12 笛未子とニア
わずかに手を震わせていた。
まだ先ほどの騒動が脳裏に蘇る。
慶とリオは過激フェミおばさんこと笛未子の様子を固唾をのんで窺っていた。
また、いつ暴れ出すかわからない。
もし、凶器なんて持っていたらと思うと、手に汗が滲んだ。
慶は笛未子の虚な目を見て、昔近所で見た「迷い猫」を思い出した。
公園の隅で、通りかかる人々に威嚇し、誰の助けも拒むように背を丸めていた黒猫。
だがその瞳は、怒りではなく、誰かに見つけてほしいという絶望的な飢えで濁っていた。
今の彼女の目は、あの時、慶と幼い義妹リオが差し出したパンの耳にさえ牙を剥いた、追い詰められたあの黒猫と同じように見えた。
けれど、紅茶の香りがダイニングを包み込むと、
笛未子はピクリとわずかに瞳が動いたのを、慶は見逃さなかった。
「さぁ、せっかく淹れた紅茶が冷めてしまいますわ。遠慮せずに飲んでください」
ニアは微笑みながら笛未子に紅茶を勧める。
しかし瞳の奥には鋭さが光っていた。
獣が獲物を狙っているような眼光だった。
笛未子はずり下がった眼鏡を上げると、ゆっくりとティーカップを持って一口飲んだ。
「はぁ」という息が漏れ、さっきまでの血走っていた目も、少し落ち着きを取り戻したかのように見えた。
ニアはそんな彼女を見て、
「お茶菓子もありますのでお召し上がりください」
と笛未子の前に手作りのクッキーを差し出す。
まるで薬を処方する医師のような振る舞いで。
笛未子は遠慮がちにクッキーを手に取ると、ほんの少しの間クッキーを見つめ、サクッと音を立てて齧った。
食べた瞬間、甘さと香ばしさが口の中に広がる様子が慶にまで伝わった。
「美味しい……」
彼女は聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
これまで食べてきたコンビニ弁当や、独りで食べる冷たい食事の虚しさが脳裏をよぎる。
ニアはそれを確認すると、
「ご主人様、リオさんもどうぞ召し上がってください」
皿に取り分けたクッキーを慶とリオの前に置いた。
ニアは笛未子をあくまで「ゲスト」として扱った。
最初に紅茶とクッキーを出し、飲食を確認してから慶とリオに勧める。
それは「あなたは大切なお客様です」と言わんばかりだった。
笛未子がティーカップを見つめながら、重い口を開いた。
「……ご、ご主人様というのは……あなたはこの家のお手伝いさん…?」
目を伏せたままポツリと呟く。
「はい、そうですわ」
ニアはふんわりと穏やかに答える。
「……そ、それって義務ですか? それとも強制? もしかしたら……何か弱みとか握られて……」
笛未子は顔を上げ、ニアを見つめながら恐る恐る尋ねた。
「いいえ、義務でも強制でもありません。
わたくしは愛するご主人様のため、自ら望んで仕えてるのです」
ニアは聞いているこちらが恥ずかしくなるようなことを堂々と言ってのけた。
「あ、愛する人のため……自ら望んで……」
笛未子は呆然とした顔でニアを見た。
「はい、この家にいる女性たちは、ご主人様を愛しています。
ですからそこに強制はなく、全員が自分で望んでご主人様のそばにいるのです」
「そ、そんなことって……いえ、そんなはずない。女性は男から搾取される被害者なんだから!」
笛未子はこれまでも活動の中で、男に蔑まされ、搾取され続けた女性を沢山見てきたのだ。
そんな疑いの目でニアを見つめた。
「物事を一つの方向から見ていては、確かに、それしか見えません。
ですが、見方を少し変えてみるだけで、違った世界が見えてくるものですわ」
ニアは全く臆することなく、落ち着き払った様子だった。
それは生徒に教える教師の口ぶりのように。
「見方を変える……」
笛未子はポツリと呟き、押し黙ってしまった。
やがて震える声を絞り出す。
「み、見方を変えるですって?
あなたはそうやって飼い慣らされているだけよ」
笛未子はティーカップをガタリと鳴らして立ち上がった。
ニアの穏やかな微笑みが、彼女には自分を憐れむ嘲笑に見えたのだ。
「私は認めない……
女が男に媚びることが幸せだなんて、そんなの……!
私はそんなこと絶対に認めないわ!」
彼女は吐き捨てるように言うと、震える手でバッグを掴み、逃げるようにダイニングを出て行った。
玄関へ向かう笛未子の背中に、リオが追いかけるように声をかける。
「おばさん!
あたしはね、好きで短いスカート履いてるの! わかる?
媚びてるんじゃない、好きでそうしてるだけ」
笛未子は足を止めた。
その背中がわずかに強張る。
「……勝手になさい。後悔しても知らないわ」
捨て台詞は弱々しく、そこには先ほどのような勢いはなかった。
笛未子は靴を履くと振り返る。リオの方を向くが目線を泳がせたまま、気まずそうな声で呟いた。
「と、とにかく……
さっきは乱暴してしまって、申し訳なかったわ……」
「えっ!? あー、だ、大丈夫だけど…… 」
リオは構えたが、笛未子の姿を見て拍子抜けしてしまった。
玄関に手をかけ、もう一度振り返る笛未子は、リオの後ろに立つ慶を見つめる。
一瞬、二人の視線がぶつかった。
慶はキョトンとした顔で首を傾げただけだったが、笛未子は何かを誤魔化すように眼鏡を指で押し上げた。
その頬はうっすら赤かった。
いたたまれない様子で笛未子は玄関を開け、足早に立ち去った。
そんな彼女を見送る三人。
その後ろ姿は小さく、ここで暴れた姿とは大違いだった。
扉が閉まった後、
「行っちゃったけど……よかったのか?」
慶が呟く。
隣に立つニアが静かに言った。
「あれでいいんですよ。
彼女が今日食べたクッキーの甘さと、わたくしたちのこの『不快なほどに幸せな空気』は、彼女の心に消えない澱として残ります。
否定すればするほど、彼女は自分自身の孤独と向き合うことになるでしょう」
「ふーん、そんなもんかねぇ……
って、そういや警察来るの遅くねぇか?」
慶はスマホを取り出し時間を確認した。
ニアは澄まし顔で答える。
「最初から通報などしておりません。
あの場を収めるためにそう見せかけただけですわ」
ニアが警察を呼ばなかったのは単なる慈悲ではない。
あの女を警察に突き出したところで、逆恨みされることは目に見えていた。
それよりも、この幸福な光景を見せつけて『価値観を破壊する』方が、この家にとって安全であると判断したまでであった。
完全にニアのターン。
あの状況は彼女が作り上げた演出であり、
「ニア劇場」そのものであった。
「え!? そうなの……気づかなかったわ……
けど、ニアすげぇな、あの状況で落ち着き払ってさ」
ニアを見て慶は感嘆の声を上げる。
「人心掌握術を少し心得ているだけですわ」
「え? 人心掌握……サラリと怖いこと言うね……」
「それに……
もしもの時はご主人様が助けてくださると信じておりましたので」
イタズラっぽくニアが微笑んだ。
「え? もしもの時って……俺動けたか自信ないわ……」
慶はゾッと首筋が冷え、思わずうなじを撫でてしまった。
「にーにはあたしが助けるから安心して!」
リオが胸を張って答える。なんとも頼もしい妹君である。
「ふふ、でも残念ですわ。
せっかくご主人様とお出かけできると思ってたのに」
ニアは妖しく微笑んだ。
「えっ?二人でどこ行こうとしてたの?」
リオが食い気味に慶の腕を掴んで、聞いてきた。
「いや、ただの買い物だよ、食料品の……」
「そのあとお茶もする予定でした。
ご主人様がご馳走してくださるらしく」
ニアがすかさず言う。
「にーにの奢りなの!?
じゃあたしも行きたい! スタバ行きたい!」
「ではご主人様、参りましょう」
そう言うとニアはそっと慶の腕に手を回した。
「ちょっと待ってて!
着替えてくるから!!」
リオはドタバタと二階へ駆け上がった。
慶はやれやれとリオの背中を見てため息をついた。
そしてニアと顔を見合わせ、笑った。
カーテンからは柔らかい陽射しが差し込み、
遠くから学校帰りの子供たちの声が聞こえてきた。




