さよならモルテ
パァン!!
と乾いた銃声が静かな雑木林に響き渡り、続いてドサっと何かが倒れる音がした。
まず倒れたのはルイだった。
自らを撃とうとするレイラを、とっさに飛び出して止めようとしたのだ。
しかし、ルイの手はあと一歩のところでレイラに届かなかった。
地面に倒れ込んだルイは、しかしどこか安心した様子で顔を上げた。
「気持ちが急くのは分るけど、私のこと忘れないでくれるかしら?」
ルイの視線の先には、レイラの背後から手首をつかみ、銃口を空に逸らした人物がいた。
「リア様!? どうしてここに……」
振り向きレイラが声を上げる。
レイラの手首をきつく握りしめたままリアは答えた。
「ごめんなさいね、モルちゃん。──いやレイラちゃん」
意味深な瞳でレイラの名前を呼ぶリアは、昼間の豪華なドレス姿とは異なり、動きやすい服に身を包んでいた。
状況を飲み込めないレイラ。
説明するようにリアが口を開く。
「そんな顔をしないで。大して不思議なことじゃないはずよ。私だって政治家の娘ですもの。命を狙われる可能性を見越して、幼い頃からいろいろと仕込まれていたの。教え込まれたのは政治や心理学だけじゃないわ。護身術や体術、拳銃の扱い方諸々、……それこそあなたみたいにね。これでも観察眼には自信があるのよ。だから、レイラちゃんの様子がこの頃おかしいことには気づいてた」
リアは空いている方の手で手紙を取り出してレイラに見せた。
「こんなものもらわなくたって、私、レイラちゃんを助けるつもりでいたわ。もちろんあなたのメイドのお友達も、それからディーンや従者のみんなもね」
リアは手紙を上着のポケットに戻し、話を続けた。
「私はモートン卿の妻でいたくないの。鳥かごに閉じ込められた生活なんてまっぴらよ。レイラちゃんも自由になりなさい。あなたは殺しを強要されるべき人じゃない。モートン卿の利益のために犠牲になって、心を痛める必要なんてないのよ」
話の流れが飲み込めず、レイラは懸命に状況を整理する。
どうやらルイは本当に隣国の王子で、リアと同盟を組んでいたらしい。
思いがけない繋がりに驚きながら、しかしレイラの心は変わらない。
「……リア様はお優しいですね。ですが私の名前はモルテです。どう言い訳しようと罪人。生きている資格などありません」
一瞬リアは口を閉ざす。
少ししてまた口を開いた。
「確かにあなたは人を殺めてきたかもしれない。でもそれ以上にあなたは人の命も救ってきたじゃない。あなたのお友達だってその一人でしょうし、私だってそうよ。あなたがいてくれなかったら息苦しい生活に耐えかねて身を投げていたかもしれないわ。それにレイラちゃんが手に掛けてきた貴族たちは、みな裁かれるべき悪人だった。例えばスペンサー伯爵。彼はモートン卿がグレゴリー卿のもとに忍ばせたスパイだった。ありもしない罪をでっちあげてグレゴリー卿を陥れようとしていたわ。書類を見た痕跡を残してしまったせいでモートン卿に消されてしまったけれど。それでなくても彼がこれまでに働いてきた悪事はたくさんあって、特に女性に対する扱いはひどいものだった。彼がいなくなったことで開放された女性はたくさんいるのよ。彼女たちを救ったのはレイラちゃんよ。自分を責める気持ちも分かるけど、どうか許してあげて。私はあなたの罪を問わないわ」
説得するようにリアは言った。
しかしそれでも腑に落ちない表情をしていると、レイラのしこりを溶かそうとするように、ルイが声を上げた。
「レイラ」
「やめて、その名前で呼ばないで!」
反射的に遮ってしまう。
「どうして? 君はレイラだ」
「違う、モルテよ!」
涙目で叫べば、ルイは立ち上りレイラに歩み寄る。
拳銃を持っていない方のレイラの手を、両手でそっと包み込む。
「レイラ、僕に君を救わせてくれ。この手がこれ以上したくないことをしなくて済むように、僕に守らせてくれないか」
レイラは包まれた手を振りほどこうとしたが、まるで力が入っていない気がして怖かった。
だから言葉で強がるしかなかった。
「どうして? あなたにそんなことをする義理はないはずよ」
ルイはレイラを真摯な眼差しで見つめた。
「本当にね、君と出会うまで僕は落ち込んでいたんだ。消えてしまいたいとすら思っていたよ。でも君を見つけて、生きることに意味を見出せた。大嫌いだった貴族という地位も、君を守るためなら『あってもいい』と思えたんだ。きっとね、僕は君と出会うためにここへ来たんだよ。信じて。僕は君の敵じゃない。君を守るためならどんなことだってする」
熱のこもった瞳で見つめられ、レイラは息を飲む。
こんなふうに見つめられたのは初めてで、どうすればいいのかわからない。
間近で目が合って居心地が悪いはずなのに、自分から視線を逸らすことができなかった。
「一目惚れ、ですって」
リアが不意につぶやいた。
「彼ね、心底あなたが好きみたい」
耳元で囁かれ、レイラの手から力が抜ける。
その一瞬の隙を見逃さず、リアはレイラの手から拳銃を奪い取った。
しかしそのときにはもう、レイラは死ぬとか殺すだとか、どうでもよくなっていた。
「その話は僕から彼女にゆっくりさせてください、リア様」
勝手にルイの胸中を告白するリアを止めようとルイが口を挟んだ。
「そんなに彼女と二人きりになりたいの?」
からかうようにリアは言ったが、ルイは苦笑するだけで否定しなかった。
「リア様はほかに成すべきことがあるでしょう? 僕は一刻も早く彼女を安全な場所へ避難させたいんです」
言いながらルイはレイラの腰を軽く抱き寄せた。
「まったくもう、分かったわよ。仕方ないわね、私だってレイラちゃんとまだ話したい事があるんだから、明日会いに行かせてよね」
「分かりました」
リアは仕方なくといった様子で、「じゃあルイ、レイラちゃんのこと、任せたわよ。何かあったら承知しないから。レイラちゃん、また明日ね」とレイラを受け渡した。
そして先ほど話していた《成すべきこと》とやらを成すために、颯爽と去って行った。
レイラは二人のやりとりをどこか他人事のように聞きながら、これまで自分のことを「レイラ」と呼ぶのはミアだけだったから、ミア以外の人間にレイラと呼ばれるのは不思議な感じがするなと思った。
──もう殺しをしなくていい、のだろうか。
こんな日が来るなんて。
様々な思いが駆け巡り、レイラは力が抜けて座り込んだ。
「おっと、大丈夫?」
レイラを抱き止めようとしたルイも隣にしゃがみ込む。
ルイはレイラを安心させようと彼女の背中を何度かさすり、「ゆっくり深呼吸してみようか」と言った。
言われるがまま、レイラは深く息を吸い、時間をかけて吐き出した。
「……大丈夫、ありがとう」
レイラが言えば、「よかった」とルイは安堵して顔をほころばせた。
そしてレイラの頬を両手で包み込み、目を覗き込んで言った。
「──いいかい、レイラ。《モルテ》なんて重たい名前、今日限り、君にはもう必要ないんだよ。これからは自分の名前を大切に生きるんだ。ご両親が君につけてくれた、レイラという愛の籠った名前をね」
気が付くとレイラは泣いていた。
ルイの手が優しくその涙をぬぐう。
ルイに間近で泣いているのを見られるのが恥ずかしくて、顔を逸らそうとしたけれど、やんわりと制された。
止まらない涙にどうしよう、と思っていると、「目を閉じて」と囁かれ、従えばそっと瞼にキスが落ちた。
そこから伝わってくる温もりに意識を奪われていると、今度は同じ温もりを唇に感じる。
あ、と驚いて瞼を開けば、瞼を閉じているルイの顔が視界いっぱいに広がった。
降ろした睫の長さに見惚れそうになりながら、慌てて瞼を閉じる。
──昨日までは音を立てず夜道を歩くレイラを心配そうに照らしていた月明かりも、今夜はどこかほっとした様子で二人を見守っているのだった。
* * *