ピアノ弾きの素顔と真夜中の香り
スペンサー伯爵が事故死(表向きではそういうことになっている)する少し前から、モートン卿の政敵であるグレゴリー卿は、モートン卿に権力を乗っ取られることを危惧しており、隣国のタリアテッレ王国の国王であるサンダーバードに、内密にモートン卿の動向を探ってほしいと頼んでいた。
自分たちはモートン卿に顔が知れているため、隣国に協力を要請したのだ。
サンダーバードはグレゴリー卿と親しい間柄にあり、彼からの頼みを快諾した。
サンダーバード側としても、グレゴリー卿の派閥を支持しているので、ギブ王国の政治の権力が違う方向に傾くのは好ましくないことだったのだ。
そのようなわけで、サンダーバードはモートン卿一派を見張っていたわけだが、モートン卿はなかなかの切れ者で、スペンサー伯爵が殺されるのを未然に防ぐことができなかった。
先日亡くなったスペンサー伯爵の死体が見つからず、犯人の尻尾を掴むどころか、死因の特定すらできていないことからしても、彼のもとには腕利きの暗殺者がいるのだろう。
サンダーバードはモートン卿に対する警戒を強め、調査員として息子のルイを潜入させることにした。
サンダーバードには三人の息子がいたが、ルイにだけ手を焼いていた。
次期国王である長男のリカルドは文句の付けようがない才色兼備。
判断力に優れ、国民からの信頼も厚く、父親として鼻が高かった。
そして三男のブルーノは武力の達人。
槍、弓、ナイフ、拳銃、何を扱わせても抜群のセンスを発揮した。
長男が政界で策を立てて指示を出し、三男が現場を仕切るというチームプレーはサンダーバードも舌を巻くほど見事だった。
一方でルイはといえば、頭は悪くないのだが、政治に興味がなく、武術の訓練も性に合わないと言って逃げだした。
興味があるのはめっぽうピアノだけ。
ルイは幼い頃から部屋にこもって四六時中ピアノを弾き、指が疲れるとレコードを聴いて休み、またピアノを弾いてはレコードに針を落すという行為を繰り返した。
もちろんそのような生活をサンダーバードが許すはずもなく、幾度となく従者たちが無理矢理部屋から引っ張り出そうとしたのだが、どれだけ学業や武術の訓練をさせようとしても、ルイは頑なに強制されることを嫌がり、酷いときは屋敷から脱走して、そのままほとぼりが冷めるまで帰ってこなかった。
今回、ギブ王国の調査員としてルイを抜擢したのはサンダーバード自身だった。
サンダーバードは、ルイにピアノ弾きとして隣国へ赴き、情報の飛び交う社交界に潜り込んで巧みに話を聞き出す術を体得してほしいと考えていた。
調査員としての能力が磨かれれば、ルイも少しは使い物になるかもしれない。
政治では役に立たないピアノの腕も、社交界では武器になる。
ピアノのコンサートを口実に世界中を飛び回れるようになれば、裏で各国の情報収集を行えるかもしれない。
そうなったら心強い。
どれだけ優れた頭脳と武力を保持していても、情報が不足していては優れた戦略は立てられない。
ルイが情報屋の役割を果たせるようになれば、サンダーバードは安心して国王の座を退くことができるだろう。
今回の任務でルイの器量を見極めたい。
それがサンダーバードの目的だったので、ルイには極力詳細な指示は出さず、自分で考えて行動するよう仕向けていた。
情報を提供する期日のみ設け、『何も得られなければ帰ってくるな』と捨て置いた。
『分かりました』と、思いのほかルイは大人しく聞き入れ、そそくさと身支度を整えた。
そして王子とは思えないほど身軽な荷物でギブ王国へ出発した。
サンダーバードはルイの状況を見張るために従者を一人付き添わせており、彼の報告によると、ルイは用意された場所が狭い離れでも文句を言わず、むしろ『落ち着く』と言って頬を緩ませたらしかった。
それを聞いてルイらしいと呆れつつ、少し不安になった。
もしかしたらルイは、このまま帰ってこない気でいるのかもしれない、と。
サンダーバードの予感はあながち外れではなかった。
ルイはサンダーバードに命じられた任務を遂行する気がないわけではなかったが、ギブ王国の自然の豊かさや、自分を知っている人がいない環境の快適さに魅せられていた。
音楽好きのウィル子爵が用意してくれたアップライトピアノは古びていたが、その使い込まれたピアノの音色は、温もりがあってむしろ好感を持てた。
古いピアノであることは確かだが、一度弾けば、そのピアノがきちんと調律され、定期的に手入れされていることが分かった。
音楽を聴くだけでなく、楽器の手入れにも余念がないあたりさすがはウィル子爵。
「こんな場所しか用意できず申し訳ありません。サンダーバード様にはもっと良い部屋をルイ様に用意できると申し上げたのですが、ルイ様の正体が周囲にバレないよう、人目につかない場所を用意してほしいと頼まれ、やむを得ず……。とはいえルイ様のご要望があれば部屋を他の場所にすることも可能でございます。どうされますか?」
この国に着いて初めて顔を合わせたとき、ウィル子爵はルイのことを王子として丁重にもてなした。
ルイは国王の息子であり第ニ王子なのだから、当然といえば当然のことなのかもしれないが、ルイはこれまで自分の国で《何の取り柄もないダメ王子》の烙印を押され、ことあるごとに肩身の狭い思いをしてきた。
誰もが第一王子と第三王子を褒め称え、それに比べて第ニ王子はと陰口を叩いた。
常に兄や弟と比べられ、召使いや従者たちの態度が違うのが当たり前になっていたルイにとって、純粋な誠意を向けてもらえるのは有難いことだった。
「お部屋を用意していただいただけで十分です、子爵。そのうえピアノまで用意してくださって、心遣い感謝いたします」
恐れ多いと首を振り、ウィル子爵は頭を下げた。
「ルイ様が良いならそれで構わないのですが。何かご要望がございましたら何なりとお申し付けくださいませ。従者も一人お付けしていますので」
ルイは目だけをちらりと動かして、窓ガラス越しに背後を確認した。
従者は頭を下げた。
(なるほど。父上が送った監視役か)
まったく、何処までいっても自由は与えられないらしい。
ルイは小さくため息を吐いた。
第ニ王子という身分が、肩に重くのしかかる。
「ありがとうございます。もう少しお話したいところですが、慣れない長旅で少し疲れまして。今夜はもう休もうかと思います」
「もちろんでございますルイ様。お疲れのところ引き止めしてしまい、すみません。どうぞゆっくりお休み下さいませ」
ウィル子爵はルイにねぎらいの言葉をかけ、お辞儀をすると出て行った。
それが一週間前のことだった。
昨日はここに赴任する前からウィル子爵にオファーされていたオーケストラのコンサートに出演したのだが、自分でも驚くほど良い演奏ができた。
疲れ切って離れに戻り、電気を消したベッドの上に寝転がって考えたのは、どのようにしてモートン卿の情報をつかみ取るかということだった。
昨日のコンサートに参加した目的は、オーケストラとの共演を果たすことではなく、社交界に顔を売って知り合いを増やすことと、モートン卿の妻であるリアと接触することだった。
さまざまな噂話が行き交う社交界は、情報収集にうってつけ。
その場にいるだけでも収穫はあるだろうが、リアと接触することができればモートン卿の情報を何かしら聞き出せるだろうと考えていた。
ところが、実際にリアに会ってみて分かったのは、彼女が評判で聞いていたよりずっと美しい人だということと、バイオリニストとして音楽に強い情熱を持っているということだった。
彼女はコンサートの後、ルイを呼び出し、今度行われる予定の自分の演奏会に参加しないかと持ち掛けた。
ルイが話したかったのは音楽の話ではなかったので、話題を変えようとしたのだが、彼女は引き下がろうとしなかった。
誰かに彼女と親しくしているところを見られ、変な噂でもたったら面倒だと思い、モートン卿の話をするのは諦めて引き上げた。
彼女に興味を持ってもらえたのは良かったが、リア自体が目立つ人なので、今後も気軽に会うことは難しそうだ。
できるだけ、目立つ行動は控えたい。
リアがだめなら次は誰に近づこうか。
考えかけて、しかし上手く意識を集中させることができない。
──情報取集より他に、気になることがあったからだ。
「ネロ」
黒い子猫がルイの足元で丸くなって眠っている。
ネロはルイが拾ってきて勝手に世話をしている子猫だった。
雨の日に路地裏でずぶ濡れになって震えているのを見つけ、放っておけず、屋敷に連れて帰ってきた。
温かいシャワーで洗ってブラッシングをしてやり、おなかも減っているのではないかとミルクとクラッカーをやったところ、すっかり懐いてしまった。
動物が好きだったこともあり、ルイは子猫に《ネロ》という名前をつけ、そのまま一緒に暮らすことにした。
そしていつの間にか、ネロはルイにとって唯一の、何でも打ち明けられる話し相手になっていた。
国を出るとき、連れて行こうか迷ったが、動物好きではない召使いにネロを任せるのが心配で、結局連れてきてしまった。
ネロは離れのそばにある雑木林が気に入ったらしく、近頃よく遊んで帰ってくる。
それ自体は別に構わないのだが……。
ルイは起き上がり、嫌がるネロを抱き上げ、「ごめん、ちょっとだけ」と、そっと頭の匂いを嗅ぐ。
「やっぱり」
昨日の夜、部屋に戻ってきたネロを抱き上げると、これまで嗅いだことのない香りがした。
──柔らかくも品のある匂い。
「ネロ、お前どこに行っていたんだ?」
初めてその香りに気づいたとき、ルイは首をひねったものの、離れの周りで遊んだときに植物の香りでも移ったのだろうと、あまり深く考えなかった。
しかしやはり気になって、離れの周りや雑木林に植えられている植物の香りを確かめてみると、ネロからした香りと同じ香りのする植物は見当たらなかった。
いくら離れとはいえ、雑木林を含む屋敷の周りには柵が張り巡らされている。
ネロが街に出ることなどあり得ない。
敷地内にある植物の香りではないのだとしたら、ネロに移った香りは外部から持ち込まれた香りということになる。
「……誰かがここに来ているのか?」
問いかけてみたところで、ネロは首をかしげ、眠そうに目を細めるだけ。
(もしかしたら、偵察に来ている人間がいるのかもしれない)
考えたくなかったが、モートン卿の手の内の人間が、こちらの動きに感づいているのかもしれない。
だとしたら、正体を知られたら最後、スペンサー伯爵と同じように殺されるだろう。
しかし、何者かに命を狙われているかもしれないというのに、ルイは不思議と恐怖を感じていなかった。
それはネロから香る移り香があまりに柔らかく、心になじむ香りだったからかもしれない。
人を殺める人間が好む香りにしては、あまりに優しい匂いなのだ。
(でも仮に、暗殺者が動いているとして、どうして昨日のうちに僕を始末しなかったんだろう)
モートン卿側の人間にとって、怪しい人物を放置しておくことにメリットなどないはずだ。
むしろ何か情報を掴まれる前に一刻も早く処分したいと思うはず。
ましてやスペンサー伯爵を手に掛けた敏腕の殺し屋だ。
居場所を突き止め潜入しておきながら、そそくさと引き上げる意味が分からない。
ルイは記憶をたどってみたが、昨晩は離れに一人でいたし、殺しを妨げる要素があったとは思えなかった。
なんとなく、窓の外に目を向ける。
誰かの視線を感じたわけではないが、ひょっとすると、今この瞬間もその殺し屋が茂みに隠れ、殺すタイミングを見計っているのかもしれない。
ルイは目を細めて外の景色を凝視してみたが、いくら注視してもそこには深い闇が広がっているだけだった。
──もし暗殺者が自分を殺しに来たら。
そのときはそいつと対峙して、戦わなくてはならない。
曲がりなりにも自分はタリアテッレ王国の第二王子なのだ。
国の名誉にかけて、そうやすやすとやられるわけにはいかない。
自分が死ねば、この国に偵察に来ていたことが知られてしまうかもしれないし、陰で秘密裏に情報を得ようとしていたことが表沙汰になれば、父上だけでなく、父と親しいグレゴリー卿にも不利益が出るかもしれない。
そのようなことになれば、政界の覇権はモートン卿に渡るだろう。
それを避けるために自分が送られて来たというのに、モートン卿を後押しすることになっては本末転倒 だ。
(──頼むから殺しに来ないでくれ)
ルイは争いが嫌いだった。
人と命を懸けて争い、誰かを殺めてまで生きていくなんて間違っていると思っていた。
王族だからといって、自分の命が特別だとは思っていないし、できることなら旅人のように、何にも縛られず飄々と生きていたい。
(僕は、何も持っていない)
生きる希望も、自由も、《サンダーバード家第ニ王子》という生まれつき備わっている肩書きでさえ、ここではないも同然だ。
自分で勝ち取ったわけではない足場だったが、それすら失ったいま、どこに足をつけて歩いたら良いのか分からない。
嫌いだ。
──夜明けはまだ遠い。
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