に置かれた濡れ縁が黒々と光っている。静寂の中に響く鹿威しの乾いた音が、逃げ場のないお見合いの緊張感を高めていた。
真一郎、真理子、夏海は控え室にいた。
夏海は鮮やかな瑠璃色の訪問着に身を包んでいた。
瑞々しい青地に、銀糸で縁取られた白い吉祥文様が浮き上がり、彼女が動くたびに絹の擦れる衣擦れが静かな控え室に響いた。
真一郎は、オーダメイドのイタリア製高級スーツを着ていた。
真理子は、しっとりと落ち着いた『江戸紫』の付け下げを品良く着こなしている。
「……夏海、今日のあなたは本当に綺麗よ。自信を持って」
真理子が、夏海の着物の乱れを直してあげながら、静かに微笑んだ。
仲居がこう言った。
「三田村様は皆様お揃いで、お座敷においでになっておられます。ご案内致します」
仲居を先頭に、真一郎、真理子、夏海の順で座敷に入った。
奥の席に横並びに、向かって左から三田村亜希子夫人、三田村宗介社長、次男の三田村誠治が並んで座っていた。
宗介は、漆黒の紋付羽織袴を纏っていた。
亜希子は、最高格の黒留袖。五つ紋が入っている。
端に座る誠治は最高級の紬の羽織袴に身を包んでいた。身なりは完璧だが、どこか着慣れない様子で足を崩し、スマホをいじる仕草が、その内面の軽薄さを透けさせていた。
夏海は目の前に立ちはだかる漆黒の壁に圧倒されていた。
「三田村社長、今日は宜しく頼みます。いやあ、実は私も和装を検討したのですが、最近はグローバルな商談が多くて、ついついこの『スーツ』が落ち着いてしまいまして。ははは!」
「うちもね、亜希子が和装にしろってうるさいもんでね……」
「あなた、失礼の無いように正装にしただけですわよ」
亜希子が反論した。
夏海の向かいに座る三田村誠治は、老舗化学メーカーの次男坊らしく、どこか浮ついた余裕を漂わせていた。
伝統的な羽織袴に身を包んでいながら、首元からは高価な香水の香りが微かに漂う。
「いやぁ、夏海さん。写真で拝見するよりずっと素敵だ。瑠璃色の着物、君の白い肌によく映えてる。……正直、お見合いなんて退屈だと思ってたけど、今日は来て正解だったな」
彼はそう言って、母親の厳しい視線をさらりとかわしながら、値踏みするような視線を夏海に向けた。その瞳には、夏海の心の葛藤など微塵も映っていない。ただ、美しいモノを手に入れたいという、無邪気で残酷な欲望だけが透けて見えた。
真一郎が、膝をついたまま、ずるりと畳を擦って宗介の方へ歩み寄った。
慣れない所作のせいで、スーツの膝に無様なシワが寄る。
「あ、社長。私から……ぜひ」
夏海には、必死に腕を伸ばしてビールを注ぐ真一郎の背中は、いつになく小さく見えた。
真正面に座る誠治は、その様子を退屈そうに眺め、あくびを噛み殺している。
夏海は、父のその献身が、すべて自分を『売る』ための努力なのだと思うと、視界が急激に歪んでいった。
ビールを注ぐ音だけが響くお座敷で、夏海は瑠璃色の袖を握りしめた。
(パパ、私結婚しないからこの人と。……もうやめて)
夏海はずっと下を向いていた。
真理子は横目でチラリと夏海の表情を伺い、心配そうにしていた。
ほとんど喋っているのは、真一郎と宗介だった。
夏海の声にならない叫びを置き去りにして、真一郎の媚びるような笑い声と、宗介の重々しい相槌が部屋に満ちていく。
鹿威しの音が、またひとつ、静寂を切り裂いた。
その乾いた響きだけが、今の夏海にとって唯一の現実だった。
◇
ちょうどその頃、尚哉に面会人が来ていた。
面会室のドアの前で刑務官が言う。
「NES社の顧問弁護士の高槻慎さんが来ています」
(NES……?)
尚哉は理由がわからないまま面会室に入った。
「NES社の顧問弁護士の高槻慎と申します」
高槻は、軽く会釈した。
「今回こちらに来たのは、我が社からの損害賠償金額が決定しましたので、報告ですね」
「いくらでしょうか?」
尚哉は唾を飲み込んだ。
「二億円です。あなたが流出したデータによって、我が社が失った先行開発利益(他社より先に売って儲かるはずだった金)の損失を算定した結果です。これでもかなり手加減した金額ですよ」
「そうですか……」
「あなたの人生で返しきれるかどうかは知りませんが、これが《あなたが会社にしたこと》の金額ですから」
「はい。一生かかっても返すつもりです……」
「では、今日は報告だけですので、失礼致します。法廷で会いましょう」
高槻は、そそくさと退室した。
尚哉は、しばらくボーッとドアを見ていた。
◇
夕方。
夏海はどうしても尚哉と会いたくなり、断られると思いつつ面会申請をすると、尚哉が会ってくれるという。
着替える時間がなかったため、瑠璃色の着物に頭にはかんざしをつけたままだ。
真一郎は反対したが、真理子が取りなしてくれていた。
また例のようにしばらく待たされた後、呼ばれて面会室に入った。
尚哉が重苦しい表情で面会室に入ってきた。
殺風景なグレーの世界を塗りつぶすような、鮮やかな瑠璃色の着物。
乱れた髪をそのままに、必死に自分を見つめる夏海の姿。
「……夏海?」
(綺麗だ……。とっても)
高槻によって凍りついていた尚哉の心が、その色を見た瞬間に、激しく波打ち始めた。
「その格好は?」
「……さっき、お見合いしてきたの。パパに頼まれて。……断るけどね」
尚哉は、夏海のその言葉を聞くと、意を決する。
「前回最後だと言ったはずだ。これで最後にしよう」
夏海は確認しようとする。
「尚哉は、私とカフェで会ったのは指示があったのかもしれない……でも、その後もずっと指示で私と過ごしていたの?」
「いや、細かい指示は受けていない」
「じゃあ、本心?」
「……いや、違う」
尚哉は夏海と目を合わせない。
「尚哉、私の目を見てちゃんと言って」
「……君との未来はない」
尚哉は左手の拳を強く握り、目を合わせて言った。
「……そう」
夏海は俯いた。かんざしの飾りの音がした。
「お互い会っても傷つくだけだ。これで最後にしよう」
「未来なんてまだわからないわ。……私は待つよ」
「ダメだ。待つな」
「嫌。待つわ。あなたがそう言っても勝手に待つわ」
夏海のほぼから涙が伝った。
尚哉は耐えられず、刑務官に言った。
「面会終わりにしてください」
「じゃあ、戻るぞ」
夏海は尚哉の姿を目に焼き付けていた。
尚哉は静かに立って面会室を出ていった。
尚哉は震える左手で顔を覆った。頬に涙が伝っていた。




