8 笛未子と料理
最近、笛未子の様子がおかしい。
それはフェミニスト仲間たちの間ではもっぱらの噂になっていた。
話しかけても上の空、噛み合わない会話、なによりもあれほど攻撃的だったSNSの投稿も最近じゃからっきしで、“牙を抜かれた狂犬”。そんな言葉で揶揄される始末だった。
――その日、都内某所の小料理屋の個室では、フェミニスト仲間たちによる会合が開かれていた。
テーブルの上に並ぶのは、色とりどりの小鉢、お刺身、ビール瓶などの品々。
会話の内容はフェミニストの活動内容、そしてお決まりのSNS『Zet』の炎上ネタばかりであった。
その集まりの中には笛未子の姿も。
テーブルの隅に座る彼女は話の輪にも入らず、上の空で部屋の壁ばかりをぼんやり眺めていた。
彼女の脳裏にあったのは、“あの殿方”の姿と、エレベーター内での「壁ドン」の快感。
そして悪夢の中で上書きされた「顎クイ」だった。
「笛未子さん、笛未子さんったら!」
隣の女が笛未子を懸命に呼びかけ、軽く肩を叩いてやっと反応があった。
「は、はい、なんですか?」
眼鏡を上げて返事をした。
「ですから、先日の“これ”ですよ!」
女がスマホの画面を見せた。
そこには『Zet』で今まさに大炎上中のノート(投稿)だった。
事の発端は些細なある女性の投稿。
『旦那に「昼は素麺でいい」と言われた。旦那はただの手抜き料理と思ってる。
けど、私が考えるのは素麺だけじゃなく、天ぷらや付け合わせも用意しないといけない。
だから料理に手抜きなんてないことを旦那は知らない』
これが男女対立の火種となり瞬く間に炎上したのだ。
しかも、なぜか製麺メーカー公式広報まで参戦し、女性側をフォローするつもりでリプした「素麺って大変ですよね」を投じたところ、「舐めてんのか!」「バカにしてる!」と女性やフェミニストたちを逆に怒らせ、火に油を注ぐ形となり、最終的に不買運動まで巻き起こることになったのだ。
「笛未子さん、全然リプしてくれないんですもの。ちょっと男どもを黙らせてやってくださいよ」
女は期待の目で笛未子を見た。
「わ、わかったわ。でも、素麺でいいと言ってるのに、付け合わせとか、天ぷらとかそんなに作ったら、そりゃ手間よね……」
ボソッと笛未子が呟いた瞬間、仲間のフェミニストたちは一瞬にして黙り込んだ。
彼女の言葉は、「男は簡単なもので良いと言っているのに、勝手に手間を増やすのは女性側の問題ではないか」という、自己責任論にも繋がりかねない発言だったからだ。
「……あははは、笛未子さん面白い冗談言うわね……」
違う女がすぐに笑って場を取り繕った。
「ど、どうしたの? 笛未子さん。最近様子がおかしいわ。そんなじゃ女性だけの街が作れないわよ?」
別の女が眉を顰める。
笛未子が最も心酔していたはずのユートピア構想だ。
「女性だけの街って、誰がインフラを整備するのかしら?」
笛未子がまたもボソッと呟く。
「そんなの男どもにやらせれば良いじゃない! “危険で汚い仕事”なんだからさぁ!」
別の女が苛立ちの声で返した。
「でも、それじゃ私たちが逆に男性を軽視しているようだわ……」
またも笛未子が発言した途端、場が一瞬にして凍りついた。
彼女たちの理論は、「男性が女性を軽視するから、男性を軽視しても構わない」というロジックの上に成り立っていたからだ。
「え? 笛未子さん、少し変よ? どこか調子悪いんじゃない? もし体調が優れないなら帰った方がいいわ」
怪訝そうな顔で女たちは笛未子を覗き込む。
「理論のズレ」は、彼女たちの世界では「異端」と判断されるのだ。
「う、うん、そうするわ」
虚な目をした笛未子はそう答えると、お金を置いて立ち上がり、靴を履いて個室を出た。
「……………」
女たちは明らかに様子がおかしい笛未子の後ろ姿を見て黙り込んだ。
***
小料理屋を出た笛未子はぼーっとしながら駅まで歩いた。
電車の中でも彼女は遠い空を眺めていたが、車窓からの景色は全く彼女の目には映ってなかった。
電車を降り駅の改札を抜けた頃は、すっかり陽も落ち、駅前は帰宅する通行人たちでひしめいた。
笛未子も帰ろうと歩き出したが、何かに気づき立ち止まった。
「あぁ、あの殿方だわ!」
心臓がバクバクと跳ねるのがわかった。
駅前のスーパーの前を仕事帰りなのか、通勤バッグを提げてワイシャツ姿のあの男がいた。
ただし隣には若い女も。
しかし、笛未子にはそんなこともはや関係なかった。
その顔はすでに恋する乙女そのもの。
笛未子は急いでスーパーの店内に入って男を探した。
長身だからすぐに見つかった。
気づかれないよう棚に身を隠しながら、ゆっくり近づく。
隣にいる女は、肌は褐色でボタンダウンのシャツを着ている。
前を開けているため、タンクトップから豊満な胸の谷間が覗いていた。
ショートパンツから伸びるスラリとした長い脚は店内の灯りで眩しく光っていた。
女は男の腕に掴まり楽しそうに買い物中だった。
「にーさん、なにが食べたい? 今日はウチが作る日やから、なんでもええで?」
女は嬉しそうに男に話しかける。
「そうだな、暑いし“簡単な素麺とか冷やし中華”でいいよ」
男は顎を触りながら答えた。
「そんなんで足りるか? 唐揚げとかボリュームあるもんも一緒に作ったろか?」
笛未子は小料理屋での素麺論争を思い出し、耳を澄ませる。
「え? それって手間じゃない?」
男が女の方を見て尋ねた。
女は立ち止まった。
「あんな、愛する人に作ってあげて、そんで“美味しい”って食べてもらえるなら、ウチは全然手間やないんやで!」
笑顔で指を立てて説明した。
「それにウチはそれだけで幸せやねん……」
そして照れくさそうに呟いた。
笛未子は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「じゃ、麺じゃなくて、唐揚げをおかずにご飯がいいわ!」
男は笑顔で返した。
「じゃそうしような♡」
女は男の手を取って、精肉コーナーへ向かい、鶏肉を選び始める。
棚の向こうでやり取りを聞いていた笛未子は肩を震わせた。
「愛する人のために作る料理は手間じゃない……本当にそうなの……?」
仲間たちのやり取りを思い出す。
笛未子の「手間=搾取」という理論は、「愛=喜び」という、あの女の純粋な献身によって、完全に打ち砕かれた。
その後、二人はカゴに鶏肉やその他の食料品を入れると仲睦まじそうにレジへ向かった。
笛未子はその後ろ姿を見届けると、
「私も作ってみようかしら……唐揚げとか……?」
踵を返し、急いで精肉コーナーに向かった。
パックを手に取ろうとするが、たくさんの種類の鶏肉が並んでいて、何を選んで良いかわからなかった。
「え? でも、唐揚げってどうやって作るの……?」
プルプル肩を震わせる。
長年「家事は搾取」と断じてきたツケを払う。
「な、なんで何もできないのよぉぉ!!」
店内に笛未子の叫び声がこだました。
***
その後。
笛未子のアパートの一室。
買い物袋をテーブルに置き、卵、ベーコン、レタスを冷蔵庫に入れた。
それと、2キロの米を床に置いた。
彼女は汗を拭うと、早速米を研ぎ炊飯器にセットした。
ご飯が炊き上がるまでに、今まで使ったことのない新品同様のフライパンを流しの下の棚から取り出し、目玉焼きをおっかなびっくりで作り始めた。
初めて作る目玉焼きは、黄身が崩れ、ベーコンは焦げ、とても人前に出せるものではなかった。
千切っただけのレタスを添える。
炊き上がったご飯とインスタントの味噌汁と一緒にテーブルへ並べた。
自分で作った初めての料理。
それだけで胸の奥が少し満ち足りた気がした。
醤油を少し垂らして食べ始める。
「美味しい……」
彼女は明日はなにを作ってみようか考えながら、箸を進めた。
カーテンは夜風を受け、ほんの少し揺らいでいた。




