第2話 距離がほどける夜
田端家の朝の食卓。
田端真一郎の方針として、どんなに忙しくても食卓は出来るだけ家族で囲む、ということだった。
家政婦――市川雅代は、食事の配膳をしていた。
「今日は洋食にしましたよ」
「うむ。体調はもういいのか?」
真一郎は新聞を読みながら言った。
「昨日一日休ませてもらったら、すっかり良くなりました」
「まあ、無理せんようにな」
「ありがとうございます」
夏海の母――真理子と夏海が起きて来て食卓の席に着いた。
「おはよう、あなた」「おはよう、パパ」
真理子は、インテリアデザイナーをしている。NES本社のカフェや役員応接室、社長室の内装も手掛けている。
フリーランスとして、時々取引先のコーディネートも行っていた。
「そろそろカフェの内装も替えしないといけないわね」
真理子が真一郎に話しかけた。
「もうそんな時期か。早いな」
真一郎は、新聞から視線を外して夏海の方を見た。
「夏海も手伝うのか?」
「うん。そうね」
「夏海はケーキが目的よね」
真理子がクスッと笑う。
「違うよ。昨日からダイエット始めたんだから」
「あら、本当? 前みたいに三日坊主にならないといいわね」
真理子が笑う。
「そだ。先日カフェでぶつかった人、スーツを汚したからクリーニングして持っていったら、ご飯ご馳走してくれたの」
「昨日職場の仲間とじゃなかったのか」
「うん」
「なんていう奴なんだ?」
「確か……古川尚哉って言ったかな。名刺もらったよ」
夏海が名刺を持ってくると真一郎は、名刺を受け取った。
「ちょっと借りるな? しかし、安易に近寄ってくる男と仲良くならん方がいい。お前に何かあったら……」
「パパ、考えすぎ」
夏海は取り繕うように笑った。
「まあ、気をつけるようにな。誘われたら俺に相談してくれ」
「わかった。パパ」
「そろそろ行かないと遅刻するわよ」
「はーい。パパはゆっくりでいいよなあ。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいませ。お嬢様」
夏海が出て行ったあと、真一郎は秘書――鳴川芳伸に電話した。
「技術開発部 研究課の古川尚哉の履歴書と経歴書、取りまとめといてくれんか。よろしく」
真一郎はため息を一つついた。
◇
定時後、夏海は帰ろうとすると、会社の携帯が鳴った。
名前を見ると、尚哉だった。
「はい」
『お仕事お疲れさま。今日時間ある?』
「えと……、用事はないのだけど……」
(本当は、パパが心配するから『ごめんなさい』って言いたい……でも、口にできない)
『どうしたの? なんかあった?』
「ううん。なんでもない」
(少しドキドキしながらも、声を落ち着ける)
『大丈夫? 無理しなくていいけれど……』
「大丈夫よ」
夏海は小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。
『夏海さんが、もし嫌な思いしていたら、遠慮なく言って欲しい』
「嫌ではないわ」
(心の中でほっとして、少し微笑んでしまう自分に気付く)
『なら良かった』
安堵の声が電話越しに伝わった。
『今日は、満腹になりすぎないお店に行こうと思ってるんだけど、どう?』
「いいですね」
『じゃあ、またカフェの前で』
「はい。また後で」
◇
夏海が店の前に行くと尚哉が待っていた。
「お待たせ」
「待ってないよ」
そう言って尚哉は悪戯っぽく微笑んだ。
「今日の店は少し遠いからタクシーで行こう」
「歩きでもいいですよ」
「いや、もう呼んでる。少しだけ待って」
返事の代わりに、夏海は微笑んだ。
白いタクシーが停まった。
やはり尚哉は夏海を先に乗せた。レディファーストが板についていた。
ホテルの最上階レストラン。
目の前に広がる夜景が素晴らしかった。
ウェイターに案内され、窓際のテーブルの景色が見える席に夏海は座る。すぐ近くには東京タワーが見えていた。
今日はコースでなく食べたいものを注文するスタイル。
夏海は『ポルチーニ茸のクリームパスタ』、尚哉は『ルッコラと洋ナシのサラダと鴨のローストとパン』を注文した。
「こんな高級店、私のために無理してないですよね?」
「大丈夫だよ。僕は、出会いは大切にしたいから」
そう言って尚哉はワイングラスを掲げてウインクした。
夏海は俯いてこう言った。
「あの……うちの父がね……。あなたのこと気にしてるようなの」
「そりゃそうだよ」
夏海はハッと顔を上げた。
「大事な娘に近づく男は、誰でも気に入らないと思うよ」
尚哉は真剣な面持ちで続ける。
「でも、僕は真剣だよ。真面目に考えているよ。正直……」
尚哉はひとつ深呼吸をした。
「君に惹かれてる」
尚哉は夏海の顔をまっすぐ見た。
夏海は顔を赤くした。
「でも、出会ってから一週間たってないわ」
「時間なんて関係ない」
尚哉は夏海の両手を握りしめた。しばらく、夏海の目を見つめていた。夏海は恥ずかしさで下を見ていた。
ウェイターが、料理を持って立っていた。
「さあ、ご飯食べよう」
夏海はまだドキドキしていた。食事が進まない。
「口に合わない?」
尚哉が聞いた。
「ううん。美味しい」
「なら良かった」
尚哉は笑った。
「身の上話、聞いてくれる?」
「いいよ」
「……僕ね、ハーフなんだ。父が中国人で、母が日本人」
「そうなんだ。感じなかった……」
「父は中国で小さい工場を経営してる。母は……」
夏海は手を止めて聞いている。
「十年前に亡くなった」
「そう……。辛いですね」
「もう大丈夫だよ。ありがとう」
「その後、父の会社が倒産しかけたんだけど、知り合いの社長に合併と言う形で助けてもらったんだ」
「それは良かったね」
夏海は微笑んだ。
「優しいね。夏海さん」
夏海は、『そうかな?』という顔をしてパスタを口にした。
「僕はその助けてくれた社長に恩義を感じている。いつか、恩を返したいと思っているんだ」
「どう言う形で返すの?」
夏海は、ナプキンで口を拭きながら質問した。
「僕は、次世代バッテリーにかけてる。開発が実現して、一般に浸透したら、世界の発展に寄与する。そのためには僕は労力を厭わない」
夏海は少し微笑んで言った。
「素敵ね」
「ありがとう」
「夏海さんはご兄弟は?」
「一人っ子よ」
「僕もだ」
二人は微笑みあった。
夏海が切り出す。
「今度、母と一階のカフェの模様替えをするのだけれど、尚哉さんもくる? 母は、インテリアコーディネーターをしているの」
「僕が行っていいなら、是非手伝うよ」
二人とも食べ終わった。
「コーヒーでいい? それとも紅茶?」
「じゃ、コーヒーで」
尚哉はウェイターを呼び、注文する。
「コーヒーを二つ」
尚哉も振り返って夜景を眺めた。
「夏海さん、夜景を見るのは好き?」
「うん。好きかな」
「僕は夜景を見るたび、一つ一つの明かりに人が生活してるんだと考えるとなんとも言えない気分になる」
「そうね」
「少しお手洗いに行ってきますね」
夏海はナプキンを軽くたたんで微笑んで席を立った。
「どうぞ。ここで待っています」
そう言った後、尚哉は、ふっと笑った。
(君はカゴの中の小鳥だ。自分じゃ飛べない。だから、僕が連れ出してあげる……)
夏海は鏡の中の自分と対話していた。
(手を握られちゃった……。こんなことパパには言えない)
バッグから口紅を出すと、塗り直した。
(なんか私期待してない? ……いやまさか)
「もう帰るだけだし」
口に出すと、気持ちが落ち着いてきた。
「行こう」
夏海は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
夏海が席に戻ろうとすると、尚哉は夜景を眺めていた。
その表情は、寂しそうな、悲しそうな顔。
いつもの優しげな表情とは遠いものだった。
「おかえり」
「ただいま」
「時間も遅くなってきちゃったし、明日も仕事だし、そろそろ帰ろうか」
「はい」
尚哉は小声で囁いた。
「支払いは済ませたから」
そう言ってニコッと笑った。
「ご馳走様でした」
夏海はおじきした。
「気にしないで。今日はこちらこそ、ありがとう」
ビルの外に出ると、冬の気配を含んだ冷たい風が吹き抜けた。
「寒くない?」
「大丈夫」
尚哉は、夏海の手を握った。
「タクシー呼んであるから、そろそろ来るかな」
夏海が尚哉の顔を見ると目が合う。
「ん?」
慌てて夏海は目を逸らした。
「なんでもないよ……楽しかったです」
尚哉は両肩を上げながら、遠くを見つめて言った。
「僕もだ」
しばらく二人は無言だった。
そのうちタクシーが来た。夏海を先に乗せる。
二人は車の中でも手を握っていた。
夏海の家のマンションの前に停まる。
「また連絡するよ」
「今日はありがとう。おやすみなさい」
「おやすみ」
尚哉は手を振った。そのまま尚哉はタクシーで帰宅した。
◇
「ただいまー」
夏海がリビングに入ると真一郎が座っていた。
「夏海」
コートを脱ぎながら真一郎の方を向く。
「何? パパ」
真一郎は、尚哉の履歴書と経歴書のコピーをテーブルの上に置いた。
「これ見るか?」
夏海は手にとって眺めた。
「これ尚……古川さんの……調べてるの?」
「特別怪しげなところはないが、一年海外の研究所に行っている時期がある。そこは今調べ中だ」
「なんでこんなことするの?」
「お前のためだ。強いては田端家の」
「……」
夏海の書類を握る手に力が入る。
「田端家の一員としての行動をしてくれよ。軽はずみなことはするなよ」
真一郎は眉間に皺を寄せてたしなめるように言った。
「私の人生は私が決めるわ」
「お前は跡取りになるのだから、そのうちいい相手を見つけてくるぞ」
夏海は自分の部屋に走った。
ベッドに横たわると一筋の涙が溢れた。




