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10 笛未子と原点回帰

男はコンビニ袋をぶら下げて帰宅中だった。

Tシャツにハーフパンツ。サンダルをつっかけ、乾いた音だけがアスファルトに響く。

夏の暑い陽射しが男を照らし、少し薄くなった額に汗を浮かべていた。


Q.何を買われたんですか?


「ああ? 発泡酒とツマミを少しだよ」


――ぶっきらぼうに話すこの男は、50代サラリーマン。

休日のささやかな楽しみは、昼間から酒を煽り、サブスクの海外ドラマを観ること。

自宅は駅から徒歩10分の木造二階建てアパートの2階。

錆びた鉄階段を上ると、ギィギィと軋んだ。


Q.結構古いアパートですね。


「そうなんだよ、壁も薄いしよ。隣の声なんて丸聞こえだよ」


ため息交じりに話すこの男の最近の悩みは、隣に住む30代くらいの女性が、平日の夜や休日に、むやみやたらと奇声を上げることらしい。

大声を上げるたびに壁を叩いて抗議するのだが、全く効果がないようだ。


「あっ! 悩みもうひとつあったわ」


男が不意に足を止め、振り返った。


「4月に異動してきた”上杉”って隣の席の若僧が、たまに持ってくる弁当ってのが、明らかに女の手作りでよ。それを見るたびに、離婚した“あいつ”を思い出すってことぐらいかなぁ…… 」


そんなことを口走り、男は遠くの方に目を向けた。

見つめた先には真っ青な夏の空が広がり、巨大な入道雲ができていた。


Q.隣の席の上杉さんのお弁当、母親のかもしれませんよ?


「ああ? そんなわけねぇよ。あの栄養を考えたおかず、彩り、それとハートマークのなにか…… ありゃ若い娘に違えねぇ…… 。つーか早く帰れ! 俺は今から『ブレイキング・バッドエンド』観るんだよ」


「じゃあな」と言う男に、別れ際、

奥さんと復縁できるといいですね、と余計な一言を言ってあげたら、「ほっとけ!」と少し照れた様子で部屋の中に入って行った。


***


――講演会から数日後。


昼間だというのに、締め切ったカーテン。

畳の上には、弁当やカップ麺の空の容器がいくつも積まれている。

雑誌やフェミニズムに関するプリントも散乱していた。


テーブルの上にはノートパソコンとスマホを並べ、無機質な青白い光だけが笛未子を優しく包み込んでいた。


『スーパーのレジが女性ばかりなのは、家事労働の延長を強いる差別だ!』


『妻が夫に手料理を振る舞うのは、日本の男が自立できていない証拠』


「んん?車内で未成年の女子と性的行為ですって!? まぁぁぁ!許せないわぁ!」


素早い手つきで、引用ノート(再投稿)をSNS『Zet』に書き込み、投下した。


『対等な力関係がない中での「合意」は、実質的な脅迫だ!』


笛未子は師・前原千鶴子による“修正パッチ”が施され、

再び狂戦士としてSNSという戦場で、形なき見えない敵と闘っていたのだ。


いくつも投稿されたノートは“いいね”やリプライの通知が止まらなかった。

フェミニスト仲間のグループLINEでも、「さすが笛未子さん!」と称賛の嵐だった。


「世の中の女性はみんな被害者よ!自ら望んで男に寄り添う女なんているわけないわ!」


笛未子は唾を撒き散らし声を上げた。


「ふぅ、それにしてもお腹が空いたわ」


そう言って笛未子は冷蔵庫を開けるが、調味料しか見当たらなかった。

仕方がないので水道水をコップで2杯飲んで腹の足しにした。


手の甲で口を拭うと、ふと目に入ったのは数日前から使われていないコンロの上に置かれたフライパン。

些細なことから始めた料理。

新しい発見もあり、お腹だけじゃなく、胸の奥も満たされたことを思い出す。


「だ、誰が料理なんてするもんですか! 男に媚びる行為だわ!」


顔を背けるが、頭の中にはあのスーパーで見かけた、幸せそうな若い女の笑顔が焼きついている。

「それだけで幸せやねん」——あのとき耳にした声が、今も離れない。


「だめよ!笛未子!」


雑念を振り払うように何度もかぶりを振る。


スマホを手に取り『Zet』を開いた。


「どこかに性的搾取はないかしら……」


一心不乱に次々とスワイプしていく。

ふと目に留まったのは秋葉原駅前の画像。

画面にはメイド服姿をした若い女性たちがチラシを配っていた。


「メイド服……? メイド……何か忘れているような……」


笛未子は台所のシンクに手をつき、何かを必死に思い出そうとした。


「あっ!そうだわ! メイドをこき使うあの家よ!!」


スマホの画面に鋭い視線を投げつけ、持つ手が震えた。


「“あの男”から彼女たちを救うのが私の使命!!」


笛未子は顔を上げ、ますます険しい顔になった。

その顔は、まるで復讐者そのもの。


「よし!」と気合を入れ、台所から居間に戻ろうとした時。

ガンッ!と足の小指を襖の端にぶつけた。


「あっ痛ッタァァァァ!!」


けたたましい悲鳴が部屋中にこだますると、それに応えるかのように隣の部屋から

「うるせー!」と壁を何度も叩く音が響いた。


笛未子は足の指を押さえながら呟いた。


「うるさいのはアンタよ、この犯罪者予備……あぁ、痛い……!」


笛未子はその場でうずくまることしかできなかったのだった。

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