第十三話 企業組合の知られていない目に見えぬ網。破滅の示唆
そんなときに、再びダンジョン・マスターがエレベーターボーイを呼び出してくる。
一体、今度は何だというのだ。
エレベーターボーイは忙しい人間であったし、企業組合に対する独立を考えている手前、マスターの前に出たくはなかった。
彼はエレベーターボーイの動作の微妙な差から、不審な空気を読み取ることなどできようか? 常人にはまず無理だ。だが、マスターはただ者ではあるまい。
それでも、だとしても逃げるのは、なおまずいような気がする。何も気取られないように用心するしかない。
エレベーターボーイは紙を手に入れ、ミミズのたくるような字の報告書と不機嫌そのものの顔を作り上げると、ダンジョンの真上の企業組合ビルのエレベーターに乗った。
眠そうな若い男が運転するエレベーターの籠の中、エレベーターは左右にゆっくりと目を走らせた。
質素な作りだ。
思うに、マスターはより高級の自分専用のエレベーターを持っているのだろう。だとしたら、そのシャフトはビルのどこにあるのだろう? エレベーターボーイはビルの間取りを頭に浮かべ、プロの分析力でもって、予測する。
その間に、エレベーターの籠は最上階へとたどり着く。
「見ろ、エレベーターボーイ! ここから街を見下ろしてみろ!」
ダンジョン・マスターは開口一番にそう言うと、いつものようにエレベーターボーイの肩を叩きながら、彼を巨大な窓へと導いた。
猥雑で、でこぼことした都市。人間の複雑さをそのまま表した、最近流行のわけわからぬ芸術作品にさえ思えてくる。深い場所から都市を感じているエレベーターボーイにとって、このような高い場所から都市を見下ろす事は滅多になかったが、この光景は視覚的な醜さとなって、エレベーターボーイの中に飛び込んでくる。
エレベーターボーイは隣にマスターがいることも忘れて、顔をひどくしかめてしまう。
だが、エレベーターボーイは地上では、大抵いつも、不機嫌そうな顔をしている。何も気取られる事はないはずだ。
「どうだ? この都市は醜いだろう?」
マスターはエレベーターボーイの心を読みでもしたかのように言う。
「この醜さ、複雑さにこそ意味があるのだ、エレベーターボーイ」
「なんだと?」
マスターは都市を撫でるかのように手を動かした。
「我々はどのように進化してきた? 神に作られたなどという嘘はもう十分だ。我々は混沌とした苦境の中を生き抜くために弱き種から、強き人類へと歩んできたのだ。ああ、そうだ! 複雑さにこそ意味があるのだ! おまえもそう思うな、エレベーターボーイ!」
「妙な戯言をやめろ、マスター! 用件は何だ?」
エレベーターボーイが強い声で尋ねると、詩人のように語っていたマスターは、エレベーターボーイの顔を覗き込んでくる。
「原因療法さ」
マスターは懐から紙切れを出した。
「これにはダンジョン冒険者として登録されているシーフ、ホロンからエレベーターボーイへあてた手紙で、エレベーターボーイギルドなるものを設立し、企業組合への依存をやめる事を勧めている」
「な……」
ホロンからの手紙? なぜここに?
マスターは申し分程度に薄い唇を歪めて、笑いを作った。
「驚いたかね? まだ世間に公開されていない新技術を使えば、消えた文字すら再生させる事ができるのだよ。陰謀に対する技術の勝利という奴だ」
エレベーターボーイは何もいえなかった。
「複雑さがどうとか言ったが、我々企業組合は所詮は商人の集まりだ。我々の目的はありとあらゆる富を手に入れ、そして、今持っている権益を守る事だ。幸いにして、法は我々の味方だ。企業組合に敵対する動きを見つけるための努力は惜しまないし、今回は闇市に光らせておいた私の目が、興味深いものを見つけたというわけだ。そして、我々は、我々にとっての、不利益となる、エレベーターボーイの、結束などというものを、許すわけにはいかんのだ!」
マスターは一言ずつ、区切るようにして言葉を吐いた。エレベーターボーイの肩に置かれた手の力は強まり、指が肌に食い込んでくる痛みを感じる。
同時に、マスターの部屋の外、数人の剣士が待機していて、マスターが一声命じれば、エレベーターボーイを切り刻みに入ってくるだろう事も分かった。
「状況を理解したな?」
隣のマスターは笑みに残忍さを加え、そして、ゆっくりと扉の方を向いて、口を開いた。
エレベーターボーイは深々と息をつく。
そして、
「俺じゃない……」
「ん?」
「……マスターよ、なぜその手紙が俺と関係あると思った? この街にエレベーターボーイなどいくらでもいるではないか」
しらばっくれるのが時間を稼ぐ役に立つかどうかは分からなかった。
「エレベーターボーイと名乗っているエレベーターボーイはおまえだけだ」
「くだらん。何の証拠にもなっておらぬぞ」
マスターの顔から笑みが引き下がり、その目が刃のように光る。
エレベータボーイはこのその場しのぎが上手くいった事を直感した。
企業組合は手紙は手に入れたが、エレベーターボーイが手紙を売った事までは確認できなかったのだ。
「嘘を弄するなよ、エレベーターボーイ。ホロンがおまえの知り合いだという事ぐらい分かっているんだ」
マスターはエレベーターボーイの嘘を見つけ出そうとしている。
心の動揺を探り出そうと、マスターの手が自分の中にまで入ってくるような錯覚さえした。
だが、無駄だ。
ちょっとした油断が死を招くエレベーター操作。それが求めるのは強固な精神だ。エレベーターボーイのエレベーターの籠がダンジョンで生き抜くために改造されていったのと同様の作用が、エレベーターボーイ本人にまで及んでいるのだ。
「知り合いでおかしくなかろう。俺は最高のエレベーターボーイだし、ここは最高のダンジョンだ。常連にならんとする冒険者はつきぬのだ」
マスターはなおも睨みつけてきたが、エレベーターボーイは屈しなかった。
俺に参ったと言わせるのは、バケツでダンジョンを水没させようというのと同じく、簡単な事ではないぞ、と腹の内で思いながら、エレベーターボーイは仏頂面を返した。
マスターはエレベーターボーイがなんの動揺も見せない事を知る。
「そうか……そうだな。おまえが我々企業組合を裏切るはずないよな。疑ったりして済まなかった」
マスターは友好的な笑みを作り、猫撫で声で言った。
「かまわぬよ」
「シーフのホロンが捕まれば事態は収まるのだし、そうすれば、不自然な騒動を考えるエレベーターボーイもおとなしくなるに違いない」
「だろうな」
エレベーターボーイはマスターの手を払いのけ、持ってきた書類をマスターの机に放った。
「もう帰ってよいな。まだ俺のエレベーターの籠の調整が済んでおらぬのだ」
「ああ、そうしてくれたまえ。今日も大勢の冒険者がやってくるだろう。そして、92階層を制覇したギールとシャルナの二人組もダンジョンに来るそうだ」
「なんだと?」
マスターは猫撫で声を、つぶやき程度の声音に落とした。
「95階層でも、100階層でもどこでもいいが、二人が行きたい階層に連れて行ってやれ。そして二人を拾いにいくな。言ってる意味が分かるな?」
エレベーターボーイの目ははっきりと血走った。
「俺に人殺しをしろと言うのか?」
「二人は企業組合にとって有害だ。二人はダンジョンに下りていき、二度と上がってこない。それだけだ。何も不自然なことではない。実に冒険者らしいあっさりとした最期だろう? エレベーターボーイ、おまえは企業組合の味方だよな?」
エレベーターボーイは歯を食いしばり、何も返事をしない。ただ、ゆっくりと踵を返して、扉へと向かう。
「ああ、そうだ。エレベーターボーイ、おまえが我々を裏切るはずがないんだ。こんなに今まで我々につくして、ダンジョン産業をもり立ててくれたんだ。そして、裏切れるはずもないんだ。我々なしでおまえのエレベーターは満足に動かないのだからな」
エレベーターボーイは扉を抜けて、マスターの部屋をあとにした。
廊下に人影はなかった。
ダンジョン・マスターは正しい。
企業組合の助けなしでエレベーターは動かない。エレベーターを完璧に操れるのがエレベーターボーイだけにしても、エレベーターを動かすのには大勢の労働者、熱水機関、燃料と実に多くのものが必要だ。それら抜きだと、エレベーターの籠は重力の助けで下に下りることはできても、上へ上がることはできない、一方向的な代物と化してしまう。そんなものはもうエレベーターと呼べなかった。
エレベーターボーイは自室で低くうなった。
俺はエレベーターが完璧に作動しているときが幸せだったのに。日常は自分の技術の届かない面からの干渉で崩れようとしていた。
マスターが自分を生かして帰したのは、自分が最高のエレベーターボーイで、企業組合の利益をもたらすからだ。だが、ホロンが捕まるなり、エレベーターギルドに関するなにかが露呈すれば、それまでだ。
企業組合が自分を殺すのには短刀さえ必要ない。ダンジョンの深みに籠があるときに、熱水機関を止められてしまえば、もうダンジョンの闇の中で朽ち果てる他なくなる。
どんな人間とて垂直の主シャフトを登ってくるだなんて芸当はできないだろう。
そして、ギールとシャルナの殺害の命令。マスターの意図は読めた。
企業組合がエレベーターボーイを殺せば、二人はこのダンジョンへの興味をよそに移して、企業組合の手の届かない所へ去ってしまうかもしれない。その前に確実に二人を葬ってしまおうというのだ。
エレベーターボーイは、エレベーターの籠の床が抜けて、自分が奈落の底へ堕ちていく気分を感じていた。
冒険者とモンスターの戦いに関わらずにいれたように、商人とシーフの戦いにも近づけずに入れると思っていた。だが、問題はあちらから勝手に迫ってきてしまった。
そして、自分のエレベーターの客の命を奪えと命じられている。
全てを捨てて逃げ出すという考えは、現実味を持たなく感じた。このエレベーターを捨てて、どこへ逃げようというのだ? それをすれば、企業組合に殺されるよりも惨めな事になるに違い。
エレベーターボーイの選ぶことのできる選択肢は少なかった。