14 笛未子と三日月
数日後の朝。
笛未子は電車に乗り、講義のため大学へ向かっていた。
手すりに掴まり、ぼんやりとスマホをいじり、先日炎上していたイラストを眺めていた。
まさか描いている本人が女性だとは思わなかったし、好きで描いているということに驚かされた。
あのメイドの女性が言ったとおりだ。
そう考えたら、なんとなくこの絵もかわいく見えてきたのだ。
笛未子はスマホを鞄に入れると、窓の外へ視線を移し、わずかに微笑んだ。
***
講義を終えて、書類を受け取るため大学の事務局を訪れた。
去り際に「下野先生!」と後ろから声をかけられた。
振り向くとそこにいたのは事務員の古林だった。
背は笛未子と同じくらい、少し太めの30代半ばほどの男性職員。
「はい?」
眼鏡を指の腹で上げた。
「あ、あの今夜、職員たちと飲み会があるのですが……下野先生もいかがですか?」
笛未子は基本的にこういった集まりには参加しない。
男性が参加する飲み会などもってのほかだ。
しかし、しばらく考え――
「そうですね……参加してみようかしら」
本人も驚くほどあっさり承諾してしまったのだ。
古林はぱあっと笑顔になり、
「今夜18時から駅前の鳥民です!」
そう告げると事務室へ戻って行った。
古林の後ろ姿を見ながら、
「どうして、あの人はいつも私を誘ってくれるのかしら」
そんなことを考え、自分の研究室へ向かった。
研究室に戻ると、明日の講義の下準備をする。
いつもなら、スマホを傍らに置き、『Zet』を常に確認していた。
しかし、あれ以来、あまり頻繁に見ることがなくなっていた。
これが不思議なもので、一度SNSをあまり見なくなると、さほど気にならない自分がいた。
「囚われていたのかしら?」とまで本人は思ってしまうほどだった。
鞄を開けると「男だっておひとり様よ。」が入れっぱなしだったことに気づいた。
もう一度本を開こうとしたが、千鶴子に叱責されたことを思い出すと開く勇気がなかった。
ふぅと息を吐き出し、そっと本棚にしまった。
「そろそろ時間だわ」
腕時計を見て呟く。
駅前といっても場所がわからない。
古林さんについていってもいいかしら。
そんなことを考えて鞄を肩に下げ、事務室へ向かった。
事務室前へ行くと、ちょうど古林が出てきたので声をかける。
古林も嬉しそうに「一緒に行きましょう」と二人は居酒屋へ向かった。
駅前までの道すがら、他の職員達が前を行くなか、笛未子と古林は二人並んで歩いていた。
その間、古林は笛未子に沢山話しかけてきた。
大学のこと、学生の就職状況、話題のニュース。
男性となんて、高校の「あの出来事」以来、必要最低限のことしか言葉を交わさなかった。
だから、世間話など大人になってから、初めてかもしれない。
笛未子は完全に聞き手側だったけれど。
飲み会の場所は雑居ビルの階上だった。
小さめのエレベーターには、全員乗り切らないため、他の職員とは別々に乗り込んだ。
古林と二人きりの空間。
張り詰めた空気。
笛未子の脳裏に、以前女性がエレベーターで襲われたというニュースがよぎった。
しかし、古林はそんなことを気にする様子もなく、エレベーターのパネルの方を向いて、緊張した面持ちで黙り込んでいた。
額には汗が滲み、耳が赤くなっている。
腕まくりしたワイシャツからは太い腕が覗いていた。
見た目のわりに筋肉質なんだなと、ぼーっと眺めていたら、目的の階に到着した。
「お先にどうぞ」
ドアを押さえながら、古林は促す。
笛未子は「すみません」と言って先に降りた。
居酒屋は、アルコールと揚げ物の匂いに包まれていた。
すでにサラリーマンやOL、学生たちで混み合い、賑やかだった。
「あそこです」
古林が指差す方の座敷に、見覚えのある職員たちが座っていた。
笛未子は靴を脱いで座敷にあがる。
「荷物はこちらにどうぞ」
「上着をかけるハンガーです」
古林がきびきびと先回りしてくれた。
全員にジョッキのビールが行き渡り、飲み会が始まった。
久しぶりのビールは喉越しもよく、とても美味しかった。
隣に座った古林も細やかに気遣ってくれた。
そんな古林を見て、笛未子は
男性だってこんなにも女性に気を遣ってくれるんだと知った。
「下野先生、最近少し雰囲気変わりましたよね」
女性職員が笑顔を向けながら尋ねた。
隣の古林も、
「な、なんか、雰囲気が柔らかくなったというか……」
と控えめな声で言うと頬を赤くしていた。
「そうですかね……」
眼鏡をスッと上げ、ビールをもう一口飲む。
そんなことを言われて、悪い気はしなかった。
笛未子は以前よりも心が少し軽くなった気がしていた。
女性を軽視するような記事やニュースを見ると、頭に血が上ることは今もある。
もちろん男性に対する偏見もまだ残っている。
しかし、以前ほどの嫌悪感がないことを確実に実感していた。
***
飲み会も終わり、駅のホームで電車を待つ笛未子。
ほんのり酔った顔に夜風が当たり心地良かった。
笛未子は何気なく夜空を見上げた。
星はあまり見えなかったが、
綺麗に湾曲した三日月が輝いていた。
「見方を変えれば、か…… 」
笛未子がわずかに微笑むと、
ホームに電車が入ってくるアナウンスが流れた。
さあ、明日も頑張らないと。
彼女は小さく息を吸い込み、電車へ乗り込んだ。
その背筋は、数日前よりも少しだけまっすぐに伸びていた。
(終)




