1 俺は誰なのか
男の黒髪は艶やかに背を流れている。
瞳は、深い群青色。
顔立ちは端正そのものだ。
高い鼻梁と薄い唇。
男の口が動く。
「すみません、あの~、ちょっとこわいんで……エッヘッヘ……その、俺のマネすんのやめてもらっていいですかね」
前の男が卑屈な表情を浮かべる。
そんな、ネズミコゾウみたいな顔すんのやめてほしい。
イケメンにはイケメンの表情ってもんがあるだろ。
「あのー、っていうかここどこなんですかね? 旅館?」
イケメンは卑屈な表情をやめない。
うーん、鼓膜がぶるぶるする。
腹にくるような低音ヴォイスだ。
ん?
っていうか俺の声はどこだ?
「……」
いや、待て待て。
俺の本体はどこだ?
「あ、あ、あ、あの」
震える低音。
弱気とコミュ障の塊のような喋り方。
や、どう考えても似合わないだろ?
イケメン武士と理系の俺。
「わっ……ワ・レ・ワ・レ・ハ・ウ・チュ・ウ・ジ・ン・ダ」
一言一句同じ言葉を、目の前の細マッチョイケメンが喋る。
「お、俺?」
鏡を指さすとイケメンも俺を指し返してくる。
俺があいつであいつが俺で。
「えーーーー!!!!」
バゴォーン!!
「ご乱心じゃ! 時宗様がご乱心ですぞ!」
レスラーが今度は木戸を蹴り破って入って来た。
迷惑すぎる。
「昨日の狩りの熊の霊がとりついたのやもしれぬ! いや、切り捨てた蒙古の使者の呪いか!? 祈祷を! 祈祷をはよう!」
「いえ、安達殿! 我ら禅宗では祈祷はいたしませぬ」
「ええい、そんなものは知らぬ! 疾くどうにかせい!」
坊さんっぽいじいさんが出てきてオロオロしている。
レスラーは安達というらしい。
俺をキッと見据えておっさん、もとい安達さんは言った。
「悪霊よ、そちらにおわすは北条時宗様なるぞ! 出ぬというならば出させてみせるぞ!」
やばい。
このままだと尻に火でもつけられそうだ。
「あー……アタマがワレルようにイタイー」
俺は頭を抱えて、ゆっくり床に横になった。
「北条様!」
「時宗様!」
だめだ。
気のせいでも何でもなかった。
絶対ホウジョウって言ったし、トキムネって言ってる。
北条時宗ってあれじゃん。
あの……なんか……武士の人……じゃん。
何した人だっけ?
橋の上で笛吹いて戦ったやつだったか?
いや、そりゃあ牛若丸か。
それともナントカの乱みたいなのやったやつだっけ?
奥さんが鬼みたいな武士か?
北条……北条政子。
いや、あれは武士の奥さん、奥さんが武士だったか?
というかホウジョウトキムネの時代っていつだ?
「いざ鎌倉! 忠実なる家臣、この安達! 時宗様の危機とならばこの躯を挺してェェェッ! お守りいたしまする」
「安達殿! ここはすでに鎌倉でござりまする!」
「ええい坊主うるさいわ! そこが重要なのではないッ」
えっ鎌倉?
鎌倉って言った?
どこだっけ、静岡?
自慢じゃないが、日本史なんて小学校6年生のときの記憶が最後といっていい。
試験に直接関係しなかったし。
だが、俺はこれまでの自分の考え方を、今、初めて後悔していた。
「日本史、もっとやっときゃよかった……」
夜明けにどこかで鳴いた鶏がコッケーと俺を笑った。