13 笛未子と手作りクッキー
女は手すりに掴まり、電車の揺れに身を任せていた。ぼんやりと眺めるのはスマホの画面。
右肩に提げる鞄は、本などの重い物が入ってるのだろうか、若干肩が下がり気味であった。
すでに陽も落ち、車窓から見えるのはビルや建物、そして家々の灯りだけ。
画面はSNS『Zet』のタイムライン。
次から次へと、映し出される画面にはアルゴリズムにより最適化された、絶え間ない性別の対立と、誰かを糾弾する鋭い言葉ばかり。
スクロールしていくと、目の前に飛び込んできた一枚のイラスト。
それはとある温泉地のイメージキャラクターだった。
可愛らしい女性キャラクターが浴衣を羽織り、体をくねらせている。
一見、何ら変哲もないただのイラストのようだが、女にとっては怒髪天を衝くようなものだった。
「また、性懲りもなくこんなものを……これだから男は……!」
女は心の中で毒づいた。
『Zet』ではすでに「性的だ!」「いや、ただの絵だろ!」などのいくつもの批判や擁護が、幾重にも重なり合っていた。
女は慣れた手つきで『Zet』に書き込みを始めた。それはもはや脊髄反射に近かった。
指の動きはまるで精密なロボットそのもの。
(見方を変えれば、別の世界が見えてくる…… )
急に脳裏に浮かんだのは、昨日ある女から言われた言葉。
それを思い出すと、電源を切られたかのように指が止まる。
「……くっ!」
女はかぶりを振って奥歯を噛み締めた。
小さく舌打ちすると、書きかけの文章を削除してしまっていた。
女の名は下野笛未子。年齢は30代半ば独身。
職業は城東大学の社会学講師。
昨日、“あの男”を断罪するべく、家にまで突撃したが、あっさりと陥落し逃げ帰ってきた。
いや、彼女から言わせれば戦略的撤退……だったらしい。
ともかくあれ以来、書き込もうとしても何度も指を止めてしまう。
私は間違っていないのに。そう言い聞かせても、それを嘲笑うかのように、忌々しいあの女の台詞、あの家の温かさがそれを塗り潰すのだ。
そんなやり取りが脳内でひしめき合っていた。
スマホの画面を見つめていると、最寄り駅に到着する車内アナウンスが流れた。
笛未子は息をつき、画面を閉じてスマホを鞄にしまった。
***
改札を抜け、笛未子は夕飯を買うため駅前にあるスーパーへ足を向けた。
買い物客で混み合っている店内、目指したのはお惣菜の弁当コーナー。
色とりどりのお弁当が並べられていたが、どれも食べたことがあるばかりのいつものメニュー。
彼女にとって食べ飽きたなどということはなく、腹を満たせばそれで良かった。
少なくとも昨日までは。
不意に昨日食べた手作りクッキーの味が口の中に蘇った。
(あれ、すごく美味しかったな……)
ダイニングに差し込む柔らかな陽射しが観葉植物の小さな鉢を照らす。
整えられた台所、汚れが一つもないダイニングテーブル。
紅茶の香りが鼻に抜け、甘さ控えめの香ばしいクッキー。
そんなことを思い出したら、毎日弁当を食べる自分が急に惨めに思えてきた。
弁当コーナーを背に店内を一周し始めた笛未子は、以前買った2キロの米がまだ残っていることを思い出した。
スマホを取り出し「料理 初心者」と検索してみると、目に留まったのは野菜炒め。
肉と野菜を炒めるだけ、これなら自分にも作れるかもしれない。
カット野菜と豚のこま切れ肉、そのほかに日用品を買って店を後にした。
***
家に着くと、笛未子はすぐにお米を研ぎ、炊飯器にセットした。
ご飯が炊きあがるまでに、スマホのレシピを見ながら野菜炒めを作り始める。
フライパンにサラダ油を引いて、豚肉をサッと炒めると、お肉の焼ける香ばしい匂いが台所に広がった。
豚肉を取り出し、次に野菜がしなるまで炒めて、肉を再び入れ味付けをする。
塩とコショウだけの素っ気ないものだ。
けど自分で作ったことに、どことなく達成感があった。
作った夕飯をテーブルに並べていると、スマホがピロンと鳴り、手に取ると『Zet』の通知だった。
アプリを立ち上げると、さきほどの温泉地イメージキャラクターの関連スレッドがまだ盛り上がっていた。
スクロールしていくと、あるリプで手を止めた。
それは絵師本人による書き込みだった。
『私(女)が好きで描いたものですが、何か問題ありますか?』
笛未子は目を見開いた。
え?女の人が描いてたの?
しかも好きで……
それを勝手に男の手によるものだと、決めつけて私は断じようとしていた。
まるで潮が引くような思いだった。
「あっ!」
笛未子は何かを思い出したように、過去に自分がノート(投稿)したものを遡った。
それは例の女子マネージャー反対の件。
さらにリプライではこう書かれていた。
『私は女子マネ好きでやってる。選手じゃないけど、部活楽しいよ』
この子も好きでやってる。
そういえば、あのメイドも同じこと言っていた。
(わたくしは愛するご主人様のため、自ら望んで仕えてるのです)
なんて私は滑稽なのだろう。
女性を救おうとあれほど必死だったのに、その女性に対して鉄槌を下そうだなんて。
笛未子はなんだか自分を笑いたい気分になり、肩を落とした。
笛未子はこれまでも同じようなコメントを数多く見てきたはずだが、過去の自分なら目にも留めずにいただろう。
しかし、当事者のコメントが、メイド・ニアとの出会いによって目に入るようになったと思い始めた。
これまでは怒りしか頭になかった……
でも、やっぱり性的なものはダメよ。これだけは譲れない。
はぁ、とため息をついたら、目の前の野菜炒めが目に入った。
湯気が立ってなんだか美味しそうだ。
考えてもしょうがないかと、箸を取って食べ始める。
野菜炒めを口に入れると、
「ん? なんか微妙に薄い……塩コショウが足りなかったのかな……」
笛未子は思わず、頭の中であの完璧なクッキーと比べてしまっていた。
それはあのメイドに対しての対抗心だろう。
スマホを手に取り、もう一度レシピを見てみた。
「次はちゃんとタレを作ってみるか……」
そんな独り言を呟くと、再び箸を進めた。
カーテンの向こうは夜の帳が下り、
遠くで電車の音が聞こえてきた。




