第13話 それぞれの決断
電話は切れていた。
それでも李志遠は、しばらく受話器を置けずにいた。
北京の半導体の工場をもつ会社、李氏精機の社長室。
『私のことは考えなくていいから、自分のことだけ考えろ』
尚哉から自首する話を聞いた後の自分の返事を反芻していた。
志遠は、争いは好まなかった。
だが、今は違う。初めて怒りが心の底から沸いていた。
華陽科技の社長、李崇徳に対して、そして自分に対して。
息子が利用されていたことを知ったにもかかわらず、何もできなかった、しなかった自分に腹が立った。
志遠は、大きな金庫を開け、交渉資料をまとめた。
この会社は大企業と違い秘書もいない。
半導体の工場が主体の小さな会社だった。
しかし、華陽科技の次世代バッテリーに適合する半導体チップを試作したり、最先端の技術を持っていた。
ファイルを握りしめ、バッグに押し込む。
志遠は時計を見た。アポイントを取れるかすらわからない。このまま華陽科技の本社に行くことにした。
◇
華陽科技の北京本社、二十階の応接室。
景色のいいガラス張りの窓から望む北京の空が薄暗く霞んでいた。
応接室は広く、高級そうな革張りのソファが並んでいる。
志遠は、端の椅子に座った。
扉が開き、秘書らしい女性と華陽科技の社長、李崇徳が入ってきた。
「久しぶりですね、李志遠さん。今日はどういうご用件で?」
志遠は立ち上がったが、深く頭を下げなかった。背筋を伸ばす。
「私の息子の件です」
崇徳の口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「私たちも驚きましたよ。スパイなんて。うちとしてはスパイなんて雇ってませんから。どこと繋がってたんでしょうね」
「そうおっしゃると思いましたよ」
志遠の手は震えていた。
「彼が《誰の指示で動いていたか》について、私はすべて把握しています」
室内の空気が、一段階だけ冷えた。
志遠は鞄の中にある証拠はまだ見せない。
だが、こう言った。
「研究所名、使用された暗号通信、訓練内容、そして——あなた方が《切り捨てる順番》まで」
崇徳は一瞬黙った。
「何をおっしゃってるんですかね。留学や就職斡旋までして差し上げたのに」
志遠は構わず続けた。
「息子は、私を守るために黙っていました。ですが、刑務所に入った今、私が黙る理由はありません」
崇徳は初めて、表情を消した。
「我が社は、次世代バッテリーの半導体チップに関しては世界のトップと並んでいる――。技術公開してもいいと思っています。特に日本へは……」
そう言った志遠の鞄を握る力が強くなった。
崇徳の眉間に皺がよる。
「要求は何だ?」
志遠の喉が鳴った。
「息子から手を引いてもらいたい。さらに全てとは言いませんが、我が社の株の一部を返還してほしい」
崇徳はしばらく黙っていた。
志遠は、言葉を足す。
「私の頭の中しか存在しない技術もあることを……お忘れなく」
志遠の額から汗が流れる。
しばらく沈黙が流れた。
崇徳が口を開く。
「……わかった。飲もう」
「ありがとうございます」
志遠は立ち上がって一礼する。
「ただし、まあ……親戚なんだし、縁を切ることは避けたい」
「……それは、あなたの対応次第です」
そう言うと、志遠は振り返らずに、部屋を出て行く。
崇徳は、去りゆく志遠の背中に向かって、低く呟いた。
「賢い選択をした方がいい。家族のためにもな」
その言葉を振り払うように、志遠は足早に廊下を抜けた。
志遠の心臓の鼓動は鳴り止まなかった。
◇
尚哉は、ずっと下を向いて座っていた。
取り調べ室の冷たい机。手垢のついたパイプ椅子。
彼は、自分が守ろうとした《家族》という言葉の重さに、今さらながら押し潰されそうになっていた。
「……父さん、ごめん」
独り言は、狭い部屋のコンクリート壁に吸い込まれて消えた。
取調官が入って来た。
椅子に座ると持って来たレコーダーのスイッチを入れた。
「古川尚哉さん。生年月日と現住所を確認します」
「……古川尚哉。中国名は、李偉。一九九九年十二月十八日生まれ。住所は――」
淡々と答える。
取調官は書類に視線を落としたまま、次のページをめくった。
「本日、自ら出頭されましたね」
「はい」
「理由は?」
「ある家に呼ばれて、自分のやろうとしていたことを思い知ったんです。その日から毎日、罪悪感だけ募っていきました」
「ある家というのは?」
「恋人の実家です」
「なるほど。……自首するのに思い至ったきっかけは?」
「父を守るより、恋人を守りたいと考えるようになりました。それからは、最後は自首しようと思っていました」
一瞬、ペンが止まる。
「恋人というのは……?」
「田端夏海です」
「……質問を変えます。NES社の技術データを、外部に送信した事実はありますか」
「あります」
「いつから?」
「一度北京に呼ばれた時に手渡ししたのと、そのあとアップロード一回です。どちらも先月の話です」
「誰の指示で?」
尚哉は少しだけ視線を落とした。
「僕はNESは悪い会社だと聞かされていました」
「どう悪い会社と?」
「具体的には……。汚職や粉飾など経済的な悪いことをしていると思い込んでいました」
「例えどんな会社であろうが、あなたのやったことはスパイ行為ですよ。いいことですか?」
「悪いことです」
「あなたは会社の信頼も、恋人も、全部失うことになりますよ」
しばらく沈黙が走った。
「……もう、失いました」
「後悔していますか?」
尚哉はすぐに答えなかった。
「……しています」
取調官は尚哉の表情を観察した。
「動機に、家族の事情は関係ありますか」
「あります」
「詳しく」
「……それは、僕が話すことじゃありません。責任は、全部僕にあります」
「守っている?」
「いいえ。切り離しています」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようだった。
「田端夏海さんとの交際関係は、どの程度でしたか」
「……恋人として付き合っていました」
「同居、あるいはそれに近い関係は?」
「……いいえ」
「田端夏海さんと接触することに、何らかの意図はありましたか」
尚哉の手に力が入った。
「……はい」
「先ほど恋人を守りたい、とおっしゃいましたが、私情が入ったということですか?」
「はい」
「なるほど」
レコーダーが止まる。
「今日はここまでにしましょう。長くなりますよ」
「覚悟はしています」
「強いですね」
「弱いからです。だから、逃げるのをやめました」
取調官は何も言わず、部屋を出て行った。
◇
夏海は自分の部屋のベッドに横たわり、スマホの尚哉とのラインやりとりの履歴を見ていた。
何度もスクロールする。
(出したらまだ間に合うだろうか……)
『尚哉、体に気をつけて……』
しばらく待ったが、返事がない。
電話をかける。
夏海はドキドキした。
『おかけになった電話は、電源が入っていないか、または電波の届かない場所にあります』
「もう行ってしまったの……?」
枯れたはずの涙が頬を伝った。
コンコン。
「夏海」
夏海は涙を拭きながら急いで起きた。
「はい」
真理子が部屋に入って来た。
「今日はこのまま休暇にしなさいな。もう伝えてあるわ」
「うん。そうする」
「夏海」
夏海は泣き顔を真理子の方に向けられず、下を見ていた。
「何?」
「古川君はこれから自分のやったことに向き合って前に進もうとしてるわ。時間かかるかもしれないけど……」
「うん……」
「私たちも時間かかってもいいから、進んで行きましょう」
「……そうだねママ」
「さ、今日の夕ご飯は夏海の好きなものを用意してもらってるわ」
「なんだろう? 手伝ってこようかな」
「行ってらっしゃい」
真理子は少し安心した。
◇
その頃、真一郎は社長室の革張り椅子に座っていた。
スマホの画面を見る。
そこには、鳴川からの短い報告文が表示されている。
――古川尚哉、本日出頭。
それだけだった。
真一郎は画面を伏せ、しばらく動かなかった。
尚哉が自分で選んだ結末だ。
そこに手を伸ばすつもりは、もうない。
(李志遠――は、そろそろ動くだろうか?)
「……さて」
真一郎は静かに立ち上がった。
この件は、もう《個人の過ち》ではない。
盤面は、もう動き始めていた。




