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7 笛未子とエレベーター

「さきほど入った情報によりますと、◯◯県△×市の高層マンションにて、午後7時ごろ起きた通り魔事件は……」


笛未子がテレビを見ながら弁当を食べていると、ある地方都市で起きた通り魔事件が報道されていた。

マンションのエレベーター内という密室で、若い女性が刃物を持った男性に襲われたというのだ。

幸い被害者に命の別状はなかったが、エレベーターの防犯カメラの映像も映し出され、凄惨さを物語っていた。


アナウンサーが淡々と原稿を読み上げる様子を見て、笛未子は箸を止めた。


「これだから男は……」


笛未子は割り箸をテーブルに叩きつけ、すぐさまスマホを手に取った。

SNS『Zet』を開くと素早い手つきで書き込んだ。

それは該当の記事を引用したノート(投稿)だった。


『密室のエレベーター、男と二人きりで乗るな!

男は犯罪者予備軍と思え!』


なんとも過激で主語の大きな投稿であった。

が、Zet民は正直で、瞬く間に”いいね”や賛同するリプライが返ってきた。


スマホをスクロールし、その反応を見た笛未子は眼鏡のブリッジを押し上げる。

部屋の蛍光灯がキラリと反射した。


「ふっ、これでまた世の女性が救われたわ」


ご満悦の様子の笛未子は割り箸を拾い上げると、唐揚げにブスりと突き刺した。

勢いよくかぶりついた瞬間、反対側から肉汁が弾け飛んだ。

その飛沫がテーブルの上の例のチラシに斑点を残した。


***


――数日後。


笛未子は繁華街まで繰り出し、買い物に来ていた。

日傘を畳み、ハンカチで汗を拭いデパートに足を踏み入れた。

休日のデパートは家族連れやカップルで賑わいを見せていた。


その様子を一瞥すると、真っ直ぐに階上の書店を目指してエレベーターへ向かった。


ボタンを押して待っていると、先日エレベーター内で起きた事件のことをぼんやりと思い出した。


エレベーターが降りてくると、チンという無機質な音と共に重厚な扉が開く。

直ちに乗り込んで目的階と「閉」を押す。


扉がゆっくりと閉まろうとしたその時、隙間からぬぅっと一本の腕が差し込まれた。


「ひぇ!?」


笛未子は小さな悲鳴を上げた。

そしてセンサーが感知し、扉は再び開いた。


「す、すみません、急いでたので」


低い声の180センチ以上はありそうな長身の男が息を切らして乗り込んできた。


(メイドをこき使っている“あの男”だわ!)


笛未子は思わずジッと見上げてしまったが、すぐに目を伏せた。

横目でチラッと見ると、男のこめかみには汗が滲んでおり、こちらに気づかぬ様子でスマホを見ていた。


二人きりのエレベーター。

逃げ場のないシチュエーションに笛未子は息を呑んだ。


エレベーターが2階に停まり、数人の客が乗り込んできた。

男は押される形で笛未子の目と鼻の先まで近づいた。


Tシャツから伸びる血管が浮き出た太い腕、厚い胸板、そして柔軟剤と汗の混ざった匂い。若い男の体臭が鼻に飛び込んできて、ビリビリと脳を麻痺させる。

笛未子の下腹部が警鐘を鳴らし、もう大騒ぎだ……

いや、もはやお祭りに近かった。


エレベーターは途中の階で更に人を乗せ、ぎゅうぎゅう詰めになる。

男は壁に手をつき、笛未子に触れぬよう最大限に気を遣っていた。


これを笛未子のフィルターを通すと、他者から自分を守ってくれているかのように見えた。

それはまさに姫君と騎士ナイトの関係。


小声で「すみません」と囁く男。

反射的に「ひ、ひゃい」と言葉にならない返事を返してしまうほど動揺していた。


(ひぇ〜これが噂の壁ドン。少女漫画でしか見たことないのに、まさか現実世界で起きるなんて……!)


圧倒的な異性との距離感。

笛未子の心臓は暴れ出し、血液が沸騰する。

もはや収束不可能だった。


やがてエレベーターは目的の階に到着すると、一斉に乗客が降り始める。

男も何事もなかった様子で降りた。


すると、男の腕にしがみつく若い女の影。


「にーに! 遅いよ! ケーキご馳走してくれるんでしょ!」


女はTシャツとミニスカート、キャップを被り、男に笑顔を向ける。


「悪い、悪い」と苦笑いの顔を浮かべる男。


笛未子はエレベーターから降りることすら忘れてしまい、その場に立ち尽くした。

足の震えが止まらない。


あの耳に残る低く心地いい声。

適度な筋肉が付いた太い腕。

そして男特有の匂い。


全身が痺れ、頭から離れない。

やがて、その場にペタンと座り込んでしまった。


笛未子は頬を紅潮させ、男の後ろ姿を目で追った。


「私……もしかして……“恋”してるのかしら……」


鼻の頭まで落ちてきた眼鏡を押し上げた。


そのままエレベーターはゆっくりと扉が閉まり、彼女を乗せたまま階下に向かって降り始めた。

それは今の笛未子の心情を映しているかのようだった。


***


その日の夜中。

ベッドで寝ている笛未子はうなされていた。

例の悪夢を見ていたのだ。

しかし、今回はいつもと少し違っていた……


――夢の中。


放課後の校舎は西陽が差して、教室の中を赤く照らし、影が長く伸びていた。


「ばーか、お前に告ってOKするか賭けただけだよ!

誰がお前みたいなブス好きになるか!」


下卑た笑いが教室に響き、男子生徒たちは手を振りながら去っていった。


机の上にこぼれ落ちる涙。

膝の上で震える拳。


「そ、そんな……お、男なんて……絶対に……絶対に許せない……許さない!」


セーラー服の笛未子は立ち上がり、通学鞄の持ち手を強く握りしめ、帰ろうとした次の瞬間――


ガラァッ!


突然教室のドアが勢いよく開いた。


現れたのは昼間のエレベーターで居合わせた男だった。

ワイシャツを腕まくりし、逞しい腕が伸びる。


男は笛未子に真っ直ぐに近寄ると、真剣なまなざしで彼女を見た。


「笛未子!」


男は少女の行く手を遮るように壁にドンと手を突く。


「ひゃっ、ひゃい!」


眼鏡がずり落ちた。

男は笛未子を見つめながら、ネクタイを緩める。

襟元から色香のある鎖骨が覗いた。


「笛未子、お前泣いてたのか?」


男の片方の手が伸び、ゆっくりと頬をなぞり指で涙を拭う。

その指はそのまま顎を掴みクイっと上を向かせた。


笛未子は目を見開き、顔が真っ赤になった。

胸の鼓動が鳴り止まない。


(ひぇ〜顎クイっ!)


必死に頭を働かせるが、浮かぶのは日常的に読んでいるBL本の内容が脳を駆け巡った。

ああ、なぜ自分は少女漫画をもっと読み込まなかったのかと悔いていた。


「俺、お前のこと前から……」


そう言うと男は笛未子の二の腕を優しく掴んだ。

腕から男の熱がじんわりと伝わってきた。


顔が目と鼻の先に近づく。

お互いの息がかかるほどの距離……


そして……


ガバッ!!


「うわっ!」


と声を上げて飛び起きた。


「はぁ……はぁ、ゆ、夢ですか……」


ごくりと唾を飲み、肩が上下する。

笛未子は顔に手を当てると、頬が熱くなっていた。


「は、初めてあの夢が…… 悪夢じゃなかった……」


ベッドから立ち上がり、台所で水を出し、コップも使わずに蛇口から直接水を飲んだ。

飲み終わると手の甲で口を拭う。


「夢にまであの“殿方”が出てくるなんて……これが……恋……?」


笛未子は再び布団に入った。

夢の続きを期待して静かに目を閉じた。

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