5 笛未子と聖典
その日の夕方、笛未子は肩を落とし、うなだれて帰ってきた。
アパートの階段で隣人と遭遇したが、本人は気づかなかった……。いや正確に言うと、視界にすら入らなかった。
隣人の中年男もすれ違うときに、ぶつぶつと独り言を呟く笛未子に、少しばかりの恐怖を感じた。
ゆっくりと階段を上る笛未子を、思わず振り返って見てしまうほどだった。
――数時間前
「こういうことは困りますからね。今回は怪我人も出なかったし、被害届もなかったので注意だけで済ませますが」
若い警官は腰に手を当て、パイプ椅子に座る笛未子を睨みつけた。
傍らにいる年配の警官も、呆れた顔で笛未子を見下ろしていた。
昼下がりの太陽が強い光を落とす中、ビル館内の一角に設けられた事務所。
そこで押し黙って笛未子は座っていた。
あらかた事情聴取が終わると解放され、やれやれとした顔をした警官と係員に見送られる形で、笛未子は会場を後にした。
「私は間違っていない。男は悪、男は犯罪者…… ぶつぶつ……」
そんなことを何度も呟きながらJR池袋駅まで歩いた。
電車に乗ると買った本を胸に抱え、空いている席に座ったが、気づかないうちに山手線を一周してしまっていた。
二周目に入ったところでようやく我に返り、慌てて乗り換え駅で下車した。
部屋のドアを開けると、カーテンを閉め切った薄暗い部屋から、ムワッとした熱気が笛未子を包み込む。
エアコンのスイッチを入れてカーテンを開け、畳の上に腰を下ろす。ぼんやりと夕方の窓を眺めていると、こめかみにじんわりと汗が滲んだ。
しばらくしてシャワーを浴び、夕飯に買ったコンビニ弁当をつついた。
だが、半分も食べないうちにベッドに倒れ込んでしまっていた。
よほど疲れていたのだろう、目を閉じるとすぐに寝息が聞こえてきた。
胸にはまだ包みも開けていない買ったばかりの本を抱えて。
***
その晩、寝ている笛未子はうなされていた。
シーツをギュッと手で掴み、体をよじらせ、顔を歪ませ、呻き声と布の擦れる音だけが部屋にこだまする。
――放課後の校舎。
オレンジ色の西陽が教室を照らし、光の粒子が舞う。
校庭では部活動に励む野球部やサッカー部の声が聞こえていた。
教室には二人の生徒の影。
「笛未子。俺、前からお前のこと…… 好きだったんだ」
爽やかなイケメン男子。
彼が恥ずかしそうに見つめる先には、一人の少女が席に座っていた。
「え!? わ、私のことが…… 本当に?
で、でも私暗いし…… 可愛くないし……」
セーラー服を着た少女は目を逸らし、顔を赤らめた。
少女はこの男の子がなぜ自分に好意を寄せるのか必死に考えたが、理由など思いつかなかった。
鏡を見るたびに「なんでこんな顔なのだろう」と、ため息ばかりの日々。
自分なんて道端の小石と同じで、誰からも見向きもされないちっぽけな存在。
靴先に当たっても誰にも気づかれない。
でも……。
「そんなことない! 笛未子は可愛いんだよ! だから俺と付き合ってほしい」
男子は神妙な面持ちで少女を見つめた。
その視線は熱を帯びていた。
「!?」
少女は頬を染め黙り込む。
この男の子は靴に当たった小さな石に気づいてくれたのかもしれない。
私はもしかしたらこの子にとっての宝石になれるのかもしれない。
やがて顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「う、うん…… わかった。私もケンゴ君と付き合いたい!」
が、その時――
「ぎゃははははは!!」
突如、教室の後ろの扉が開き、数人の男子が雪崩れ込んできた。
「どうだ! お前ら。俺の勝ちな!」
イケメン爽やか男子が、入ってきた男子生徒たちの方を向いた。
「くそ〜! 笛未子がまさかOKするとはなぁ!」
「ホントだよ! こんなことなら俺がやれば良かったわ!」
「お前じゃ無理だっつーの!」
ゲラゲラ笑いながら、数人の男子生徒たちがイケメン男子を囲んでお金を手渡した。
「え!? ど、どういうこと?」
少女は訳もわからず、たじたじする。
その姿はひどく狼狽していた。
「あぁ? ばーか!」
イケメン男子はそう言うと机を蹴り上げた。
「お前に告ってOKするか賭けただけだよ! 誰がお前みたいなブス好きになるかぁ!」
男子生徒たちは下卑た笑いで教室を去って行った。
ぷるぷると肩が震え、涙が頬を伝う。
やはり私は取るに足らない存在だった。
いくら拭いても涙は止まらず、机の上に零れ落ちる。
拳を握り締め体を震わせた。
「そ、そんな…… お、男なんて…… 絶対に…… 絶対に許せない…… 許さない!」
「ガバッ!」
笛未子は勢いよく飛び起きた。
その拍子で本の包みがベッドの下にドサりと落ちた。
「ハァハァ、夢…… か。久しぶりに嫌な夢を見た」
目尻には涙が溜まり、額にはじっとり汗が滲む。
肩を上下させ、胸の鼓動は収まる気配がなかった。
息を整え、立ち上がる。
ふらふらした足つきで台所へ向かい、水道水をコップに注ぎ一気に飲み干した。
笛未子には、人には言えない過去があった。
高校時代の“賭け告白”。
この仕打ちにより「男=悪」という認識が生まれたわけだが、そう思わなければ自分を保てなかった。
いわば防衛反応だろう。
「はぁ〜 これも昼間、あの男に触られたからだ……」
掴まれた腕を触るとまだ熱を持っているような感覚がした。
「けど、昼間の若者たちはみんな楽しそうだったな…… 私にはなかった青春……」
昼間のコスプレ会場では、女性が肌を晒している光景に血が上り、笛未子には違うものに見えていたが、時間が経った今は素直にそう思えていた。
しばらく台所に佇むと六畳間に戻る。
小さな本棚の前で膝をつき、一冊の本を取り出した。
それは敬愛する前原千鶴子の著書『おひとり様よ。』だった。
表紙を指先でスッとなぞる。
「先生、私はもう迷いません。この世界を浄化して、女性を男の手から救います」
本を胸に抱きしめ、目を閉じる。
その時、ピロンとスマホの通知音が鳴った。
笛未子はスマホを手に取りSNS『Zet』の通知を開いた。
そこには衝撃の記事が――
『女性社会学の第一人者、前原千鶴子、入籍していた!!』
「え……?」
体が震え、歯がガタガタと鳴った。
「わ、私は先生を見習ってこんな年になるまで独身を貫いてきたのに……
せ、先生は結婚していた…… そ、そんなこと……」
呆然とした笛未子が視線を落とすと、本の帯に書かれた「夫婦なんて百害あって一利なし」というキャッチコピーが目に飛び込んできた。
「ぬおぉぉぉぉ!!」
笛未子は憤怒の雄叫びを上げると、ペン立てからカッターナイフを取り出し、本を引き裂いた。
テーブルに本を押さえつけ、バラバラになるほど何度も。
紙が裂ける乾いた音だけが部屋に広がった。
それは彼女にとっての“聖典”。
だが今や、畳の上に散らばるただの紙くずでしかなかった。
結局、この世に価値ある宝石など存在しない。
道に転がる無価値な小石と同然。
「信じられるのは己のみ!」
雷鳴のような叫び声が上がる。
振動でカーテンがゆらゆらと揺れた。
隣からは「うるせー!」ドン! ドン! と壁を叩く音が響き渡った。




