第0話
私は葛城百花,たぶん27歳になった、元OL。
3年前まで、古いアパートの一室に独り住まいで、アイドルの追っかけだけを生きがいに働いていた。
それが今は、大草原に建つ洋風のお屋敷に暮らしている。
人生、何が起きるか分からないものだ。
「よし、今朝のご飯は完成」
薪コンロで火を熾すのも、井戸での水汲みももう随分と慣れた。きつね色に焼けたバゲットを食べやすい厚さにたくさん切り分け、お皿に山盛りにする。
「ルドーっ、ラーーン、マーーーシュ………」
呼んでから、はっとする。
「モカ」
苦笑しながら、銀髪に青い目の少年,ルドが台所にやってくる。
そうだった、彼らはもうこの家にいないのだった。
あれからそれなりに月日は経ったのだけど、ふと、まだあの黒眼黒髪のランと金髪翠眼のマーシュがいる気がしてしまう。
私が2人分にはちょっと多いパンと、炙ったお肉と野菜スープを、台所の隅に置いた丸テーブルに並べる。
窓の外、丘の下の街から狼煙が上がっているのが見える。また、魔獣が出たのか。
でも腹が減っては戦はできぬ。まずはご飯を食べよう。
ルドもちらりと狼煙を見て、だけど腰に吊るした剣を無造作に椅子に置いた。
こうやって剣を手放してくれるだけの信頼を勝ち得たことが私は嬉しい。
そして私とルドは一緒に食卓についた。
「いただきます」
「イタダキマス」
ルドは日本語,つまり私の言葉を少し覚えて、真似して使う。
ルドは豚肉のソテーに玉ねぎのソースをかけ、大きく口を開けて頬張っている。
最近はルドも食欲が戻ってきて一安心だ。
私はパンをちぎり、自分の皿の玉ねぎのソースを拭き取って食べた。
このソースはランに教わったもので、肉には塩胡椒派のマシューでさえもこのソースは気に入って食べていたっけ。
ルドは、紫色の果実のジャムをパンに塗ろうとして手を止め
「モカ。……ラン?」
もう残り少ないジャムの瓶を指して訊く。
ランと一緒に作ったジャムは、確かにそれが最後の一瓶だ。
俯いてしまうルドに、私はジャムの残りを綺麗に浚えて、彼のパンにたっぷり塗ってあげた。
マシューは2ヶ月前に殺され、ランも同時期に消息を絶った。
彼らはもうこの家に来ることはない。
今はまだこうやって日々のなかで時折思い出すけれど、やがては居ないことすら忘れていくのだろう。いつまでも過去を引きずってはいられない。
ルドと私は、これからも生きていくのだから。
この、異世界の片隅で。