2 笛未子とSNS
駅から徒歩10分に位置する、木造二階建ての古びたアパート。笛未子はそこの二階の角部屋に住んでいた。
傘を畳んで、錆びついた鉄階段をカンカンと靴の踵を鳴らして二階へ上がっていった。
水が滴る傘を玄関脇の窓の格子にかけると、首を伸ばして隣の部屋の曇り窓を覗く。
部屋の奥からは白い灯りがぼんやり光っていた。
「ちっ、今日もいるのか」と笛未子は舌打ちをして部屋に入った。
この隣の住人というのが少し厄介な存在で、笛未子にとっての天敵でもあった。
あまり顔を合わせたことはないが、50代くらいの中年男性で、笛未子が部屋で大きな声を上げると、すぐに壁をどんどん叩くのだ。
そのたびに心の中で「この犯罪者予備軍め」と毒づいていた。
室内の灯りを点けると、殺風景な部屋が現れた。
二畳ほどのささやかな台所と、奥の六畳の一間のみの小さな間取り。
台所の流しには、今朝使った皿とカップが水に冷やされ置かれている。
六畳間の畳の上には無造作に積み上げられた小説や漫画。
小さな本棚には社会学やフェミニズムに関する文献が並んでいた。
壁に目を向けると、例のチラシが麗々しく貼られており、その隣にはカレンダーが掛けられている。いくつかの日付には赤字で“活動日”と手書きがしてあった。
部屋の中は蒸し風呂状態で、じめっとした熱気に支配されていた。
急いでエアコンのスイッチを入れるが、吹き出す風も生温かい。
立て掛けてあった、脚を折りたたむタイプのちんまりとしたテーブルを出して、その上に買ってきたコンビニ弁当を置いた。
雨で濡れたジャケットとズボンを脱いでハンガーにかけると、濡れている箇所にタオルを押し当て水気を取る。
何度も繰り返していると、額やこめかみ、背中から汗が噴き出してきた。
エアコンに視線を移すが、冷風が出てくる様子はなかった。
“この子”はしばらく経たないと機嫌が良くならない。
いつものことだった。
ある程度拭き終わると、ブラウスと下着もすべて脱ぎ捨て、何も隠さぬままユニットバスに入っていった。
――20分後。
頭にタオルを巻きつけ、上気した部屋着姿の笛未子が風呂から出てきた。
コンビニ弁当を電子レンジに入れて温める。
待っている間に冷蔵庫からレモンの缶チューハイを取り出し封を開けると、立ったまま一気に喉に流し込んだ。
「ぷはぁ、やっぱりひと仕事を終えたあとのお酒は美味しいわ。
……はぁ、それにしても“あの男”、距離が近かったな…… 」
笛未子は玄関脇の小窓を見つめながら、先ほどのことをふと思い出した。
しかし電子レンジのピーという音が鳴ると、我に返り、私一体何を考えているのかしらと、首を振って追い払った。
温め終わった弁当をレンジから取り出し、六畳間に移動し食べ始めた。
テレビを付けると放映されていたのは、高校野球の甲子園特集。
野球なんてまるで興味がないのに、テレビの画面をぼんやりと眺めながら味気ない弁当をつついた。
そして、ある出場校の話になると、箸が止まった。
それは女子マネージャーがクローズアップされており、スポーツドリンクを用意したり、ユニフォームを洗ったりと、額に汗を流しながら献身的な姿が映し出されていた。
「んんまぁぁぁ!!
女子は男を世話するために存在するのではないのに! 許せません!」
テレビを睨みつけると、割り箸を放り出してスマホを掴んだ。
「『Zet』にノート(投稿)してやる!」
フェミニスト活動をする上で、『Zet』などのSNSは欠かせなかった。
世間で起きていることがテレビよりもいち早く手に入るし、まさに現代社会の縮図と言っても過言ではない。
しかし、SNSは投稿者の意図的な偏向があったりなど、一概に信じられるとは言い難いものだが、笛未子にとってそんなことは関係なく、ネットは100%信用できるという謎の自負があった。
スマホのSNS『Zet』のアプリを立ち上げ、慣れた手つきで書き込み始めた。
『女子マネージャー制度という名の「奉仕強要」を即刻廃止せよ。女は男のために存在するのではない』
送信ボタンを押して、そのメッセージがインターネットという広大な海に投げ込まれると、瞬く間に“いいね”やリノート(再投稿)がされていった。
それはどれもが笛未子に賛同するものばかりであった。
「やはり私は正しい」
画面を見つめながら微笑を浮かべ、スマホ片手に割り箸を手にした。
再び弁当を食べ始めようとした時、一件のリプライに目が留まった。
『私は女子マネ好きでやってる。選手じゃないけど、部活楽しいよ』
「え!?」
スマホを持つ手が震えた。
「な、なんですってぇぇ!」
笛未子にとって、女性は常に搾取される被害者でなくてはならない。
被害者不在では自身のこれまでに行ってきた活動まで否定されたことになる。
「わ、私は貴女たちのためを思ってしたのに……」
顔が歪む。
声が震えた。
「ふ、ふざけんなじゃあないわよぉぉ!!」
腹の底から出た獣のような叫びを上げると、握りしめた割り箸がパキッと折れた。
すると隣の住人が、笛未子の部屋の壁を叩き、ドンドン! と乾いた音が響いた。
孤独な一人暮らしの部屋には、テレビの音と外から聞こえる雨音だけが取り残されていた。




