起:受信箱の灯り
土曜の昼前。
蛍光灯の白い明かりが、六畳半の事務所みたいな部屋をまんべんなく照らしていた。スチール棚にはA4のバインダーが背表紙を並べ、プリンターの上にはコピー紙の束。壁際のホワイトボードには、付箋と丸い受領印の赤い跡。
水野桂一は、L字デスクに置いた27インチのモニターの前に座り、メールソフトを開いていた。黒のパーカーに白T、色落ちしたチノパン。指には油性ペンの薄い跡。足元は履き慣れたグレーのスニーカー。
向かいの折りたたみテーブルには相沢由希。ベージュのカーディガンに黒のテーパードパンツ、白いローテクスニーカー。髪は低めに束ね、耳元に小さな銀のピアス。湯気の消えかけたマグカップの横に、A4のチェックリストが三枚、クリップでまとめてある。
「今日のメニューは?」
「午前はブログのコメント返信。午後は聞き取りの整理。——の予定だった」
そのとき、モニターの右上で受信箱のタブが青く光った。短い通知音。タスクバーのアイコンが一度だけ震える。
未読(3)。
「来たね」
相沢が椅子から少し前のめりになる。
桂一はトラックボールを転がし、受信トレイを開いた。件名は三つ、どれも似ている。
【相談】【領収書】【居酒屋】
【相談】【領収書】深夜の出来事について
【相談】夢かもしれませんが——
差出人の一つ目を読む前に、声に出して確認するのが癖だ。
「神奈川県横浜市の浜崎さんからメール」
本文は簡潔だった。
——はじめまして。匿名希望で結構です。金曜の深夜、終電を逃して歩いていたら、路地で居酒屋を見つけました。名前は夢酔亭。現金で払って、領収書をもらっています。
翌朝行くと、ビルごと無く、更地でした。ネット地図でも既に閉店扱いです。夢かと思いましたが、領収書は財布に残っています。調べていただけませんか——。
「添付、二枚。レシートの表と裏」
相沢がデスクごしに身を乗り出す。
画面いっぱいに拡大した感熱紙には、「夢酔亭」の店名、合計二九八〇円、角に丸い店印。裏側にはうっすら用紙メーカーの透かし。
指でズームすると、印字の濃淡が等間隔で波打っている。昇華のムラは、家庭用プリンターのそれではない。
桂一はB7の方眼メモを一枚ちぎり、油性ボールペンで書いた。
——横浜/2:41/2980円/丸印。
——裏:TSK系透かし?
——最近ロット。
「二件目は福岡県北九州市の岡野さん、三件目は宮城県仙台市の松井さん。どっちも“夢酔亭”。領収書あり」
「同名別店か、同じ現れ方か」
相沢はA4チェックリストのタイトルの上に「酔い路地」って小さく書き足した。
桂一は市影譚ラボ(自分のブログ)の相談受付テンプレを開き、返信を打ちながら、横のプリンターに手を伸ばす。
「同意書(A4)三通。控えは複写式でいい」
「了解。受付番号スタンプ、押しておく」
スタンプ台の朱肉が、紙に丸を落とす。受領印の赤がじわっと広がり、角が柔らかく見える。
モニターの前で、受信箱がもう一度光った。浜崎さんからの追伸だ。
——一次会は駅前の「〇〇屋」。レシート添付します。——帰り道の写真はこれだけ(路地の暗いスナップ)。——夢酔亭の場所は、この路地のどこかのはず。今はコインパーキングになっています。
「一次会のレシート、チェーン店の紙だ。順番はつながる」
桂一は透明ポケットを開き、印刷した同意書を三つ折りにして封筒へ。封筒は角2のクラフト。宛名を手書きし、のりで封をした。
相沢は名刺サイズの案内カードを三枚、机に並べる。
——夜間は顔を映しません/録音・録画は足元と画面のみ/不安があればこちらへ。
角丸の上質紙。指で撫でると、少しだけざらつく。
「このまま横浜行く?」
「行く。現物のレシートが届いたら、紙で固めてから現地。今日の夜は段取りを詰めよう」
コーヒーの香りが、少しだけ部屋を回る。
相沢はベージュのカーディガンの袖をまくり、キーボードを軽く叩いた。同意書テンプレの宛名を書き換え、メールにPDFを添付する。
桂一は**旅費申請の用紙(A4)**に日付と目的地を書き、ホチキスでまとめた。
昼過ぎ、最初の簡易書留が届いた。封筒の消印は横浜。
開封。厚紙に挟まれた感熱紙が二枚、きれいな三つ折り。
レシートの端は、夜の湿気を吸ってわずかに波打っている。角の丸印にはゴム印の微細な毛羽立ち。印字のフォントは最近のPOS機の癖。
桂一は照明を落とし、手元ライトを弱にして、無駄に紙を温めないように読む。
「裏の透かしは“TSK-58”。今も流通してる。古紙流用ではない」
「紙は現代。でも、店は閉店済みで、ビルは滅失」
「だから、紙で証明する」
相沢が頷く。
受信箱がまた光る。今度は北九州から。岡野さんの封筒。出てきた感熱紙も三つ折り、金額は三四五〇円。丸印。裏の透かし。
続いて仙台からは、L判写真のスマホ撮影が添付で届いた。一次会の集合。みんな笑っている。看板は写っていない。
「三件揃った。地理が散ってる。全国移動だ」
「ブログのネタにもなるし、相談も増える。悪くない」
ホワイトボードに地図を描き、ピンを三つ。赤い丸シールで横浜、北九州、仙台。
桂一は**A4の“案件リスト”**に行を追加した。
——横浜:浜崎(仮)/2:41/領収書原本/更地
——北九州:岡野(仮)/2:18/領収書原本/路地
——仙台:松井(仮)/2:57/L判写真のみ/現地確認待ち
「条件出し。終電後〜3:00。現金。酔っている(軽度、自己申告+簡易計測)。**路地の角で紙くず(レシート)**が転がる——」
「その瞬間、看板が見える。あるいは音だけ。複写式伝票が擦れる音とか」
「深入りはしない。あることを記録するだけ。顔は映さない」
相沢はA4チェックリストに□を五つ増やす。
□ 路地の紙くず確認 □ 音(暖簾・伝票) □ 体調 □ 連絡カード配布 □ 撤収時刻
午後、部屋のドアがノックされた。配達員が角2の封筒をもう一通。仙台からの同意書(署名済)だった。
成瀬真(市民NPOの相談員)が顔を出す。今日はネイビーのシャツにグレーのスラックス、スニーカー。ICレコーダーと受領印を持っている。
「受け取りました。**受付票(複写式)**はここに。夜の現場は、近隣対応カードを持っていきます」
「助かります。顔は映しません、の一文、大きめで」
「入れてあります。あと、安全最優先。掴まれたら振り払うまで。そこ止まり」
「了解」
三人で、紙をそろえる。透明ポケットにレシート、同意書、チェックリスト。クラフト封筒には「横浜」「北九州」「仙台」とペンで書き分け。
プリンターからはA3の住宅地図が二つ折りで出てきて、赤ペンの丸が増えていく。
「横浜は今夜下見、現地のコインパーキングを昼に確認しておく」
「北九州は来週の金曜。仙台はその翌週」
「ブログには“読者協力フォーム”を置いて、領収書や伝票の情報を集める」
マウスを動かし、ブログ管理画面に新しい記事の枠を作る。
タイトル:【相談受付】酔い路地の領収書(夢酔亭)
本文:同意書の案内、郵送方法(折れ防止の厚紙を同封)、顔は映しません、危険と感じたら中止。
公開ボタンを押す前、受信箱がもう一度だけ光った。
差出人:広島県呉市の片岡さん。件名:【相談】金曜深夜の領収書。
「広がってるね」
「全国で、同じ現れ方」
桂一はA6の単票メモに三行足した。
——横浜・北九州・仙台・呉(新)
——終電後/現金/領収書
——紙でつないで、紙で確かめる
「行こうか」
「行こう」
相沢はカーディガンの袖を下ろし、白いスニーカーの紐を結び直した。
桂一は黒いパーカーのポケットに名刺サイズの案内カードを三枚、B7メモを二枚、上級救命のカードを一枚。
プリンターのトレイにA4を補充し、受領印を朱肉に軽く触れさせてから蓋を閉じる。
「鍵、消灯、確認——」
「OK。チェックリスト、持った」
ドアを閉めると、廊下は静かだった。
エレベーターの前で、桂一のスマホが短く震える。
受信箱が、もう一度だけ青く光った。
件名:【相談】夢かうつつの居酒屋——領収書、あります。
「——いい夜になりそうだ」
「紙が味方なら、ね」
二人は並んで階段を降りた。
外の空気は、少しだけ甘い。
クラフト封筒の角が、手の中で確かな形をしている。
その重さが、今日の行き先をはっきり決めていた。




