母の形見と反撃のよすが
勢いよく飛び起きて目が覚めた時、頬をつと涙が伝っていた。
(ごめんなさい、母様。私のせいで……。ごめんなさい)
両手の平で顔を覆い、何度も謝罪を繰り返す。
夢の中で触れた記憶とはいえ、それに付随して蘇る痛みは本物だ。
心がまだ囚われていて、現実に焦点が定まらない。
罪悪感と後悔の念に蝕まれ、朦朧とした意識のまま、ふと体があたたかな温もりに包まれていることに気づく。
ルイに抱きしめられているのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。
そしてそれを理解するのと同時に、夢から醒めたのだと自覚した。
「大丈夫?」
レイラの涙が止まったタイミングで、ルイが心配そうに問いかける。
頬を伝う涙を指で拭い、「嫌な夢でもみていたの? ずっとうなされていたけれど」
レイラの背中をさすり、ハンカチを差し出す。
「ありがとう」
ハンカチを受け取り、目元を拭いながら、レイラはゆっくりと呼吸する。
レイラをなだめようと、ルイはしなやかな指で髪を梳く。
こちらへ伸ばされるその腕とは反対の腕に、そういえば弾丸がかすったことを思い出す。
糊のきいた薄いシャツの下で、包帯が巻かれているのが透けて見えた。
「ルイ、腕はもう大丈夫なの? まだ痛む?」
不安げな瞳で問えば、「僕を心配してくれるの?」と頬を撫でられる。
「大丈夫だよ。いまは痛くない。弾はかすっただけで、直接喰らったわけじゃないからね。確かに動かすと少し痛むけど、重症ってわけじゃない」
「良かった……」
ほっとして、レイラは胸をなでおろす。
「君を危険な目に遭わせるなんて許せないと、刺客以上に自分に腹が立っていたけれど……。でも、こんなふうに君に心配してもらえるなら、怪我をするのも悪くないかもしれない、なんて不謹慎かな」
ルイは目を細めて笑い、レイラの額にキスをする。
「もう、馬鹿こと言わないで」
レイラはルイの軽口を流せるくらいに、落ち着きを取り戻していた。
その様子を見て、ルイも安心したようだ。
「良かった。顔色が少し良くなってきた」
「えぇ。もうだいぶ良いわ。ただちょっと、うなされていたのは……。夢で昔の記憶を思い出して……」
「昔の記憶……?」
ルイは神妙な顔で尋ねる。
ぎゅっとレイラがハンカチを握ったのを見て、話したくない事なのかもしれない、と敏感に察知したようだ。
「これでも飲むかい? 神経が落ち着く成分の入ったハーブティだよ。眠れない夜に僕も良く飲むんだ」
手渡された紅茶は、透き通った樺色で、心やすらぐ香りがした。
「ありがとう」
──と、受け取った紅茶を飲もうと視線を落としたときだった。
ティーカップの絵柄に目を見張る。
(この紋章!!)
がばッと勢いよく顔を上げ、ルイの服の袖を掴む。
「ねぇ、ルイ。私、夢を見て思い出したことがあるの」
「思い出したこと?」
ルイはきょとんとした顔で繰り返し、しかしすぐに真面目な顔に戻る。
「聞かせて」、とレイラの手に手を重ねる。
頷いてレイラは、夢を見て思い出したすべてを、余すことなくルイに話して聞かせた。
ルイは時折痛ましげに顔を歪め、レイラが言葉に詰まる度に大丈夫だよ、と手を握り励ました。
「……あの日、よくわからない大人たちに襲われたとき、その人たちはみんな同じ格好をしていたわ。そしてその服の胸元と腰に挿された剣の柄に刻まれていたの」
そこで一度言葉を区切り、ルイの目をじっと見る。
「──これと同じ絵柄が。ロゼッタ王国の紋章が」
レイラの言葉にルイは目を丸くする。
「本当かい?」
レイラは頷き、ティーカップにあしらわれた紋章を指の腹で撫でる。
「間違いないわ。これと同じ紋章だった」
そうか、と愕然とした様子でルイは、指を顎に当てて考え込んだ。
「……レイラ、それはもしかすると、僕の探し求めていたパズルの最後のピースかもしれない」
「──間違いないんだね?」と確かめられ、レイラはこくりと頷いた。
* * *
レイラが過去の記憶や紋章の関わり合いについて話した後は、ルイがこれまで調べていた内容について明かす番だった。
「実はレイラ、君がこの国に来てからずっと、僕は君の両親について調べていたんだ」
「私の、両親?」
「そう。君の両親について。言っただろう? 僕は本気で君と結婚するつもりだと。死力を尽くして父さんを、国王を納得させてみせる。それにあたって、まずは君の地位を獲得する必要があると思ったんだ。それでとりあえず出自を調べてみることにした。直接君に聞けたら良かったんだけど、僕は自分が何者かに監視されているのを感じていたから、安易に動くことができなかった。スパイに勘づいているのを悟られるわけにはいかないし、ましてやむやみに君に接触して、君にまで危害が及んだらと思うと怖くて、声をかけることができなかった。それで、仕事のふりをして書庫に籠っていた。会いに行くって約束をしたのに、守れなくてごめん」
ルイは項垂れて続ける。
「──それで実際に調べてみると、……おかしいんだ。君のお母様の記録は見つかるのに、お父様の記録は見つからない。名前や役職の資料は紛失していたし、君の出生記録も抜き取られて無くなっていた。まるで君の父親の痕跡を、この世に残すまいとでもするように」
そこで言葉を区切り、ルイはレイラの目を見て尋ねる。
「ねぇ、レイラ。君のお父様は一体誰なんだい?」
──私の、お父様。
レイラは脳内で復唱し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「私の、父様は……、」
こめかみに力を入れ、記憶の糸を手繰り寄せる。
「確か父様は、私が物心ついたときにはもう……。幼い頃、私は母様と街から離れた小屋で暮らしていて、その時の記憶しかないわ。父様と過ごした記憶は何も残ってないの。名前を呼ばれた記憶も、一緒に食事をした記憶も、抱きしめられた記憶も……」
ルイは静かにレイラを抱き寄せ、様子を伺う。
そして慎重に問いかける。
「──君のお母様に、お父様について聞いたことは?」
「あるわ。何度か。『父様ってどんな人なの?』『いないのはどうして?』って。すると母様は、『あなたのお父様は病気で、レイラが生まれてすぐに亡くなってしまったのよ』と、寂しそうな顔で教えてくれた」
そうだったんだ……、とルイは頷き、慰めるようにレイラの背を撫でる。
そしてぽつり、疑問に思ったことを口にする。
「でも、どうしてわざわざ街から離れた小屋で生活をしていたんだろう」
訊かれて、どうしてだろう、と考える。
「さぁ、そういえば幼い頃、私も疑問に思っていた気がする。改めて言われてみると不思議よね。その小屋は街から離れた場所にあって、でも生活に必要なものは、──名前は忘れてしまったけれど、持ってきてくれる人がいて、だから特に不便に思ったことはなくて。……あぁ! そういえば、私の母様は先祖代々魔女の末裔で、青みがかった黒髪をしているの。私も受け継いでいるんだけど、それを隠す為じゃないかしら」
「魔女の末裔?」
ルイは方眉を上げる。
「ええ」
「君のお母様がそう言ったの?」
「そうよ。黒髪は目立つから、あまり街に出てはいけないって。……ほら、《魔女》なんて良い印象がないじゃない? だから外へ出るときはローブをかぶって髪と顔を隠すよう言われていたわ」
「……そう」
どこか納得いかない様子で、ルイは顎を撫でる。
──と、ふとルイの視線がレイラの指先に止まる。
「レイラ、その指輪は?」
「これ? これは母様の形見の指輪なの。父様にプロポーズされたときにもらった婚約指輪だと聞いているわ。肌身離さず、大切にしているの」
レイラは母を思い出し、慈しむような視線を指輪に落とす。
「そうだったんだね。でも、その指輪、以前はつけていなかったよね? 僕が気づかなかっただけかもしれないけど、記憶にある限り、その指輪を見るのは初めてな気がする」
「そうね、以前はつけていなかったわ。この国へ来る前は、母様の記憶に触れるのが、──母様の死を思い出すのが怖くて、身に着けることができなかった。でも、ルイとジャスミン嬢の婚約を知ってから、つけるようにしているの。なんだか、母様が力をくれるような気がして」
「そうだったんだ……。不安な気持ちにさせてごめんね」
ルイはレイラを抱き寄せ額にキスをする。
頬を撫でて髪を梳き、まっすぐに見つめる。
《君以外と結婚するつもりはない》と、熱のこもった瞳で伝えてくる。
あまりに熱っぽく見つめられ、レイラは息を飲む。
「指輪、ちょっと見てもいい?」
細いレイラの指を這い、指輪を触る。
「ええ」
レイラは指輪をはずし、ルイに渡す。
「ありがとう」
ルイは指輪を観察し、内側に刻まれている模様に気づく。
そして「これは!」と驚きの声を上げる。
「レイラ、この指輪をいったいどこで?」
「さぁ、どこと聞かれても。あまり詳しく指輪について話を聞いたことがないから分からないわ。本当に、お父様からもらったとしか……」
「ひょっとして、演奏会のときもつけていた?」
「ええ。それがどうかした?」
「いや、いいんだ」
ルイはかぶりを振り、「あのね、レイラ、ここを見て」と、指輪の内側に刻まれた模様を見せる。
「この模様に見覚えはない?」
これまで注意して眺めたことがなかったけれど、よく見てみ見ると。
「……っ!!」
驚いて、勢いよく視線を上げる。
「ルイ、これって」
「うん。──ロゼッタ王国の紋章だ」
「そんな……、え、どういうこと?」
頭の整理が追い付かず、レイラは混乱する。
ルイはレイラの指に指輪を戻し、落ち着かせようとそのまま握る。
「レイラ。どうやら君のお母様を襲ったのは、ロゼッタ王国の王族らしい」
「……でも、どうしてロゼッタ王国の王族が母様を? 私と母はずっと街外れの小屋で暮らしていたのよ。ロゼッタ王国の王族と母様との間に関わりなんてないはずなのに、命を狙われる理由がどこにあるの?」
「これがその理由だろう」
ルイはレイラの手を持ち上げ、指輪にそっと触れる。
「この指輪が?」
こくり、ルイは頷く。
「これはただの指輪じゃない。《エンゲージリング》だよ。ロゼッタ国王が本命の女性にのみ渡す、先代から受け継がれている婚約指輪。ところが現在の王妃にはその指輪が渡されていない。そのことで少し問題になったことがあったんだ。エンゲージリングが無くなったって、騒ぎになったのを覚えているよ。盗まれたのかもしれないと国中が捜索されたけど、結局出てこなかった。……まさか君が、──君のお母様がその指輪を持っていたとはね」
レイラは顔を上げ、ルイの顔をまじまじと見る。
「……それはつまり、ロゼッタ国王が私の母様にこの指輪を送った《父様》だということ?」
「そういうことになるね。そうだとすれば、君のお母様が命を狙われた説明もつく。おそらく黒幕はロゼッタ王妃。由緒正しい王族の血筋を持つ現ロゼッタ王妃にとって、自分より身分が劣るにも関わらず、国王の心を奪った君のお母様はあってはならない存在だ。ありていに言って目障りだったんだろう。それで命を狙った。存在ごと消して、指輪を奪おうとしたんだ。そう考えると辻褄が合う。結局王妃は、君のお母さんから指輪を取り返すことはできなかったけど、君が生きていることを知り、今度は君を狙っている。──となると、やはり、ピクニックで狙われたのはレイラ、ジャスミン嬢でも僕でもなく、君だったんだ」
「そんな……」
「その指輪はそれだけの価値がある代物なんだよ。──ロゼッタ王妃は何をするか分からない冷徹な人物として有名だ。気を付けないと……」
自分に言い聞かせるように言い、切なげな顔をする。
「本当なら四六時中君の側にいて、君のことを守るのが僕の使命なのに、それができないなんて、不甲斐ないよ。こんなところまでついてこさせて、慣れない土地で辛い思いをさせて、挙句命を狙われるなんて……。僕のせいだ。僕のせいで君とロゼッタ王国に接点ができてしまった」
(……違う。ルイを巻き込んだのは私の方だ)
そのことに気づいてレイラは、言葉を失った。
私は狙われている。
危険因子は私なんだ。
(私はこのまま、ここにいていいのだろうか)
自分の存在がルイの命を危険にさらすなら、ここにいるわけにはいかない。
『巻き込みたくなくて』とルイは言った。
それはレイラにとっても同じことだった。
そっと、指輪を撫でる。
(──母様、私、どうしたらいい?)
ひんやりとした細い指輪の輪郭を辿りながら、レイラはリアの言葉を思い出していた。
* * *
長時間レイラにつきっきりで、ルイの姿が見えないことにヒステリーを起こしかけているジャスミン嬢に呼ばれ、ルイは行きたくなさそうに返事を渋ったが、レイラが行くよう促した。
「すぐ戻る」
ルイは溜息を吐いて、重い腰を上げると、名残惜しそうに部屋を出て行った。
その背を見送り、途端にレイラの顔から表情が抜けていく。
無機質で艶やかな天井を眺めながら、『良ければ私の屋敷にいらっしゃい』というリアの言葉を思い出す。
(……それも悪くないかもしれない。)
──悪くない?
自分の言葉にひっかかり、ゾッとする。
《悪くない》なんて、いつの間に自分はそんなに贅沢になってしまったのだろう。
身に余る申し出のはずなに、《悪くない》なんて。
ミアと一緒に不自由のない生活ができて、命を危険にさらす必要もなく、ルイの身も脅かされず、国も安定してすべてが丸く収まる。
──これ以上の選択肢があるだろうか?
もちろん、母の命を奪ったロゼッタ王国の者たちへの恨みが消えることはないけれど、自分のために大切な人が傷つくところは見たくない。
誰も危険な目に遭わせたくない。
それが私の、一番の願いだったはずだから。
* * *




