後日談:受信箱の余韻
公開ボタンを押して、湯のみの残りを一口。
六畳半の事務所は、蛍光灯を一本だけ残して静かだった。A4の台帳は背で立ち、205〜208の薄紙はトレーシングの下で平らに呼吸している。PCの画面には「市影譚ラボ|調査レポート #05」が開いたまま。
肩を回して、背もたれに深く座り直す。数分、ただ息を整えた。
画面右上が、かすかに青く光った。
今回のレポート【酔い路地の領収書】のきっかけになった通知音。
コメント通知だった。
「もうリアクションがあったの?」
相沢が椅子を寄せる。僕はトラックボールを転がし、コメント欄を開いた。
「調べてくれてありがとうございます」
短い一行。差出人名は——浜崎。
最初にメールをくれた人の名前が、白地に黒で、やわらかく残っている。
「浜崎さん……」
「うん。最初の“受信”が、ここに戻ってきたね」
返信を打つ。
——こちらこそ、原本のご提供ありがとうございました。紙の力で“在ったこと”に近づけました。ご無理のない範囲で、台帳コピーをお送りします——。
送信してすぐ、もう一件。
「北九州の岡野さん。『同時刻、あの一言を言えただけで落ち着きました』」
「“領収書ください。宛名なしで”、だね」
「仙台の松井さんも。『店にいた気がする、って書いて良かったです』」
相沢はA5のコメント受領票をプリンターから出し、余白に日付と時刻を書いた。受領印を軽く当てる。朱の輪郭が、紙に静かに広がる。
「呉の片岡さんも来たよ。『録音のカランが自分の小銭でした。助かりました』」
「“同じカウンター”の言い方、救いになったみたいだ」
成瀬はホワイトボードに小さく三行を書き足した。
——コメント受領:横浜・北九州・仙台・呉
——返信済:感謝/台帳コピー
——追加:整理書テンプレ送付
コーヒーを温め直して戻ると、PCの受信箱に一通のメール。差出人は白鳥。
件名「掲示更新」。添付はA4の掲示PDF。黄色い帯に**『紙保存を推奨』**の文言が太字で入っている。
本文は一行。「掲示は月曜から順次。はがきサイズの周知も配布します」。
「掲示、紙で通ったよ」
「うん。紙が味方って、ちゃんと書いてある」
掲示PDFをA4二面で印刷し、クリアポケットに差してバインダーへ。「掲示—写し」とラベルを貼った。
机の端でスマホが震える。コメントがさらに二件。愛知県岡崎市の西田さん、「録音だけでも届いた気がします」。高知の田村さん、「同秒発声、怖くなかったです」。
相沢はL判プリントの余白に、名前を二つ書いてポケットに差した。
「——最初の音から、ここまで来たね」
「最初の音?」
「今回のレポートを動かした受信の音。PCの前で受信箱が光って、『横浜の浜崎さんからメール』って読んでた」
「あれが起点だった」
「起点は音で、終わりは紙だね」
ダッシュボードを開くと、グラフが急角度で立ち上がっていた。リアルタイムの同時閲覧がいつもの十倍。参照元の半分が相談者のSNSらしき短文投稿だ。
「体験した人が宣伝してくれているみたいだ。アナリティクスの反応を見ると伸びがすごい」
「それだけ関心があったんだね」
「まあ、一部の業界だけだけどね。メタなことを言えば、これでまた資金も集められる」
「それがリアル。そのうちオンラインサロンでも開いてみたら?」
「……ひまがあったらな」
桂一の発言に、相沢は「いつもヒマなくせに」と軽く笑った。
笑いながらも、僕は支援ページのリンクを記事下部に追記した。台帳の紙代、郵送費、展示のA3パネル——必要経費は紙の枚数で増える。
閲覧グラフの横で、寄付ボタンのカウントがぽつり、ぽつりと増えた。コメント欄にも短い「助かりました」「紙で落ち着けました」。
「ニュースレターも走らせる?」
「うん。まとめ版PDFを月一で。紙で受け取れる人には郵送も」
プリンターのトレイにA4を補充し、角2のクラフト封筒を三枚出して宛名を書いた。台帳コピーと手順カード、名刺サイズの案内カードをセットにして送る。
ポスト投函の前に、相沢がたい焼きの包みを開いた。昨夜の残りが一つ。甘い匂いが紙袋に残っている。
「コメント欄、開けたままにしておく?」
「うん。荒れたら案内カードで誘導する。顔は映さない、言葉は柔らかく」
「了解」
PCの通知が、また小さく光った。
今度は、最初のコメントに対する別の人の返信だった。
「『自分も、店にいたと思う』——仙台の方が、横浜のコメントに返してる」
「同席って言葉は使わなくていい。思う/気がするで十分」
「うん。十分」
ダッシュボードのグラフはなおも伸び、ピークを作ってから、なだらかに落ち始めた。広告のRPMがいつもより少し高い。
相沢が画面を見て肩をすくめる。
「数字が落ち着いたら、現場募金の呼びかけも固定しよう。紙は増えるから」
「やる。あと、読者協力フォームも上に置く。領収書や伝票の提供先を明記して」
成瀬はA5の手紙用紙を三枚、封筒に入れて宛名を書いた。台帳コピーと一緒に、明日の朝に出すためだ。
僕はA6の単票メモに二行だけ書いた。
——コメント:ありがとう(浜崎/岡野/松井/片岡/西田/田村)。
——“受信の音→紙の重み”で往復。支援リンク追記。
蛍光灯を一本落とす。
白い背表紙の列が、部屋の奥で静かに並ぶ。同時刻領収書台帳は表紙を上に向け、205〜208はトレーシングの下でやさしく平らだ。
壁のA3パネルには短い一文。——証明はしない。記録は残す。
「今日は、よく眠れる?」
「眠れる。受信の音が、今は紙の重みになってる」
「うん。紙は噂より重い」
PCをスリープにして、マウスを布で軽く拭いた。
玄関の鍵を回す前、もう一度だけダッシュボードを見て、グラフの尾を確かめる。
明日の朝、ポストにクラフト封筒を入れたら、ブログのトップにこの後日談を固定しておこう。
それだけで、ちゃんと眠れる。
読了ありがとうございました。
お付き合いいただき嬉しいです。




