承:閉店と同期
土曜の午後。
事務所のスチール棚からA4バインダーを三冊抜き、机に置いた。表紙には「横浜」「北九州」「仙台」。相沢は複写式の受付票を順に切り離し、右下に受領印を押していく。朱のにじみが均一で、紙が仕事を始めた感じがした。
「原本は暗所。コピーはA4台紙に貼るね」
「頼む。僕は地図のほうをやる」
壁のA3住宅地図(令和版)に赤い丸シールが増える。横浜・北九州・仙台。さらに広島県呉市からも封筒が届く予定だ。
机に透明ポケットが並び、三つ折りの感熱紙が口を覗かせる。角には丸い店印。「夢酔亭」。
僕は拡大鏡で印字の濃淡を追った。——濃→薄→濃。一定間隔。家庭用プリンタの線の荒れ方とは違う。サーマルヘッドの欠けが、どの原本にも同じ位置にある。
「……同じ“口”で打ってる」
「同名じゃなくて、同機ってこと?」
「可能性は高い」
成瀬が来て、ICレコーダーと名刺サイズの案内カードを机に置いた。今日はネイビーのシャツ、グレーのスラックス。
「保健所の営業許可台帳、閲覧申請は通りました。『夢酔亭』は十年前に許可取消。住所のビルは、法務局で閉鎖登記簿の写しを取れます」
「法務局は僕が行く。登記事項の閉鎖事項全部証明書(A4)、何通か取ってくる」
日が傾く前に横浜へ出た。
現地は本当に更地で、日中はコインパーキング。フェンスの**注意書き(A4)**が風で揺れている。
相沢がスマホでフェンスの掲示を撮っていると、作業着の男性が近づいてきた。指が相沢のカメラに伸び——
「撮影はやめて」
「すみません。掲示物だけです。顔は映していません」
男性の手首が相沢の手にかかった。反射で、僕の体が前に出た。
外側から手首を払う。力は最小。距離だけ作る。
成瀬がすぐに案内カードを差し出し、落ち着いた声で繰り返す。
「夜の検証予告と、掲示の確認だけです。騒ぎません。顔は映しません」
男性はカードを見て、肩の力を抜いた。
「……なら、気をつけてやってくれ。ここ、夜はタチが悪いのが出る」
「ありがとうございます。すぐ離れます」
その場を離れて、カフェで紙を整えた。
A4の聞き取り票に浜崎さん(仮)の経緯を手書きで転記。一次会のレシート、終電喪失、路地、現金払い、領収書原本。
相沢はL判プリントの余白に「横浜」とだけ書き、クリアポケットに差した。
月曜の朝は、法務局と保健所を回る。
窓口で申請用紙に記入して、発行手数料の収入印紙を貼る。番号で呼ばれて、A4の閉鎖登記簿が出てきた。対象のビル名、地番、滅失登記の日付。
保健所では、営業許可台帳の閲覧票(A4)にボールペンで筆圧をかけ、担当者の前で閲覧。
——許可取消。
——十年前。
——所在地は現地と一致。
「紙は、過去に『在った』をはっきり出すね」
「今の『在る』は、夜の路地でしか見えない」
事務所へ戻ると、北九州から簡易書留が届いていた。封筒には厚紙、中には三つ折りの感熱紙。合計三四五〇円。丸印。裏のTSK-58透かし。
仙台からは同意書PDFと現地写真。どれも夜の跡には昼の跡がない、という絵だ。
「次は、音。環境音を見よう」
成瀬がICレコーダーからPCにデータを取り込み、A4横にスペクトルを出力した。
横浜の深夜録音。低い換気音の帯。高いインバータの唸り。周期的な製氷機。
北九州の深夜録音。——似ている。というより、重なる。
「周波数構成が同じどころか、位相も似てる。秒単位で同期してる」
「同じ室内の音、みたいに見える」
紙にしたグラフを二枚、ぴたりと重ねる。細部でほとんどズレない。
僕はB7の方眼メモに三行だけ書いた。
——ヘッド欠け:同位置。
——伝票No.:連番。
——環境音:同期。
「会計だけ、同じカウンターに束ねられてる……そんな感じがする」
「その言い方、ブログ向きだね」
火曜、白鳥からメールが来た。添付は仕様書抜粋(PDF)。本文はきれいな敬語で、要点は「古紙流用やダミー印刷もあり得る」。
僕は返信にA4一枚の比較表を添えた。
——古紙流用なら透かしが古いはず→今のロット。
——家庭用プリンタの熱発色は間隔がバラバラ→同じ欠けが複数原本で一致。
——伝票No.が各地で連番になるのは、一台のカウンターで打ってるのと同じ挙動。
最後に短く、「証明はしませんが、記録は出ます」。
水曜。北九州へ日帰り。
路地は細く、壁のタイルは古い柄。日中は誰も気に留めないただの角だ。
日が落ち、終電が過ぎ、風が一度だけ抜ける。足元のレシート片が転がる音。
相沢が合図もなく、RECを押した。
——布が揺れる音。暖簾の気配。
——薄紙の擦れる、複写式伝票の音。
映像は暗すぎる。ただ、音は取れた。
通りがかりの青年が少し酒くさくて、相沢に近づいた。
「そこ、入れんのは酔ってる時だけだよ。撮るな」
「顔は映していません。すぐ離れます」
「撮るなって言ってんだろ」
青年の肩がぶつかってきた。
僕は間に入り、体で線を作る。押し返すというより、ただ方向を変えるだけ。
成瀬が案内カードを見せ、穏やかな声で繰り返す。
「検証だけで失礼します。ご迷惑なら、今すぐやめます」
青年は少し睨んで、やがて目を伏せた。
「……夢酔、うまいんだよ。覚えてねぇけどな」
「わかります。おやすみなさい」
撤収。テープの切れ端を拾い、チェックリストの□に✔を入れる。
□ 路地の紙くず □ 音(暖簾・伝票) □ 近隣対応 □ 撤収
帰りの新幹線で、相沢がL判の余白に「北九州」とだけ書いた。筆圧は安定していた。
木曜、仙台。
同じように音だけが取れた。製氷機の周期は横浜・北九州と等しい。A4横のグラフを重ねると、山が山に、谷が谷に乗る。
僕の中で、言い切りではない言葉が固まっていく。——同じ場所で、同じ時間に、誰かが伝票を切っている。そこへ会計だけが流れ込んでいる。
でも、それは証明ではない。ただ、記録だ。
金曜、事務所。
机の上に四つのクラフト封筒。横浜・北九州・仙台・呉。
A4の比較シートには、**伝票No.**の並びが縦に伸びている。
横浜#184→北九州#185→仙台#186→(呉の到着待ち)。
番号の末尾が、時間の流れと合っている。各地の人は各地にいたのに、会計は一列で進んでいるみたいだ。
「税理士会に照会を入れるよ。『非現存店舗の領収書をどう扱うか』——門前払いにならないように、**整理書(A4)**を作る」
「まとめるとき、『同席だったのかもしれない』って一文を入れていい?」
「入れて。強く断定はしないで」
白鳥から電話。
スピーカーにして、A4の打合せメモを開いた。
「結論から言うと、説明不能が残ります。悪戯や流用で片づけるには、連番と音が邪魔です。運用上は、『紙保存を推奨』と書き添える方向で、関係部署に回します」
「助かります。こちらは照会と手順カードで終わりにします」
「それがいい。安全を優先してください。——酔ってないと入れない、という話は、都市伝説として扱います」
通話を切る。
受信箱に、呉の片岡さんからの封筒到着の連絡。原本が一枚増える。
相沢がA4の台紙に貼り、日付印を押した。
「……全部、同じリズムだね」
「うん。僕らは、同じカウンターの前で、紙を並べてるだけかもしれない」
成瀬がホワイトボードに小さく書いた。「結論:証明はしない/記録は残す/実務は救う」。
机の端で受領印の蓋が音を立てて閉まる。
僕はA6の単票メモに一行だけ足した。
——ヘッド欠け同一。伝票連番。環境音同期。在ったことに、紙で寄せる。
夕方、四人の相談者にA5の手順カードを投函した。
見出しは「同時刻領収書台帳(簡易)」。No./地域/金額/店印の有無/伝票No./「店にいた“気がする”度」。
裏面には照会先と税理士会の連絡先。
ポストに落ちる紙の音が、妙に明るかった。
夜、事務所で最後の整とん。
A4比較シート、閉鎖登記簿の写し、営業許可台帳の閲覧票、L判写真、そして領収書原本のコピー。
バインダーの背表紙にインデックスシールを貼る。「酔い路地/承」。
相沢はベージュのカーディガンの袖を直し、椅子の背にかけた。
「次は転。現場で“見える瞬間”に、もう一回合わせる?」
「やる。深入りはしない。安全最優先。——でも、一度だけ、同じ秒で並べたい」
「了解。ライトと予備バッテリー、増やしておく」
蛍光灯を落とす。窓の外、風が柔らかい。
棚に立ったバインダーの背が、白く揃っている。
——証明はしない。記録は残す。
僕は心の中で繰り返し、ドアの鍵を確認した。
次の金曜、同じ時間。全国の路地の角で、同じ風が吹く。
それを、紙で受け止める準備はできている。




