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殺せない殺し屋と小夜曲(セレナーデ)  作者: 尾崎遙香
殺せない殺し屋と小夜曲(セレナーデ)
3/31

殺し屋とターゲット

 次の日の朝、モートン郷は酷く不機嫌だった。

 どうやら妻のリアが不倫しているらしい。

 何処からその情報を仕入れたのかは知らないが、リアには人目を忍んで会っている若い男がいるらしいのだ。

 早速調査をせよとのことで、レイラは朝から激務を言い渡された。

 昨日人を殺めたばかりだというのに、リアが興味を持ちそうな男をかき集めた山のような資料と対峙する羽目になり、溜め息が出る。

 モートン卿は待つのが嫌いだ。

 感傷に浸っている暇などない。

 レイラは朝食替わりのコーヒーを胃に流し込み、机の上に資料を広げながら、机の端に置かれていた新聞の見出しに目がいった。


【号外!! スペンサー伯爵《不慮の事故》死因は溺死か──】


 レイラは新聞を手に取り、椅子に腰を下ろして足を組み、その上で広げた。

 案の上、スペンサー伯爵が亡くなったことが大きな見出しで取り上げられている。

 新聞では外交に向かった伯爵が、事故で川に落ちて亡くなったことを表紙一面で大々的に報道しており、警察は正しい死因を特定できていないようだった。

 川に流されたスペンサー伯爵の死体は未だ見つかっておらず、事故死を怪しむ声も出ていなかった。

 レイラの任務は完璧に遂行されたのだ。

 警察の手がレイラの元に届くことはないだろう。

 レイラは新聞を折りたたんで机に放ると、一口コーヒーをすすった。

 窓の外を見れば広がる曇天。

(これから一雨降りそうだ)

 街から離れたこの部屋に喧噪は届かないが、スペンサー伯爵の屋敷の周りは記者が集まり、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているだろう。

 レイラは机の上に視線を戻し、黙々と資料を読み漁った。



 *     *     *



 その日は夕方からリアの護衛としてコンサートホールで行われる演奏会に付き添うことになっていた。

 リアはサラバン伯爵の娘であり、貴族社会の中でも上流階級に属する超お嬢様だ。

 幼い頃からバイオリンを習っていて、その腕はかなりのものだった。

 演奏会を開けばあっという間にチケットが売り切れるほど、音楽家として高い評価を得ていた。

 そんな彼女は週末になると決まって音楽会に参加する。

 飽きっぽい彼女にしては珍しく、ずっと習慣として続いていることだった。

 普段は明るくカラっとした人柄が魅力のリアだが、音楽に取り組む姿勢は真剣そのもので、そのギャップがレイラは嫌いじゃなかった。

 演奏会に行くとき、リアはドレスアップにも熱意を注ぐ。

 バカンスに行くときのようにはしゃぎ、モートン卿にねだってこしらえさせたドレスをあれこれ脱いだり着たり、メイドたちがしどろもどろになる勢いで試着する。

 その試着にはレイラも立ち会うことになるのだが、意見を求められるたび困ってしまう。

 というのも、リアは元から顔立ちが華やかで整っており、スタイルも抜群なので何を着ても似合うのだ。

 彼女の好みと気分で選んでもらう以外、何を基準にすれば良いのか分からない。

「ねぇ、モルちゃん。この真っ赤なドレスとさっきの淡いピンクのドレス、どっちが良いと思う?」

 鏡で全身を映しながら、リアがレイラに問いかける。

 リアはレイラより五つ年上だが、レイラのことを《モルちゃん》と呼び、まるで友達のように接している。

 それはレイラに限ったことではなく、他の召使いに対してもそうだった。

 貴族なのに召使いを卑下して扱わないのは稀有なことだった。

 そんな彼女は、天真爛漫で破天荒だけれど、屋敷の従事者たちから愛され、人望を集めていた。

「どちらも良くお似合いですよ、リア様。……ですが、コンサートは落ち着いた場ですので、真紅のドレスよりも、淡い色味のドレスの方が適切かもしれません」

 レイラ無難な意見を提示する。

「うーん、そうよね。モルちゃんはいつも的確な意見をくれるわね」

 振り向いてリアはニコリと微笑む。

「分かった、じゃあこっちの赤い方にする! 私、こういう時はモルちゃんが薦めなかった方を選ぶって決めているのよ」

 それを聞いてレイラも微笑んだ。

「リア様のお好きなように」

 いつものことだ。

 リアは人からやれと言われたことには目もくれず、やるなと言われたことをやりたがる。

 ドレスについても、誰かが選んだものではなく、選ばなかったものを着たがる。

 《その場に適切だから》とかいう理由ではなく、ただ純粋に《自分が着たいと思うドレスを着たい》のがリアだ。

 レイラはそれを分かっていて、あえてピンクの方が似合っていると言った。

 本当は赤色の方が似合っていると思ったから。

「モルちゃんも、たまには黒以外の服を着てみたらいいのに。赤とか青のドレス、きっと似合うと思うけどな……」

 リアはレイラの全身を頭からつま先まで眺めた。

「お気遣い感謝いたします。私には勿体ないお言葉です。しかし私は護衛なので、何かあったとき動けなくては困ります」

 レイラに断られて、リアはがっかりした様子だった。

「そう。残念。いつかモルちゃんとも、一緒にドレスアップして出かけてみたいな」

 口をとがらせて拗ねるリアは、レイラに着せてみたくて手にとっていたドレスを、そっと元に戻した。



 *     *     *



 コンサートホールに着くなり、嬉しさをこらえきれないリアはレイラを置いて駆けだした。

 ドレスを着ているとは思えない速さで階段を駆け上がる。

「リア様! お待ち下さい!」

 レイラは慌てて追いかけた。

 子供のようにそそっかしい二人のことを、周囲の大人たちは何事かと振り返る。

 リアを呼びながら、レイラは注目されているのが少し恥ずかしかった。

「モルちゃん、こっち! ここの席よ」

 レイラの心情や周囲の視線などお構いなしに、リアは手招きする。

 走ったせいで乱れた呼吸を整え、歩み寄る。

 リアはチケットと席の番号を見比べて頷き、満足した様子で腰を下ろす。

 レイラが上着を受け取って、壁際に下がろうとすると、「どこに行くの? モルちゃんも早く座りなさいよ」と引き留められる。

「え、私の席もあるのですか?」

「あたりまえじゃない。二時間近くも立っていたら足が棒になってしまうわ。ほら、座って。始まっちゃう!」

「ありがとうございます。失礼します」

 レイラはリアの計らいに感謝して、隣の席に腰を下ろした。

 リアの父親であるサラバン伯爵は、リアのめにオーケストラの真正面に位置する三階の特等席を取っていた。

 ただでさえ名高いオーケストラの演奏会だというのに、特等席となれば目が飛び出るほどの額がするだろう。

 それなのに、従者の分まで席を用意してくれるなんて、やはりサラバン伯爵は並みの貴族ではない。

 そんなことを考えていると、ホールの明かりが落とされ舞台に照明が当てられた。

 おしゃべりをしていた貴族たちが静まり返り、ホールは静寂に包まれる。

 心地よい緊張感の中、指揮者が舞台袖から登場する。

 後ろにいるオーケストラ団員たちは、弓でバイオリンを叩いたり拍手したりして彼を迎え入れた。

 それを後押しするように会場からも拍手が湧く。

 指揮者は頭を下げて挨拶をしながら舞台の中央まで歩いてきて、指揮台に上り、くるりと背を向けると、まるで魔法使いが魔法をかけるときのように指揮棒を宙に掲げた。

 その動作を合図に拍手が止む。

 ──静寂。

 指揮者がオーケストラに目配せをして、掲げた指揮棒を振り下ろした瞬間、一瞬で会場の空気が破られた。

 E. エルガー 作曲の 行進曲『威風堂々』作品39 より 第1番 ニ長調。

 歯切れの良い音の粒が勢いよく空気中にはじけ散る。

 打楽器の音がメリハリ良く響き、バイオリンやフルートが雄大なメロディーを奏でる。

 行進曲らしい前半部から、中盤にかけてゆったりとした曲調に変化していく。

 そして落ち着いた曲調になったかと思えばまた前半の曲調に戻り、再度ゆったりとした曲調に戻る。

 メロディーはこれを繰り返し、しかし次第に壮大さを増しながらクライマックスまで一息に駆け抜ける。

 観客たちはそれぞれ首を振ってリズムを取ったり体を小さく揺らしたりしながら音楽を楽しんでいた。

 隣を見れば、リアも楽しそうに口角を上げて音楽に耳を傾けている。

 言葉で形容できないほど、素晴らしい演奏だ。

 曲が終わると割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 まだ演奏会は終わりでないというのに、演奏のすばらしさに観客はいてもたってもいられなかったのだ。

 誰に促されるでもなく、レイラも自然と拍手を送っていた。

 そんな中、ひときわ大きな拍手が起こり、袖から舞台中央に顔立ちの整った青年が歩いてくる。

「あ!」

 リアが短く声を上げ、前のめりになって目を輝かす。

 その反応から、彼が今日の演奏会の目当てであることを悟った。

 どうやら青年はピアノ弾きらしく、舞台中央に用意されたピアノの椅子に腰を下ろした。

 どこかで見た顔な気がするのは気のせいか。

 レイラは懸命に記憶を探る。

 すっと通った鼻筋にすらりとした体躯。

 金色の透き通った髪が印象的で……。

(そうだ! 今朝見た資料の中にいたんだ! 確か、貴族ではないけれど最近よく演奏会に参加しているピアノ弾きで、腕前もさることながら、その美しい顔立ちで貴族の令嬢から注目を集めているという──)

 ひょっとして、リアの浮気相手というのは彼のことではないだろうか?

 レイラがリアの浮足立った反応に注目していると、青年と指揮者は目配せをして次の演奏を始めた。

 ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第二番」。

 レイラも良く知る名曲だった。

 演奏が始まる直前まで、意識は完全に殺し屋としての頭になっていたのに、音が鳴った途端、一瞬にして音楽の世界に引き込まれた。

 ピアノの音色がオーケストラの音に違和感なくなじみ、それでいて確固たる存在感を放っている。

 繊細で、どこか懐かしさを感じさせる響きに包まれれば夢見心地だった。

 オーケストラの豊かな音色を、ピアノの音が一つにまとめ上げている。

 圧巻。

 演奏を終えると、やりきった表情で青年はピアノの椅子から立ち上がり、指揮者と拍手を交わした。

 惜しみない拍手に見送られながら、彼は舞台を後にした。


 その後の演奏もアンコールもどれも素晴らしく、あっという間に時間は過ぎていった。

「今日のオーケストラはさすが名門なだけあって、惚れ惚れするような演奏だったわね。特にあのラフマニノフ! あぁ、もう一度聴きたいわ」

 リアは演奏が終わってからもしばらく席についたまま、音楽の余韻に浸っていた。

 突き抜けて素晴らしい音楽というのは、聴いた者に『帰りたくない』と思わせる力があるものだ。

「そうですね。素人の私でも分かるほど圧倒的な演奏でした」

 本当に、言葉にして表現できないほど心を揺さぶられる音楽だった。

 まるですべてを包み癒すような。

 演奏を聴いている間、レイラは音色の優しさから母を思い出していたが、不思議と夕べのように辛くなかった。

「モルちゃん、悪いんだけど、私、もう少しここで余韻に浸っていたいの。辻馬車を拾って帰るから、一人にしてくれる?」

 レイラの頭の中が一気に仕事モードに切り替わる。

 それはピアノ弾きの青年と密かに会うための口実ではないのだろうか。

 あえて彼女の申し出を受け入れて偵察すれば不倫の証拠を掴めるかもしれないが、護衛として一人にするわけにはいかないので、とりあえず食い下がる。

「そうして差し上げたいところですが、護衛役としてリア様をお一人にするわけにはいきません」

 リアの顔色が曇る。

「どうしても一人になりたいのよ、ダメ?」

 まるで子猫のよう。

 こんなふうにお願いされれば、大抵の男は彼女のわがままを許してしまうだろう。

「申し訳ありません」

 願いを聞き入れてもらえず、頬を膨らませて拗ねるリア。

「分かったわよ。本当のことを言うわ。──実を言うと、この後会う約束をしている人がいるの。でも、二人きりで会いたくて……。話の内容もあまり聞かれたくなくないし。だから席を外していてほしいのよ」

 リアは仕方なくといった様子で白状した。

 しかしその告白を聞いて、レイラはますます彼女を一人にするわけにはいかなくなった。

「そういうことでしたか。では、私はお二人の邪魔をしないよう、少し離れた場所から見守らせていただきます」

「だめよ。その人は用心深いんだから。それに相手が誰なのか、モルちゃんにだって知られたくないわ」

 レイラはどうしたものかと思案した。

 リアの許可を得て監視できれば最善だが、無理に同席を強要すれば会うことをやめてしまうかもしれない。

 ここは大人しく従うふりをして、こっそり監視するのが賢明だろう。

「仕方ないですね。分かりました。今日だけですよ。ただし私が辻馬車を引き止めておくので、その近辺で待ち合わせてください。私は隣の通りで待っています。なので用が済みましたらそちらへいらしてください。それからここは警備が固いのでよっぽど大丈夫かと思いますが、万が一何かあっては困りますので、これを持っていてください」

 レイラはポケットから細い笛を取り出し、リアに手渡した。

「身の危険が迫った時はこれを思い切り吹いてください。広範囲に聞こえる笛です。吹けば誰かが駆けつけてくれるはずです」

 リアはレイラの手から笛を受け取り、大切そうに握り締めた。

「ありがとう。さすがモルちゃん」

 嬉しそうに満面の笑みを浮かべるリアに、レイラもぎこちなく微笑み返した。



 *     *     *



 大人しく引き下がるふりをしてから、リアを探し出すのに時間はかからなかった。

 というのも、彼女がレイラの言いつけを忠実に守り、レイラが辻場馬車を引き止めた近くにやって来たからだった。

 レイラが引き留めておいた辻馬車の業者は武勇に優れた人物で、あらかじめ周囲に危険がないか警戒してくれるようチップを渡して頼んでおいた。

 リアがいるのはコンサートホールの脇にある雑木林の入り口あたりで、木々が鬱蒼と生い茂っている、人気のない場所だった。

 先ほどから、リアは誰かが来るのを待っている。

 レイラは足音を立てないよう気をつけて、木陰に身を隠しながら彼女の顔が見えるところまで近づいた。

 ほどなくして、コンサートホールの奥の方から人目を気にしながら駆けてくる人物がいた。

「リア様、お会いしたかったです。待たせてしまってすみません」

 声の主はやはり。

 ピアノ弾きの青年はリアの前で立ち止まると、顔を隠すために目深にかぶっていた帽子を取った。

「いいのよ。私も今来たところだから」

 リアは頬を緩め、嬉しそうに言った。

「今日の演奏素晴らしかったわ。あなたの演奏したラフマニノフが、耳に残って離れないの」

「そう言っていただけて光栄です」

 リアは甘えるように青年の胸元に手を添える。

 リアは彼の耳元に口を寄せて何か言っていたが、内容を聞き取ることはできなかった。

 その後二人は二言三言会話を交わし、リアは離れがたい様子だったが、青年に諭されて仕方なく頷き、辻馬車を止めてある大通りの方へと歩いて行った。

 青年も踵を返しコンサートホールへ戻って行った。



 *     *     *



 屋敷に戻ったレイラは、ディーンが用意してくれた夜食のサンドイッチを頬張りつつ、資料の山をかき分けて、ピアノ弾きの青年の資料を引っ張り出し、再度目を通していた。

 資料を持ったままベッドの上に座り、壁際に並べたクッションにもたれかかりながら、ベッドサイドのテーブルの上に置いてあったサンドイッチをもう一切れ取り、齧る。

 ライ麦のパンにトマトとチーズ、それからレタスが挟まっている。

 修道院では毎日、ほとんど汁のような粥しか出なかったので、召使いたちの残りものであるパサパサのサンドイッチでも、レイラにはご馳走だった。

 この屋敷で生活していると目を見張るようなご馳走を目にするが、それでもその感覚は変わっていない。

 ──さて、ピアノ弾きの青年に関する情報はといえば、驚くほど希薄だった。

【出身:不明 名前:ルイ】

 まるで意図して情報が消されているかのような、そんな不自然さがあった。

『両親を幼いころに亡くし、いまは亡き叔母にピアノを習った。その後、ピアノの腕を磨くためにいろんな国を放浪している』とのことだが、そもそもピアノというのは高尚な人種が身につける教養だ。

 低俗な身分の人間に触れる機会などない。

 それにピアノは高額で、そう簡単に手に入るものではないだろう。

 彼は間違いなく身分の高い人間であるはずなのに、〝出身不明〟で〝貴族〟と記載されていないことが謎だった。

 何か身分を隠さなくてはならない理由でもあるのだろうか。

 大方の人間は貧しいピアノ弾きが悲しい身の上を背負っていると聞けば同情するのかもしれないが、レイラにはどうも裏があるように思えてならなかった。

 彼は現在、知り合いの貴族の屋敷の離れに居候しているらしい。

 さっそく今からでもそこに出向き、様子を観察してみようか。

 偵察だろうが何だろうが、気が紛れるならなんでもいい。

 できるだけ考えたり感じたりする時間を作りたくない。

 レイラは残りのサンドイッチを口に放りこむと、数回噛み、水をグラスに注いで一息に飲み干した。

 てきぱきと服を着替え、護身用のナイフと銃を装備する。

 そしていつものように颯爽と、屋敷の裏口から《ルイ》というターゲットのいる屋敷へ向かった。



 *     *     *



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