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9 笛未子と千鶴子

都内某所。


――夏の湿った空気の中、その講堂は異様な熱気に包まれていた。


その日開かれるのは、フェミニスト界の重鎮にして日本の女性社会学の第一人者「前原千鶴子」の新刊発売記念講演。

千鶴子は『おひとり様よ。』でベストセラーを記録し、攻撃的フェミニズム学者として「おひとり様のカリスマ」とまで呼ばれた。

「夫婦なんて百害あって一利なし、人間死ぬときは一人」という彼女の鋭い言葉に、多くの女性が胸を打たれ、絶大な人気を誇っていた。


その講演会場へ、笛未子も電車に揺られて向かっていた。だが今日の彼女は、いつものような昂揚感がなかった。


新刊『男だっておひとり様よ。』を初めて読んだとき、胸が弾み「さすが千鶴子先生だ」と思った。

だが最近の出来事――あの男や、彼を取り巻く女性たちとの出会いを経て読み返すと、その文章は別の色を帯びて見えてしまう。


男性が弱さを認められない不自由さを、あざ笑うかのように「オス特有の病気」と容赦ない断定的な文に、笛未子は違和感を覚え始めていた。

しかも、書いた本人がずっと前から入籍していた事実が週刊誌に暴かれた。


「おひとり様」を推奨し続けたカリスマが、ひそかに結婚していた――

その裏切りのようなニュースが、彼女の胸を締めつけていた。


講堂の大ホールに入ると、ほとんどは中年・年配女性で埋め尽くされ、所々に若い女性や男性もいた。

前方には演壇、背後には大きなスクリーン。


照明が落ち、拍手が鳴りやむと、千鶴子が壇上に現れた。

78歳とは思えぬシャキッとした姿勢、艶のある白髪、よく通る声。


「――女にとって夫の死は『解放』に過ぎませんが、男にとって妻の死は『生活能力の全喪失』です。身の回りの世話から心の拠り所まで、すべてを女性に丸投げしてきた報いを、彼らはその孤独で支払うことになるのです」


鋭い声が講堂を支配し、メモを取る音だけがかすかに響いた。


「さぁ皆さん。所有を捨て、身軽になりましょう。そして孤独という名の自由を抱きしめなさい。

私たちは、何も持たずに生まれ、何も持たずに去るのです。それが本当の意味での、おひとり様の矜持ではありませんか」


会場は拍手喝采だった。


笛未子も本を胸に抱えて一生懸命聞いていた。

が、「何も持つな」と言っている先生が、都心の超高層タワーマンションに住み、高級車を乗り回してることは有名な話であり、以前から知っていたはずなのに、今回はどこか冷めた気持ちで聞いていた。


講演終了後、笛未子は胸に本を抱えたまま、スタッフの誘導で控室前の廊下に立っていた。

敬愛する先生に久しぶりに会えるというに、心は鉛のように重たかった。


しかし、


「先生に会って、確かめなきゃ……」


小さくつぶやき、鞄を握る手に力を込める。


コンコン、とドアをノックすると「どうぞ」という声がした。

ドアを開けると、控室には千鶴子が座っており、横には秘書らしき女性がメモを取っていた。


千鶴子は笛未子の顔を見るなり立ち上がり、手を差し出した。


「笛未子、久しぶりだね!元気だったかい?あんたのノート(投稿)いつも見てるよ」


80歳間近とは思えぬほどのエネルギッシュな笑顔。


「ありがとうございます。おかげさまで……」


伏し目がちに答える笛未子。


「それで、話ってなんだい? 私は忙しいからね」


お茶をすすりながら、千鶴子は用件を促した。


笛未子は椅子に座り、呼吸を整える。


「あ、あの……これまで男は悪と思って活動を続けてきました……でも最近、それが本当に正しいのかわからず迷っております」


目線を落とし、唇をかみしめながら説明した。


「ふーん、それで?」


千鶴子は微動だにせず、ジーっと笛未子を見つめる。


「は、はい……そ、それで……その……私も男性を、その、好きになって良いのか……でも先生も……結婚していたと……」


バンッ!


突如、千鶴子は手元の本を机に叩きつけた。

控室にこだまする乾いた音。


「笛未子! あんたの話、私が結婚していることになんか関係あるのか?」


その鋭い視線は、笛未子の胸を突き刺すようだった。


「ひぃぃ!?い、いえ、関係ありません……」


笛未子の声は震え、肩は小刻みに揺れた。


「あんたね! 若いとき男にどんな扱いをされたか忘れたのかい! 男は敵なんだろ!!」


本当に高齢なのかと疑ってしまうほどの怒号。

室内の空気が震え、秘書のペンが止まった。


「い、いえ……け、決して忘れているわけでは……」


笛未子は縮こまり、目尻に涙が溜まる。


「だったら今後もその通りに生きなさいよ!

一人でさ! それがお前の選んだ人生なんだろぉ!!」


さらに畳みかけるように怒鳴る千鶴子。


「は、はい! わかりました!」


笛未子は懸命に声を振り絞った。


千鶴子はフンと鼻を鳴らし、手を出した。


「その本、寄こしな」


笛未子が胸に抱えていた新刊を受け取ると、千鶴子は表紙の裏にサラサラとサインを書き、無造作に返した。

「ほら、もうお帰り」


笛未子は立ち上がり、「ありがとうございます」と深々とお辞儀して控室を出た。


廊下に出ると冷たい空調の風が頬を撫でたが、胸の奥は灼けるように熱かった。


「男は悪、男は犯罪者……」


自分に呪文をかけるように呟きながら、会場の出口へ向かう。


(私が間違っていた、男を好きになるなんて馬鹿げたこと……)


胸に抱いた本を持つ手に力が入る。


最近の笛未子はけんが取れ始め、いささか穏やかな顔になっていたが、また険しい顔に戻りつつあった。

だが、瞳の奥はわずかに揺らいでいた。


あの男のこと、その周りにいる女たちの笑顔が忘れられずにいた。


会場を出て、灰色の空を見上げる。


「うわあぁぁぁぁ!!」


悲痛にも似た叫び声が吐き出され、曇り空に虚しく吸い込まれていった。


その声に何人かの来場者が振り返るが、笛未子は涙を拭き、本を鞄にしまい、そのまま歩き出した。


彼女の背後で雲が低く垂れ込め、雷鳴が遠くで小さく鳴っていた。

空はまるで笛未子の心のように、暗雲が立ち込めていた。

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