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1 笛未子とメイド

東京・下町。八月の夜8時ごろ。


その日、下野笛未子しもつけふみこは雨が滴る中、傘と自作のチラシの束を手に、一軒一軒聞き込みを行っていた。


年の頃は30代半ばだろうか。

身にまとう紺のパンツスーツは、骨ばった痩せ型の体型には若干不釣り合いで、着ているというより、着せられているように見えた。

手に持つチラシは端を湿らせ、印刷された文字もところどころ滲んでいた。

踵がすり減ったパンプスは雨が沁み、足の指先をじんわり濡らしている。


「あぁ、それならあの家じゃないかしら?」


ふっくらとした中年女性が指差すのは、道路を挟んだ斜向かいの家だった。

聞き込みを開始して、ちょうど1時間ほどが経過していた。


笛未子は鼻を啜り、ずり下がった黒縁の眼鏡のブリッジを指の腹で持ち上げた。

少し神経質そうなその仕草は、もはや“癖”に近かった。


「ありがとうございます。夜分遅く失礼しました」


笛未子は中年女性に頭を下げると、傘を差し、その家に向かって歩き出した。


街灯が照らす目的の家は、周りと見比べれば少しだけ大きめで、今どきのデザインというよりは和風。

悪く言えば古臭く、建物自体は年季が入っているように見えた。

それでも外から見ると小綺麗に映るのは、管理がしっかり行き届いている証拠だろう。


「ちっ、どうせこの家のことも“女”にやらせているんだわ」


そんなことを口ずさみ、家を見上げて小さく舌打ちをした。

ほんのわずかにくしゃりと音を立てたチラシを胸に抱えて。


首を伸ばし、門塀の向こう側を覗き込んだ笛未子は、何かを見つけて目を細めた。

ちょこんと軒先に置かれた朝顔の鉢植えだった。


「朝顔……花言葉は“愛情”……ふーん、女を囲って愛情とは聞いて呆れるわ」


次に門柱の前に移動すると、門灯に照らされ、暗闇に浮かび上がる表札を睨みつけた。

磨き上げられた石の表札には、黒字で『上杉』と彫ってあった。


「上杉か……フンっ。いかにも家父長制の権化のような名前ね」


鼻を鳴らし、ためらいもなくインターホンを押した。


すぐに若い女性の声で「はい」と応答があった。


「わたくし、城東大学で社会学の講師をしております下野笛未子と申します。

『地域社会における女性の在り方について』というアンケートをしております。

失礼ですが、玄関を開けていただけないでしょうか」


「はい?」


くぐもった怪訝そうな声が、インターホン越しに聞こえ、「こんな時間にですか?」と警戒心が三段階くらい跳ね上がった。


「はい、一軒ずつ回っていたら、この時間になってしまいました。

申し訳ありませんが、簡単なアンケートなので是非ご協力お願いします」


インターホンはしばらく黙ったままだったが、


「はぁ、少々お待ちください」


と返ってきた。


30秒ほどすると玄関の扉が開き、声の印象どおり、20代前半くらいの若い女性が顔を出した。


その姿に、笛未子は思わず息を呑んだ。


女性の格好はいわゆるメイド服――。


といっても秋葉原界隈で見かけるスカートが短い、いわゆる“コスプレ”的なメイド服ではなく、貴族の家に仕えるようなロングスカートの本格的なメイド服だ。

しかもシワ一つなく、布地も上質そうで品があった。


髪の毛もしっかりまとめ上げられ、艶やかなうなじが覗いていた。

凛とした美しい佇まいは、さながらメイド長、もしくは女主人を思わせた。


「メイドとは何か?」と聞かれたら、きっと彼女をイメージしてしまうだろう。


「それでアンケートって?」


メイド姿の女性から発せられる、インターホン越しではない生の声は、透き通るような一本の芯のある声だった。


笛未子は、眼鏡をスッと上げた。


(やはり間違いない、この家だわ)


「夜分遅く失礼いたします。

改めましてわたくし、『有害男性から女性を守る会』の下野笛未子と申します」


女は眉をわずかに上げた。


「有害男性? あなたさっき大学講師って言いましたよね? 我が家はそういうの結構ですから」


すぐに扉を閉めようとしたが、笛未子はすかさず足を差し込み制止した。

女はその足を一瞥すると、笛未子に鋭い視線を向けた。


「そんな怖い顔しないでください。まずはわたくしの話を聞いていただけませんか? 大学講師は本当なんです」


首にぶら下げた大学の入館証をチラッと見せる。

確かに城東大学と書いてあった。


そして、手に持っていたチラシをメイド姿の女に手渡した。

チラシを受け取った女は、笛未子とチラシを交互に見比べ、訝しげな表情を浮かべた。


「このあたりに、若い女性を“メイド”にしてこき使う男が住んでいると聞きまして。

歩いて回っておりました。

見てください。ここに書かれていることを。貴女もそう思いますよね?」


手に持っていたチラシの、極太で書かれた文字を指差した。

そこにはまるで親の仇のようなことばかりが、つらつらと書かれていた。


・古来より女性は被害者、男は悪

・家父長制に終止符を

・女性を解放せよ

・家事、育児は男がやるべき

・スカートの着用禁止

・女性だけの街を作ろう


「……それで、どのようなご用件ですか?」


眉をひそめた女は、早くこの場を切り上げたい様子の表情をした。


「ですから――」


笛未子は口を開いた瞬間、メイド姿の女の肩越しに別の女が姿を現した。


「どうしたの? ニアさん」


メイド姿の女の影から出てきたのは、まだ17、8くらいの少女。

少し吊り上がった大きな瞳が、勝ち気な性格を思わせた。

Tシャツに短いスカート姿で、白い太ももを覗かせていた。


チラシの主張とは真逆の格好であり、笛未子は冷やかな目を向けた。


「えっ!? スカート禁止! なんで!?

意味わっかんない! 服とか制服ってさぁ、可愛いのがいいんじゃん!」


少女は目の前に苦手な食べ物を出されたかのように、眉間に皺を寄せた。


「おばさん! うちはさぁ、こういうの間に合ってるから。

ね、早く帰りなよ。こんな時間に迷惑だから」


少女は、ずいっとメイド姿の女の横で、早く帰れと言わんばかりに立ちはだかり、腕組みをした。


しかし、笛未子も黙ってはいなかった。

彼女に言わせれば、こんな年端もいかない“ケツの青いガキ”など、これまで何人も見てきたから扱いなどわかっている。そんな目だった。


(あぁ、この家の女性たちは男に言いくるめられているんだわ。なんて可哀想なのかしら)


「ふっ、わかっていないのは貴女の方よ、お嬢ちゃん。

この家はねぇ、女性が性搾取されているの。わかるかしら?」


「はぁ? 性搾取ぅ? 何言ってんの!」


「ですから、すぐに行政へ訴えねばなりません。

わたくしたちが声を上げれば、社会そのものが動くんです。

もう少しの辛抱です。

さぁ男を断罪しましょう」


「意味わかんないし!」


少女は目を吊り上げ、負けじと言い返す。


さて、笛未子と少女が、あれこれ言い合っている傍らで、二人を呆れた目で見ていたメイド姿のニアだが、落ち着きなくスマホと玄関の外を横目で気にし始めた。

しだいに固かった表情も、まるでプレゼントを心待ちにしている少女のような柔らかな顔つきに変わっていった。


そして、その答え合わせが、外の雨音に混じり、水を踏む足音と共にやってきた。


「ん? どうした?

ニアとリオ、二人で何してんの?」


虚をつかれた笛未子は、後ろを振り返った。


そこには180センチ以上はありそうな長身の男が立っていた。

白いワイシャツに広い肩幅。

袈裟懸けに下げた鞄。

そして額には汗を滲ませ、くたびれた様子。


年齢は20代後半くらいだろうか。

なかなかの好男子ではあったが、とても女を囲っているようには思えない優男であった。


「あっ、にーにおかえり」

「ご主人様、本日もお仕事お疲れ様でした」


しかし、メイドのニアと少女リオの目に映るこの男は、心惹かれる対象ということが、誰がどう見ても明らかだった。


「ん、ただいまぁ」


「え? うわっ、男!? 汚らわしいっ!」


笛未子はその男を見るや否や、叫びを上げた。

毒虫でも見つけたかのように体をのけぞらせ、勢い余って倒れかけそうになってしまった。


だが、男が咄嗟に笛未子の肩を支えると、ビクッと体が跳ねた。


「おっと、大丈夫ですか? 気をつけてください」


男の視線が笛未子を射抜き、心地よい低音のささやきが耳の奥に入り、そのまま脳に突き刺さった。


「……!? あわわわ……

ひ、ひゃい……大丈夫でしゅ……あっ!」


目をひん剥いて、顔を真っ赤にした笛未子は、言葉を噛んでしまい、思わず両手で口元を押さえた。

その拍子にチラシの束がバサッと玄関に広がった。


男は膝を折って拾い集め、笛未子に手渡す。


「それではごゆっくり」


なんてことを口にして、靴を脱ぎ、何事もなかったかのように家の中へ消えていった。


笛未子は足元がふらふらとして、シューズボックスに手をつく始末だった。


女たちは静まり返った。


「コホン!」


大きく咳払いをした笛未子は震える手つきで眼鏡を上げた。


「と、とにかくです。

この家のことについては、わたくしにお任せください。

それでは本日は失礼いたします」


サッと頭を下げると、回れ右をして、しとしとと雨が降る中、傘も差さずに足早にその家を後にした。


背中越しに「あのおばさん失礼しちゃうわ!」なんて声もしたが、笛未子の耳にはまったく入ってこなかった。

振り返らずに駅へ向かって一直線に、まさに無我夢中で歩いた。


(ち、違うわ! 決してあの男に揺さぶられたからじゃない!)


下町の住宅街には、雨と笛未子の早足だけがこだまする。


しばらく歩くと、街灯の下で立ち止まった。

息を切らして、後ろを振り返るが、目に入るのは家々の灯りだけ。

どこかの家から子供の笑い声が聞こえてきた。


先ほど掴まれた二の腕にそっと触れた。


「あの男……」


そう呟くと小さく、はぁと息を吐いた。

額には大粒の汗が光り、ポケットからハンカチを取り出し額を拭った。


あっ、カレーの匂い。

お腹空いたなぁなんて唐突なことが頭に浮かんだ。


そして、傘を広げ、再び住宅街の中を歩き出した。

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