あの日
混濁する意識の中で、夢を見ているのだ、とレイラは分かっていた。
しかしそれは夢というにはあまりにレイラの知っている景色で、どうやら意識は、過去の記憶を彷徨っているらしかった。
レイラの周りを取り囲む記憶は、どれもレイラが幼い頃の思い出ばかり。
小さいレイラの側にはまだ、生きていた頃の母がいた。
背丈が母の腰骨にも満たないレイラは、夢見鳥のように軽やかな足取りで母の後をついてまわり、手伝いをしたり足元にしがみついたりして甘えている。
それらの記憶は、思い出すと辛くなるから、普段、意識して思い出さないようにしているものだった。
それなのに。
思いがけず過去の記憶に触れて、きゅうっと胸が締め付けられる。
──母様。
触れようと手を伸ばしてみても、めいっぱい伸ばした指先は宙を掴むだけ。
それはまるで、水面に映る月を掬っているかのようで。
実体には触れられない。
もう、ここにはいない、存在だから──。
空しさが胸にじんわり広がる。
目の前にいる母は、脳内に浮かび上がる触れられない幻。
脳内でのみ再生できる映像。
見ていることしかできない。
記憶の中のレイラは、てらいなく無邪気で元気だった。
レイラは大きな記憶の波に飲まれていく。
(これはまだ、《あの日》の前の記憶だ)
外で畑仕事と洗濯を終え、戻ってきたレイラと母のセレナ。
一通り家の仕事を終え、「一息つこうか」とセレナがグラスに水をよそい、椅子に腰を下ろす。
はしゃぎながらセレナの太ももに手を乗せたレイラは、「お願い、お母さん、どうしても行きたいの!!」と、ぴょんぴょん跳ねながら懇願する。
「明日広場でね、大道芸人の人が人形劇をやるんだって。いろんなお店が出て、パレードをして、楽器隊の演奏も見られるんだよ! 美味しい食べ物もたくさんあるんだって! 私行きたいよ!」
セレナは水を一口飲んでテーブルに戻すと、悲しそうに目を顰め、「ダメよ」と言った。
「なんで? どうしてよ!?」
瞬時にレイラの顔色が曇る。
納得できないと頬を膨らませる。
「ごめんなさいね、レイラ。でもそれだけはどうしてもダメなの。許すわけにはいかないわ」
泣きそうに顔を歪め、レイラは怒る。
「外は危ないから? それなら母様も一緒に来たらいいじゃない。いやよ、私、絶対に行くんだから!!」
腕を叩かれ、セレナは困ったように眉を寄せる。
「そうよね。行きたいわよね。レイラの気持ちは分かっているわ。でもレイラのことが大事だからダメなのよ。許して。お母さんは外に出るわけにいかないの。街に出たら危ない目に遭うわ。お母さんを探している人がいるの。その人たちに見つかったら、もう私とレイラは平和には暮らせない。そんなの嫌でしょう? ……レイラには我慢をさせてばかりで、お母さんも辛いけど、お願い。明日は行かないって約束して」
一生懸命なだめる母の言葉も、レイラの耳には届かない。
目に涙を溜めて、レイラは首を横に振った。
「……いやよ」
セレナはレイラを抱きしめる。
「お願い」
優しくレイラの髪を撫でる。
こんなのずるいと思う。
レイラは泣きじゃくり、子どもながらに何か複雑な事情があるらしいことは感じ取っていたけれど、それでも最後まで、『行かない』とは頑なに口にしなかった。
* * *
その先に待ち受ける悲劇を知っているから、レイラはこれ以上記憶を見たくないと思う。
瞼を閉じて逃げようにも瞼は既に下りている。
やめて、と思うのに、その流れは止まらない。
母に『行かないと約束して』と言われた翌日、広場では年に一度の国を挙げての大規模な祭典が開かれていた。
いま思えば、母の言いつけを守り、大人しく家にいればよかったのだ。
レイラの胸はズキズキ痛む。
忘れもしない。
その日はレイラが、初めて母との約束を破り、自分の意志を貫いた日だった。
母の言いつけに従わなかったのは、もちろん祭典を見たかったのもあるけれど、それだけでなく、外の世界から隔離するように、家に匿まわれていなければならない理由が分からなかったからでもあった。
どうしてそこまで危険に備え、隠れて生きなくてはならないのか。
いち平民の私たちが。
『お母さんを探している人がいる』という母の言葉も、レイラにはなんだか現実味がなくて、過保護になっているとしか思えなかった。
レイラは手伝いをして貯めた小遣いを握りしめ、母が庭仕事をしているタイミングを見計らい、こっそり家を抜け出した。
そのささいな反抗は、普通の平民の子どもなら、本当に《ささいなこと》で済まされるはずだった。
幼き日のレイラは、母が娘を守るのに必死なことを知らない、どこにでもいるただの七歳の少女だった。
そして唐突に悲劇は起こり、唐突だからこそ悲劇なのだ
* * *
初めて鳥かごから空へ飛び立った小鳥の気分だった。
全部知らない、空気も、音も、匂いも初めて感じる世界が広がっている。
目に映るものすべてが真新しくて、ときめきで胸が高鳴った。
通ったことのない路地は人々の活気で満ちていて、食べたことのない食材やドレス、家具、工芸品など、面白いもので溢れていた。
はやる気持ちを抑えきれず、足取りが速くなる。
「お母さん、中央広場で人形劇がやってるんだって! 僕見てみたい」
当てもなく歩いていると、母親に手を引かれて歩く小さな男の子が、レイラの目の前ではしゃいでいた。
「そうなの? じゃあ、お母さんと一緒に行ってみましょうか」
「やったぁ!」
(人形劇!!)
親子の会話に心が跳ねる。
そういえば、この前路地に落ちていた広告に、地方を旅する有名な道化師が人形劇を披露すると書いてあったっけ。
ずっと見てみたいと思っていたのだ。
レイラは親子の後を追い、中央広場へ行くことにした。
* * *
レイラが胸を躍らせるその頃、セレナは庭仕事を終え、手洗い場で手を洗っていた。
いつもなら後をついて回って手伝いをしたがる娘が、どういうわけか今日は姿を見せなかったことに、少し疑問を抱きながら。
(部屋で寝ているのかしら……?)
手を拭いて階段を上がり、レイラの部屋のドアを開ける。
「レイラ?」
しんとして、返事がない。
(おかしいな……)
クロエは家にいるはずの娘をあちこち探し回る。
寝室や台所も覗いてみたけれど、どこにもレイラの姿はない。
(まさか!!)
嫌な予感がして、テーブルの上をみてみれば、覚えたてのいびつな文字で書き置きがしてあった。
手のひらほどの羊皮紙の切れ端に、『夜ご飯までには帰ります』と、風で飛ばされないよう石を乗せて。
油断した。
(正面玄関の鍵は閉めておいたのに。あの子まさか裏口から……?)
聞き分けの良い子だから、きっと約束を守ってくれると思っていたのに。
時計を見れば時刻は午後三時を示している。
いつもなら一緒にクッキーをお茶菓子に、紅茶を飲んでいる時間だ。
あれだけ楽しみにしている時間をふいにしてまで、あとで叱られると分かっていても、祭典に行くことを選んだのか。
セレナは紙切れに視線を落とし、溜息を吐く。
(早く探しに行かないと)
手遅れになる前に。
胸騒ぎを打ち消したくて、考えるより先に体を動かす。
人々から顔を隠すためにローブを纏い、足速に広場へ繋がる市場の裏通りへ向かった。
* * *
広場でひときわ目立っているその出し物は、手回しオルガンというらしい。
黒いハットをかぶり、サスペンダーの着いたズボンを履いている大道芸人が、手回しオルガンのハンドルをぐるぐる回すと、薄い木の板が金具の方へ吸い込まれ、メロディーが紡がれる。
よどみなく奏でられる音楽と、繊細な模様の施された美しい機械。
レイラは一瞬で心を奪われた。
どういう仕組みになっているのだろう。
知りたくて人混みの一番前に行き、身を乗り出して食い入るように眺める。
間近で耳馴染みのあるメロディーに聴き入っていると、どこからか操り人形師が現れ、音楽に合わせて人形を躍らせ始める。
中折れ帽子をかぶった小さな少年の人形は、石でできた靴を石畳にたたきつけ、タイミングよくリズムを刻む。
タップダンスの要領だ。
歓声が上がり、リズムに合わせて人々は手拍子をする。
その様子を見て、レイラも音楽に合わせて体を揺らしながら手を叩く。
(まだ帰りたくない。もう少し、これが終わるまで見ていたい)
だって家に帰ったら、またしばらく街へは来られないだろうから。
後ろめたさを感じながらも、レイラは今だけは自分の気持ちを尊重したいと思うのだった。
オルガンの音が止む。
芸人が次の曲のリクエストを観客に仰ぐ。
周囲を見渡せば、先ほど、『人形劇を見たい!』と言っていた男の子が手を挙げていた。
幸運にも指名され、好きな曲をリクエストする。
選ばれた記念に小さなメダルを渡され、嬉し気に母親を振り返る。
『いいなぁ』と、レイラは『曲名が分かれば自分もリクエストするのに』と悔しく思う。
大道芸人が薄い板をオルガンにセットし、新たな音楽を奏で始める。
操り人形師は曲を聴くなり新たに女の子の人形を取り出し、先ほどの男の子の人形とダンス混じりの劇をさせる。
レイラも知る、その古くから伝承されている民謡に沿って、その劇は進められる。
音楽とともに展開されるストーリーにレイラの心はまた躍る。
まさかそのとき既に、魔の手がすぐそこまで迫っているなんて夢にも思わずに──。
* * *
──濡れ羽色。
青みを帯びた黒。
古くから女性の美しい黒髪はそう形容されてきた。
髪に豊富に水分が含まれていることで生まれる艶が、発光して青く見える。
民族によって髪質は異なり、青みを帯びた黒は珍しい。
その艶やかな黒髪は、雨に濡れた烏を彷彿とさせ、濡れ烏とも呼ばれる。
しかし、美しさを称えたはずのその形容詞は、いつからか異端者をあぶりだすための目印となった。
──濡れ羽色の髪。
それはその髪を持つ一族が、魔女の末裔である証。
魔女、といっても特殊な力があるわけでも、呪詛を用いて人を殺められるわけでもなく、ただ薬草の知識に優れているという、それだけのことだった。
ところが人々は、自分たちよりも聡明で薬草の知識に優れている《魔女》たちを恐れ、忌み嫌った。
以来、魔女を根絶やしにすべく魔女狩りが行われ、先代たちはその時代を逃れ逃れ生き延びた。
彼女たちから受け継いだ遺伝子は、セレナとレイラの美しい黒髪に宿っている。
いまでこそ魔女の存在は伝説になり、魔女狩りなど行われていないが、いまだに髪色に対する差別意識は残っており、濡れ羽色の髪は蔑まれている。
ただでさえ髪色が目につくというのに、セレナは、レイラがおそらくあの黒いワンピースを着ているだろうとにらんでいた。
先祖代々伝わる大切な服。
レイラが気に入っている一張羅。
レイラとセレナにとっては貴重な一着だが、一般的に、黒の服は葬式のとき以外で着ることなどほとんどない。
ましてや今日は収穫祭だ。
人の溢れるお祭りで身に纏う色ではない。
色とりどりの服を身に着けている人混みの中、自分は異質な存在だと主張しているようなものだろう。
いつどこで、誰に目を付けられるか分からない。
王族だって、羽を伸ばして外を出回っているというのに。
「あのバカ娘」
とにかく早く見つけて連れ戻さないと、取り返しのつかないことになる。
足早に歩き、ようやく市場を抜けて開けた場所に出る。
王宮前の広場。
そこは出店や大道芸人たちが催しものをして、ひときわ活気で満ちていた。
(これだけの人混みから、どうやって……)
絶望しかけたところへ、不意に聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた。
音のする方へ顔を向けると、たくさんの子どもが集まって、手回しオルガンと操り人形のダンスに夢中になっていた。
子どもたちの親も輪になって手拍子をしているから、それに隠れて子どもたちの顔までは見えなかったけれど、なんとなくレイラがいそうな気がして、セレナは吸い込まれるようにそちらへ向かった。
* * *
手回しオルガンの人だかりは、時間が経っても収まりを見せることはなかった。
それどころか、どんどん人が集まってくる。
どうやら輪の中心にいる操り人形師は地方でも有名らしく、方々を旅して回っている彼のパフォーマンスはめったに見られるものではないようだ。
(こんなに王宮の人間がいるなんて……)
その操り人形師の芸を見られるとあって、この機に一目拝もうと、市民に混じって王宮の官人や兵士まで姿を見せていた。
セレナはローブのフードを目深にかぶり、後方から様子を窺う。
視界に映るのは嬉しそうな子供たちと、関心したように拍手を送る大人たち。
──と、
「……!!」
セレナは目を見張る。
民衆のわずかな隙間から、紺色のローブをまとった男が見えたのだ。
(──あの紋章!!)
背中に刻まれた紋章を見てセレナは確信する。
王宮が放った追手だ。
タリアテッレ王国の者ではなく、セレナのもといたロゼッタ王国の、王室直属の暗殺部隊。
一度追われたことがあるから知っている。
セレナは顔を伏せて後方へ下がる。
その動作の最中、他にもいるはずの追手の位置を特定しようと視線を走らせれば、輪になって広がる人だかりの最前列で、無邪気にはしゃいでいる一人の少女の姿が目に飛び込んできた。
(っ! 馬鹿、あの娘!!)
思わず足が止まる。
娘に気を奪われていたせいで、再び追手のいた位置に視線を戻したときにはもう、男の姿は消えていた。
(レイラが危ない!!)
いち早く危機を察知したセレナはレイラの方へ駆け出す。
(あの男より早く、レイラのところへ行かないと……!!)
集団の輪から離れ、レイラの側へ向かう。
『早く!』と、急いて荒々しく踏み込むからフードが跳ね、隠していた顔が顕わになってしまうがもう、形振り構ってなどいられない。
娘のいる前列に割り込もうと、懸命に人混みをかき分ける。
すべてがスローモーションに見える景色の中、『お願いだから間に合って』と、叫びに近い祈りを捧げながら。
* * *
時が経つのも忘れて操り人形師のパフォーマンスを観ていると、突然背後から腕を引かれ驚いた。
(──!!)
振り返ってその人物の顔を確認する間もなく、声を出せないよう口元を塞がれる。
じたばたと暴れかけて止めたのは、背後から自分を包むように広がる香りが慣れ親しんだものだったから。
背後にいる人物はレイラが声を出さないのを感じ取ったのか、口元を覆っていた手を離す。
しかし息をつく暇もなく、今度は『ついてこい』と言わんばかりに手を掴んで走り出され、転びそうになる。
なんとかついて行きながら、心なし汗で湿った手には、ぎゅっ、と力が込められており、何か強い意志を感じた。
そして自分の手を引いて走るその人物の後ろ姿に、レイラは確信する。
──母様。
この人は母様だ。
でも、どうしたのだろう。
こんなに慌てて。
探しに来てくれたのだろうか。
それともやっぱり、怒っているから、こんなに強く手を掴むのだろうか。
母様、と、心の中で問いかけるように見慣れないローブを注視する。
母が纏っているそのローブは、レイラが初めて目にするものだった。
普段、レイラとセレナは街に出ることがない。
暮らしに必要なものはすべて、配達係のクロエが小屋へもってきてくれることになっていた。
だから母が外に出るときの恰好を目にするのは、これが初めてのことだった。
母はまるで自分の存在を隠すかのようにローブで体を覆っており、その紺の布地が美しいローブは、背部に銀色の糸で紋章の刺繍が施されていた。
特殊な加工が施されているのか、刺繍の紋章はよく見なければ分からない。
レイラは目を細める。
(──これは、……花? なんという花だろう?)
手を引かれて駆けながら、知っている花の名前を頭の中で数え挙げる。
そして落胆する。
幼いレイラの知っている花の中に、該当するものはなさそうだ。
セレナは分厚い人だかりの壁を通り抜け、連なる露店の脇をくぐり、林へ繋がる物静かな裏路地へ入っていく
レイラはもう息も絶え絶えで、もつれる足を止めて休みたかったが、セレナがそれを許さない。
止まりそうになるレイラの手をぎゅ、と握り直し、その力の込め方一つで、《頑張って》と鼓舞されているのが伝わってきた。
肺が痛むのを堪え、懸命に母についていく。
裏路地を抜けて林の中腹手前頃まできたあたりで、ようやく母の歩みが止まる。
セレナはレイラから手を放し、膝に手を当てて呼吸を整えながら、「ここまでくれば……、」と掠れた声で呟く。
レイラはその場に座り込み、ゼェ、ハァと肩で息をする。
セレナはそれでもなお、林の入り口に目をやり、追手が来ていないか確認する。
追手の姿は見られない。
視線を戻したセレナと視線がかち合い、レイラは乾いた喉で「かあさ……、」と声を絞り出す。
続けて言葉を紡ごうとした、そのときだった。
「危ない!!」
セレナがレイラの方へ飛び込んでくる。
パァァァアアン!!
突如として銃声が響き渡る。
空が割れそうな、鋭利で重たい音。
大きな音に驚き、とっさに目をつぶったレイラが、次に目を開けたときにはもう、セレナはレイラを守るように抱きしめ、木々の乱立する獣道を転がり落ちていた。
木の幹に体を打ち付けて、「うっ」と母が呻くたび、レイラは泣きそうになる。
一体なにが、起こっているの。
どうやらことによると、追手の方が一枚上手だったらしい。
レイラとセレナを狙う追手は、何も一人や二人ではなかったのだ。
追手は林の中にも潜んでいて、要するに上手く誘導されたらしい。
人目を気にしなくて済む林の中で、向こうの手中に収まった二人は格好の餌食だった。
セレナはもう、すべてを察し、覚悟を決めた。
遅かれ早かれ、いつかこういう日がやってくると、心のどこかで腹をくくっていたのかもしれない。
「逃げて、レイラ」
「な……、に言って……」
ふるふるとレイラは首を振る。
脇腹を撃たれ、セレナは身動きがとれない。
一緒には逃げられない。
母の服を染める赤黒い鮮血に、レイラの視界はチカチカと点滅する。
動悸が激しくなり、息が苦しい。
「早く!!」
声を荒げ、急かすセレナ。
「いやだ……、」
「行きなさい!!」
レイラは首を振り、泣きじゃくる。
一人で逃げて生き延びるくらいなら、ここで一緒に死んだ方がいい。
「一人は嫌だよ、母様」
腕に縋りつく娘の必死な言葉。
これが娘との、最後の会話になるかもしれない。
セレナは愛しい娘の頬を撫でる。
「そうね、一人は怖いわよね。レイラの気持ち、よくわかる」
土と血の付いた綺麗な手に、レイラの温かい涙が伝う。
「でもね、レイラ、言ったでしょう? レイラとママは?」
それは幼い頃から母が何度もくれた、魔法の言葉だった。
「一心同体」
「そう、レイラとママはいつでも一緒。一人のときも、独りじゃない」
それを忘れないで、と、セレナは指輪を外し、レイラの手に握らせる。
ちょうどその時、向かいの茂みがごそごそと動き、敵かと身構えたが、「セレナ様!!」とクロエが顔を出した。
セレナの顔に希望が宿る。
「クロエちゃん、ここまで探しに来てくれたのね。ありがとう」
これで安心して任せられる、とセレナは微笑む。
腹部の出血が止まらない。
セレナの瞳が霞んでいく。
「母様……、」
話すのもやっとの母に、離れまいとレイラは手を伸ばす。
「大丈夫よ、レイラ。レイラなら絶対、この先何があっても大丈夫」
最後の力を振り絞ってレイラの手をとり、抱き寄せて額にキスをする。
「だって私の娘だもの。──信じて。愛してる」
レイラが気を緩めたその瞬間、クロエに後ろから抱き上げられ、セレナから引き離される。
セレナはクロエに向かって頷き、クロエも頷き、踵を返す。
「母様!!」
たまらず叫ぶとクロエに口を塞がれる。
追手がレイラの声に気づき、近づいてくる。
出血が酷くて意識を保っているのがやっとだというのに、死力を尽くしてセレナは立ち上がり後ろを向く。
両手を広げ、まるでここは通さないとでもいうように。
そこへ容赦なく銃声が響き渡る。
音がする度、母の身体から血潮が跳ねる。
それでも母は、膝が折れそうになっても、レイラとクロエを庇い、最期まで震える足で立っていた。
レイラからは見えない表で、『死にたくない』と、『まだ娘の側にいたかった』と涙を流しながら。
その様子をレイラはクロエの肩口からずっと見ていた。
(もうやめて……!!)
声にならない悲鳴。
魂を焼かれるような憤怒。
爪が皮膚にめり込むほど強くこぶしを握り締めてクロエの肩を叩くが、クロエは足を止めてくれない。
不意に暴れて動かした手がクロエの頬を叩く。
「あ……、」
謝ろうとクロエを見て言葉を失う。
クロエは泣いていた。
当たった拍子に爪でひっかいてしまい、クロエの頬にはうっすら血が細い線となり滲んでいた。
その傷の上を涙が伝っていく。
涙と血が混ざりあい、まるで血の涙を流しているかのよう。
悔しさに唇を噛みしめて、それでもこらえきれずに零れ落ちる。
クロエのその横顔に、レイラのこぶしは行き場を失う。
──許さない。
レイラはじっと、母を殺めた追手たちを涙目で睨みつけ、しゃがれた声で慟哭をあげた。
* * *




