転:同時刻のカウンター
金曜、二十三時。
事務所の机に観測パックを四組並べた。A5の同時観測メモ(ラミネート)、A4のチェックリスト、名刺サイズの案内カード、それからL判の現地地図プリント。表紙の付箋に「横浜/北九州/仙台/呉」。
相沢はB5ノートの余白に、開始時刻と合図を書いている。「時報アプリ00:00」「注文文言『領収書ください。宛名なしで』」。
成瀬はICレコーダーを三台に単三電池を入れ、日付印を押した小袋に分けていく。袋の口にはマスキングテープで「横・北・仙・呉」。僕はクラフト封筒にレシート原本のコピーを戻し、角をそろえた。
「合図は二時十二分、ぴったり。各地の観測者は『顔は映さない』『危険は避ける』『掴まれたら振り払うまで』」
「横浜は僕ら三人で。北九州は岡野さん、仙台は松井さん、呉は片岡さん。全員、**同意書(A4)**返送済み」
「注文文言は統一。“領収書ください。宛名なしで”。——『同じ一言』が入れば、録音を合わせやすい」
受信箱が一度だけ光った。
件名:【準備完了】北九州。——岡野さんからの写真。観測メモ(A5)とチェックリスト(A4)がクリップボードに挟まれている。
「行けます」のひと言。
同じく仙台と呉からも「行けます」。写真の端に名刺サイズの案内カードが写る。
「出よう」
横浜の路地。
終電が過ぎ、人の足音が薄くなる。コインパーキングのフェンスには注意書き(A4)。風で紙の角が揺れる。
僕はICレコーダーをONにし、A4チェックリストにペン先を当てた。
□ 集合時刻/23:55 □ 近隣あいさつ/済 □ 案内カード/携行
相沢はジンバルを握って、画面→足元の順で構図を確認する。成瀬は**連絡先カード(ラミ)**を胸ポケットに差した。
「時報、入る」
スマホのアプリが0時を告げ、短い電子音が鳴る。各地でも同じ音が鳴っているはずだ。僕らは声を出さない。観測メモに赤丸が一つ付く。
一時。まだ静か。
一時三十分。路地の空気が少し湿ってきた。
「二時まで十分。体調は?」
「大丈夫。水は飲んだ。酒は控えめ」
「OK。掴まれたら離れる。そこまで」
僕はB7の方眼メモに短く書く。
——00:00 合図
——02:12 同時発声
——現金/宛名なし
二時。
遠くの踏切が一度だけ鳴った。
風が路地を抜け、足元で紙くず(レシート片)が一枚、ころりと転がる。
次の瞬間、視界の端に赤ちょうちんが薄く灯った気がした。見間違い、と言い切るほど弱くない。
「入る?」
「深入りはしない。あることだけ拾う」
相沢がRECを押し、成瀬がICレコーダーの位置を胸元から腰へ下げる。風切り音を避けるためだ。
僕は財布から千円札を一枚、百円玉を三枚、十円と五円を合わせ、小さな布袋に入れた。カルトン(釣り銭トレー)に置いたときの音が、録音で拾いやすいように。
時間が二時十一分を回る。
空気が変わる。路地の匂いが薄く甘くなり、暖簾が「いる」前提で風に鳴った。布を通して響く、低い音。
僕は一歩だけ前へ出て、線の上に立った。黄色いペンキの細い線だ。高架の街灯が反射している。
「二時十二分」
時報アプリの短い音。
同時に、胸の奥で薄い「カラン」という響きがした。カルトンに小銭が触れる音。
僕は正面に向かって、はっきり言った。
「領収書ください。宛名なしで」
自分の声が、すぐ近くで返ってきたような気がした。
同じ文言が、横浜と同じ秒で北九州/仙台/呉に広がっているのを想像する。
複写式の伝票が切れる音が、近い。薄紙の擦れる乾いた音。
映像は暗い。画面には何も映らない。
けれど、音はある。
相沢が短くうなずいた。
「入ってない。けど、聞こえてる」
道の向こうから、二人組の男性が近づいてきた。酒が入っている。
片方がふらついて、相沢のジンバルに手が触れた。
「何やってんだ、撮るなよ」
「顔は映していません。足元と画面だけです。危なければ離れます」
「撮るなって——」
手が伸びた。反射で、僕は外側から手首を払う。角度を使って、強くはない。距離だけ作る。
成瀬が間に入り、名刺サイズの案内カードを差し出した。
「すぐ終わります。夜分すみません。困ったらこちらへ」
男たちはカードを見て、顔を見合わせ、肩をすくめた。
「……変なやつらだな」
「すみません。もう撤収します」
相沢がRECを止めないまま、半歩ずつ下がる。僕らは背を見せない。路地の端で止まり、チェックリストに二つ✔を入れる。
□ 同時発声/完了 □ 近隣対応/カード
風が一度、向きを変えた。
紙くずがまた転がり、僕のスニーカーの甲にふわりと触れ——薄い紙が一枚、くっついた。
指先でそっと剥がす。黒発色の薄紙。手の熱で少し濃くなっていく。端に小さく数字がある。
「……『No.205』」
相沢が目を丸くする。成瀬がA4の台紙を差し出し、四隅を紙テープで留めた。
僕は薄紙をそこへ置き、トレーシングペーパーを一枚かぶせ、軽く押さえる。発色が進み過ぎないように。
伝票控えだ。多分、複写式の二枚目か三枚目が、風で出てきた。
「北九州、入る」
イヤホン越しに、岡野さんの声。短く、落ち着いている。
「二時十二分、発声しました。小銭の音、入ってます。……あ、薄紙。拾えました。『No.206』」
「仙台も。『No.207』。……『領収書ください』の自分の声、入ってます」
「呉、『No.208』。映像は無し。音は暖簾と製氷機の周期、拾えてます」
僕の喉が勝手に鳴った。
数字が、続いている。
各地の人は各地に立っているのに、伝票No.は一つの列だ。
僕はB7の方眼メモに、震えないように書いた。
——横浜 205/北九州 206/仙台 207/呉 208
——同秒発声/同秒音/薄紙回収
「撤収しましょう。これ以上は深入りです」
成瀬の声に、力が戻った。
僕らはテープの切れ端を拾い、紙くずをまとめ、相沢が最後に路地の端へ頭を下げた。
チェックリストの□に✔が増える。
□ 伝票控え/回収 □ 撤収/完了
タクシーに乗る前、僕は薄紙の上にトレーシングペーパーを重ね直し、クリアポケットに入れた。
指に黒の粉が少し付く。ハンカチで拭うと、匂いは紙そのものだ。
「……『205』だよ」
「『208』まで確認。連番。これ、強い」
車内で、成瀬がICレコーダーのタイムコードを読み上げる。「02:12:04」。
相沢がスマホの録音にもタイムスタンプを付け、A4のメモに手で書いた。「横浜 02:12:04/北九州 02:12:04/仙台 02:12:04/呉 02:12:04」。
四つの秒が、並んだ。
事務所に戻ったのは三時すぎ。
蛍光灯を落とし、机のライトだけにして、紙を広げた。
薄紙の伝票控えは、光に弱い。僕らは息を止めるみたいに、静かに作業した。
A4の台紙に四枚を仮止め。上にトレーシング。端を紙テープで留める。日付印を台紙に押す。
A4横の比較表を作る。
No.205(横浜)/No.206(北九州)/No.207(仙台)/No.208(呉)。
項目は、端の欠け、行間、数字の切り口、ヘッドの薄い線。全部、似ている。いや、同じだ。
「白鳥さんに、写真じゃなくて紙で見せたい」
「明朝、バインダーごと持っていく。直で触ってもらうのは怖いから、トレーシング越しで」
相沢はL判に今夜の立ち位置写真(足元だけ)を出力し、余白に「横浜」「北九州」「仙台」「呉」とペンで書いた。
成瀬はホワイトボードに四行だけ書く。
——同秒・同文言
——薄紙(黒発色)
——連番
——撤収
「観測者の安全は全員確認。ありがたい。差し入れ、今度送ろう」
「たい焼きのレターセット、はがきにしようか」
小さく笑って、作業を続けた。
僕はA6の単票メモに今日の結論を書いた。
——会計だけ、同じカウンター。
——証明はしない、記録は残す。
——紙で在ったことに寄せる。
土曜、午前のうちに市民NPOの会議室へ。
白鳥は時間どおりに来た。灰色のジャケット、細いフレームの眼鏡。
僕らはバインダーを机に置き、トレーシングをそっとめくった。すぐ閉じられるように、端を押さえたままで。
「これが205〜208。同時秒の発声入り録音。——映像は無し。店は、どこにも無い」
白鳥は黙って、薄紙の角を触れない距離で見た。
呼吸だけが少し変わった。
彼は持参のクリアホルダーからA4の用意された紙を出し、読み上げない程度に目を通し、それから短く言った。
「運用の観点から、『紙保存を推奨』の文言を入れます。理由の詳細は記しません。説明不能部分が残るためです。——照会でまとめてください。苦情ではなく」
「助かります。台帳を作ります。『同時刻領収書台帳』」
「お願いします」
白鳥は軽く頭を下げ、名刺を置いた。角が丸い。紙は少し厚い。
扉が閉まって、静かになった。
「結は、現実の救いで終われる」
「うん。費目整理の目安と、紙の手順。——それで十分」
日曜。
四人の相談者から、同時刻の感想が届いた。
「店にいた気がする」
「カウンターの木の匂いがしたと思う」
「注文の声が自分の声に重なった」
僕らはA4の聞き取り票の欄外に、そのままの言葉を写した。断定はさせない。思う/気がするでいい。
午後、A3パネルを一枚作った。
見出しは「同時刻のカウンター」。左に住宅地図(令和)、右に薄紙の並び。下にL判の足元写真を四枚。
説明文は短い。「証明はできない。記録はある。——紙で在ったことにする」。
クラフト封筒に入れて、NPOの壁へ持っていく準備をした。
夜。
受信箱に新しいメールが一通。件名:【相談】領収書ありませんが、音だけあります。
本文は短い。「高知県高知市の田村です。金曜深夜、同じ文言を言いました。録音だけあります」。
僕は観測メモ(A5)を一枚増やし、A4チェックリストをコピーした。
紙が一枚ずつ増えるたび、落ち着く。
バインダーの背にインデックスシールを貼る。「酔い路地/転」。
相沢がベージュのカーディガンの袖を直し、マグカップを置いた。
「——結、書けるね」
「書ける。照会と台帳と、手順カード。あと、ブログのレポート」
「ブログは、後日談でまとめよう。**同時刻領収書台帳(簡易)**のテンプレも付けて」
「任せて」
蛍光灯を落とした。
六畳半の部屋に、紙の輪郭だけが残る。
205〜208の薄紙はトレーシングの下で静かに平らになり、A4のチェックリストは□が全部埋まっている。
次にやることは、はっきりしている。
紙で、結ぶ。
証明はしない。記録は残す。
在ったことに、寄せていく。




