幸せな時間
男の乗る電車が地下から地上に出た。
窓の外はもう夜が始まっていた。
今日は、仕事の帰りに宝石店へ寄り道をしてきた。
いわゆる『ハイブランド』と呼ばれる類の店だ。
男はそっと通勤鞄に手を当て、中に入っている小さな手提げ袋のことを思った。
上質な紙の袋の中には小さな箱、さらにその中には、プラチナにダイアモンドの指輪が入っている。
男は今日、帰ったら恋人にプロポーズをするつもりだった。
彼女は、このことをまだ知らない。
どんな顔をするだろう。驚くかな。
部屋で男の帰りを待つ彼女の顔を思い浮かべて、男は頬が緩んだ。
――ああ、幸せだなあ
まだOKの返事をもらったわけではないが、彼女が頷いてくれるのはほぼ確実だ。
仕事の疲れも忘れるくらい、男はうきうきしていた。
今日の夜空は星もきれいだ。
――こんな時間がずっと続けばいいな
走る電車に、窓外の夜景が真横に流れていく。
見るとはなしに見ていると、夜空にキラリと何かが光った。
何だろう。星にしては距離が近い。
光は明滅しながら、弧を描いて落下した。
あれは会社の方角だ。
光に気づいているのは男ひとりだった。
ほかの乗客はみな、スマホを見ているか、寝ているか、本を読んでいるかだったから。
光の正体をたしかめる暇もなく、窓外の景色は遠ざかった。
男はすぐにスマホを取り出し、速報が出ていないか確認したが、画面には特に何も出ていなかった。
――まあいいか
男は考えるのをやめた。
そこまで気になるわけでもなかったから。
そんなことより、いま大切なのは……男は再び、鞄に手をやって笑みを浮かべた。
電車を降りて、恋人の待つ部屋へ男は帰る。
いつもの道も今日は華やいで見えた。
行きかう人々もなんだか幸せそうだ。
早く帰ろうと思う反面、この幸せな帰り道をゆっくり味わいたいと思う気持ちもあった。
そのうちに、マンションが見えてきた。
エントランスを抜けて、エレベーターに乗る。
もうすぐ、もうすぐ着く。
エレベーターを降りて、廊下を歩き、ドアの鍵をあけた。
「ただいま」
「おかえりー」という彼女の声を聞いたのは覚えている。
玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、あるはずの三和土の手ごたえならぬ『足ごたえ』がなかった。
男は、夜空の中に落ちた。
突然の出来事に、男はもがくように手足を動かした。
しかしつかまるものは何もなく、手は空しく宙を掻くだけだった。
自分の体がきらりと発光したのがわかる。
光の明滅を繰り返しながら、男は弧を描いて会社の方角に落下していった。
――こんな時間がずっと続けばいいな
どうやら、願いは聞き届けられたらしい
男はこれから『幸せな時間』を繰り返し味わうことになるだろう。
夜景を見下ろすと、建物のあいだを縫って通勤電車が走っていた。
明かりの灯った窓の中には、不思議そうな顔でこちらを見ている自分がいた。