ピアノ弾きの推理と昼間の香り
まさしくその香りだった。
モートン卿の護衛らしき女性に抱き止められたとき、自分を包んだ微かな香りは、ネロの移り香と同じものだった。
ルイは真相を突き止めるべく、帰り際、屋敷のメイドに護衛の女性について尋ねてみた。
「あの、すみません。モートン卿の護衛の方のお名前、教えていただけますか?」
ルイが声を掛けたのは、話しかけやすそうな雰囲気をしたメイドだったのだが、ルイの口から《モートン卿の護衛》という言葉が出ると、彼女はぴくりと眉を動かした。
「──モルテさん、のことですか? 彼女が何か」
急に彼女を包む空気が冷たいものに変わった。
戦闘態勢といわんばかりの雰囲気だ。
「いや、良い香りのする人だなぁ、なんて、その……、思いまして」
はにかんでごまかしてみたが、彼女の戦闘態勢が解かれることはなかった。
「彼女、香水か何かつけているんですか?」
それでも重ねて問い掛ける。
「さぁ。香水はつけてないと思いますけど。でももし何か香りがしたのなら、きっとクチナシの香りでしょうね。彼女、部屋で育てていますから」
メイドは淡々と返したが、その眼は明らかに疑いの色に染まっていた。
これ以上、護衛の女性について深堀しない方が良さそうだ。
「そうなんですか」
メイドの眼光が鋭く光る。
「彼女の香りが知りたかったんですか? それだけのために、わざわざ聞き込みを?」
まるで手品師のタネを暴こうとする観客のようだ。
「あぁ、そうなんだ。香りが知りたかっただけなんだ。ありがとう」
これ以上怪しまれないために、ルイは話を切り上げた。
* * *
ずっと、もっと近づいてくれたらいいのにと思っていた。
ルイはお茶会を終えて離れに戻り、堅苦しい服から部屋着に着替え、ベッドに横たわり天井を見つめていた。
お茶会から帰ってきてからというもの、ルイは上の空だった。
ウィル子爵の従者が持ってきてくれた夕食のラム肉のステーキを食べているときも、ネロに食事を与えているときも、考えるのはモートン卿の護衛の女性のことだった。
リアとモートン卿に注目が集まっていたせいで目立たなかったが、彼女も美しい人だった。
長い黒髪を後ろで一つに結った姿は凛としていて、背筋の通った立ち姿は、まるで芍薬のようだった。
しかしどこか哀し気な雰囲気はミステリアスで、陶器のような肌と華奢な体躯が彼女の魅力を引き立てていた。
彼女に抱き止められたときの感覚が、まだ、残っている。
(それに、あの香り──)
彼女からあの香りがしたことは、彼女が暗殺者で、偵察に来ていた可能性を強めていたが、身を挺して庇ってくれた事実は、それに疑問を投げかけていた。
お茶会が開かれるまでの一週間、誰かが毎晩離れに来て物陰に身を潜めていたことには気がついていた。
初めは勘違いかと思ったが、ネロに香りが残っていることから自分の思い過ごしではないと確信した。
一昨日あたりだろうか、油断していたのか、その晩、彼女の隠れ方は甘かった。
茂みから半身が見えてしまっていたのだ。
もっとも外の闇は深いから、よほど目を凝らさなければ彼女の姿は見えなかったが、ルイは視力が良いこともあり、彼女の姿をぼんやりと捉えることができた。
そして彼女の足元にはネロがいて、甘えるようにすり寄っていた。
彼女はネロを膝に乗せて優しく撫で、心地よさそうにルイが奏でる音楽に耳を傾けていた。
ルイは純粋に、自分の音楽をこんなふうに聴いてくれる人がいることが嬉しかった。
コンサートで披露する音楽はどれも有名なものばかりで、どちらかというと派手で華美なものだった。
貴族の好みに合わせて曲目が選定されるので、ルイに曲を選択する権利はないし、演奏させてもらえるだけありがたいのは分かっているのだが、本当は、この離れで毎晩弾いているような、あまり広く知られていない、華美でなくとも穏やかで心に染みる曲の方が好きだった。
ルイは彼女を見ていると、きっと彼女もそうなのではないかと感じた。
自分が気持ちよくピアノを弾いているあいだ、彼女と心が繋がっているような心地がした。
それはルイがこれまでピアノを演奏してきて初めて味わった感覚だった。
そしてそれは日を追うごとに深まり、やさぐれていたルイの心も鳴りを潜めていった。
無能な王子として無下に扱われることや、兄たちと比較されることへの怒り、自分の家に居場所がない疎外感や、国王に命の危険が伴う任務を課されたやりきれなさなど、どうにも消えてくれなかった負の感情のさまざまが、彼女に向けてピアノを弾いている間だけ姿を消す。
まるで魔法のようだった。
ルイは茂みに隠れているその人がどんな人でも、きっとその人を好きになると思った。
本当はもう、自分でも知らないうちに、好きになってしまっていたのかもしれない。
彼女のことをもっと知りたいと思ったし、会って話をしてみたかった。
しかしこの先、どうやって彼女と距離を縮めればいいのだろう。
彼女が殺し屋なら、存在を悟られていると察した時点で、二度と姿を現わしてくれない気がする。
ルイは毎晩悩んでいた。
彼女がスペンサー伯爵を手に掛けた殺し屋だとは思いたくなかったが、仮にそうだったなら、遠くない未来、彼女は自分の命を奪いに来るだろう。
その時、どうするのが正解なのか──。
ルイは鎖がまとわりついた鳥かごの鍵を探し求めていた。
その頑丈な檻の中に閉じ込められている鳥が、彼女なのか、あるいは自分なのか分からないままに。
* * *
その日の夜、ルイは眠れなかったので、外の空気を吸おうと起き上がった。
すると離れの外にいた従者から一通の手紙を渡された。
父親のサンダーバードからかと思ったが違った。
差出人はルイと面識のある人物で、内容は『協力してモートン卿を出し抜こう』という提案だった。
手紙にはずらりとモートン卿の悪事がリークされており、その情報は好きに扱っていいとのことだった。
ルイは差出人の名前と内容に驚くとともに、手紙の案に乗ることにした。
* * *