11 笛未子と上杉家
その日、慶は有休消化の目的で休みを取っていた。
彼が朝9時過ぎごろまで寝ていると、廊下で掃除機をかけていたニアが手を止め、慶に声を掛けた。
「休みだからといって、あまり遅くまで寝ていると夜眠れなくなりますよ」
目を覚ますと、目の前には腰に手を当てたニアが、いつまで寝ているのですか?という顔つきで立っていた。
「う〜ん、もう少し」呻き声を上げる慶に、「洗濯しますので」そう言ってニアは容赦なくシーツを引き剥がした。
眠い目を擦りながら、慶はふらふらと部屋を出て階下に降りていく。
そんな慶の後ろ姿を見て微笑むニアだった。
リオは高校へ、アキラとサーシャたちは大学へ行っているため、家の中は静かなものだった。
顔を洗い終わった慶がダイニングへ向かうと、
「起きるのが遅いから大したものはありませんからね」
ツンとした表情のニアはそう言うが、ご飯、味噌汁、焼き魚、オマケにお新香まで添えて彼の前に出した。
慶がそれを美味しそうに平らげる姿を見て満足げなニアは、完璧なタイミングで緑茶の入った湯呑みを差し出す。
慶がそれを飲んで息をつく。
二人にとってはこれが当たり前の日常であった。
ニアはたまにしかない慶との二人きりの時間に浸っているようで、その姿はどこか弾んでいるように見えた。
昼下がりの1時過ぎ。
慶はニアが作ったパスタに舌鼓を打った後、自室に戻り、PCの電源を入れて机に座った。
動画を観たり、まとめサイトなどを見て、穏やかな午後をダラダラと過ごした。
『スーパーのレジが女性ばかりなのは、家事労働の延長を強いる差別だ!』
『妻が夫に手料理を振る舞うのは、日本の男が自立できていない証拠』
『対等な力関係がない中での「合意」は、実質的な脅迫だ!』
いつもは笑い飛ばしたスレッドも、ここ数日やけにツイフェミが出てくるので、慶は眉をひそめた。
なんでもかんでも差別だの、性的だのって、この人たちも疲れないのかねぇ。
そんな独り言を言って、慶は大きな身体を伸ばし、あくびをした。
すると、コンコンというノックと共にニアが顔を出す。
「ご主人様、わたくし買い物へ参りますので、お留守番よろしくお願いします」
ニアは優雅にお辞儀をする。
慶は、「うん」と軽く返事をしたが、今日はだらけ過ぎたし、気分転換に一緒に行こうかなと考えた。
「あっ、俺も一緒に行くよ。荷物持ち必要だろ?」
椅子から立ち上がった。
「わかりました、お願いします。玄関でお待ちしております」
メイド服の裾を華麗に持ち上げるニアは、凛としていたが、どことなく嬉しそうな表情を浮かべていた。
慶が着替えて玄関でニアを待っていると、彼女は外出用の涼しげな色の半袖ワンピースに着替えて現れた。
見慣れない私服姿は気品があり、いつもは纏め上げた髪の毛も下ろし、ハーフアップにした髪型は艶やかで、際立つ顔立ちに慶は一瞬言葉を失った。
「そういや、ニアと二人で出かけるのなんて久しぶりだな」
「ふふ、そうですわね」
ニアが柔らかい笑顔を慶に向ける。
「たまには、帰りお茶でもするか?」
そんなことを言いながら靴を履いていると――
「きゃーーっ! 離してよ!!」
突如、外から悲鳴が上がった。
ドアを慌てて開けると、玄関前で学校帰りのリオが中年のおばさんと揉み合いになっていた。
おばさんの手がリオの短い制服のスカートを掴み、白い太ももが露わになっている。
慶はすぐにおばさんを後ろから引き剥がした。
「落ち着いてください!」
暴れないように羽交い締めにする。
「女性がそんなに短いスカートを履くなど不潔です! 今すぐズボンを履きなさい!!」
血走った目を見開き、大声を上げるおばさんこと笛未子。
「何言ってんのよ! こっちは好きで履いてんだから!」
リオも負けずに声を張り上げた。
騒ぎを聞きつけ、通行人も立ち止まる。
中にはスマホを向ける者までいた。
こんな姿をネットにアップされては敵わんと、慶は一瞬顔を青ざめるが、笛未子は眼鏡をずり下げながら、ここぞとばかりに通行人に向かって喚き散らした。
「この家は不当に女性をこき使い、性的搾取の温床です!この腕を離しなさい!!」
女とは思えない力で暴れる笛未子を、慶は必死に抑えつけるのがやっとだった。
「ニアぁ! 警察呼べぇ!!」
慶がそう叫ぶと、ニアはすでにスマホを取り出して冷静な面持ちで電話していた。
その目は氷の矢のように鋭かった。
ニアは電話をし終わると、笛未子に低い声で告げる。
「すぐに警察が来て貴女を引き渡します。貴女はそのまま警察署へ同行いただきますので」
笛未子はそれを聞いた途端、身体の力が抜け、うなだれた。
それは慶が拍子抜けしてしまうほど、あっさりと抵抗をやめたのだ。
まるで糸の切れた操り人形のように。
「私は間違っていない。男は悪、男は犯罪者…… ぶつぶつ…… 」
顔を青ざめた笛未子は、壊れた機械のようにぶつぶつ呟いていた。
ニアは彼女のそんな様子を一瞥し、通行人に向かって「お騒がせしました」と凛とした立ち振る舞いで華麗にお辞儀をする。
通行人たちはニアのそんな姿を見ると、自然とはけていった。
ニアは振り返り、慶に言う。
「ご主人様、外では目立ちますので家の中に入りましょう」
「ええっ!? でも、 そんなん大丈夫かよ?」
慶は笛未子の様子を窺いつつ、ニアを見た。
「もう大丈夫かと思います」
ニアとリオの顔を交互に見て、慶は笛未子から腕をそっと離した。
「リオさんもお家へ入りましょう。さぁ、あなたも」
ニアは笛未子にも家へ入るよう促した。
笛未子は言われるがまま、慶たちと共に玄関をくぐった。それは彼女にとって悪の巣窟へ踏み入れるのと同じことであった。
「にーに、この人って前にうちに来た人じゃない?」
「ああ、それにコスイベでも暴れてた人だよ」
慶はリオにそっと耳打ちした。
「えー!? そんな人家に入れて大丈夫なの?」
リオは心配そうな顔で見上げる。
「前に来たときとは随分様子が違います。もう大丈夫ですよ」
ニアが振り返り、穏やかに言う。
そうなの? と兄妹二人は顔を見合わせた。
「ささ、お茶でも飲んで落ち着きましょう」
ニアは慶とリオ、そして過激フェミおばさんこと笛未子をダイニングへ通し、椅子に座らせ、すぐにお茶の用意を始めた。
彼女が淹れる紅茶の香りが部屋中に広がり、先ほどの騒ぎが嘘のように思えてきた。
ニアはまるで母のような存在感で、全員にティーポットからカップへ紅茶を注ぐ。
そんな彼女の堂々とした姿勢は、この場を完全に支配しているような雰囲気を漂わせていた。




